#76 ちいさいの
9月の初めの朝。
夏の終わりの、まだ暑い朝。
僕は、モチの爪を切っていた。
いつもの手順だ。蜂蜜を舐めさせて、腹の下に潜り込んで、脚を引っ張り出して、鋸で削る。
今日は、後ろ肢だった。
後ろ肢の爪は、前肢より太い。1本削るのに、10分かかる。1本目。2本目。
3本目。
いちばん太い爪だ。鋸の刃を当てて、少しずつ、少しずつ。
モチは寝ている。10秒に1回の寝息が、腹の下にいる僕の顔に、ぬるい風になって当たる。
いちばん、集中していた。
鋸を引く手に、全部の神経を集めていた。
——頭の中に、声が、落ちてきた。
『ちいさいの』
——鋸が、手から落ちた。
からん、と、獣舎の床で音がした。
『……な……に……』
モチが、目を開けた。
「……え」
僕は、モチの腹の下で、仰向けのまま、固まっていた。
今の、声。
低くて。重くて。岩が擦れ合うみたいな。
全部思い出す。
去年の冬、北の山の岩棚で、4時間しゃがんで待ったあとに、聞いた声。
1月の雪原で、上空から『いちど、だけ』と言った声。
「……オーガス?」
——念話は、半径10kmまでしか届かない。
北の山は、ここから何百kmも離れている。
届くはずがない。
でも、届いた。
去年の冬と、同じだ。僕が繋いだのではない。向こうが、勝手に届かせてきたのだ。
格が、違いすぎるのだ。
僕は、モチの腹の下から這い出して、獣舎の床に座り込んで、北のほうを向いた。
『オーガスさん?』
送った。
『オーガスさん。聞こえてますか』
——何も、返ってこなかった。
『あの、何か、ありましたか』
何も。
『……もしもし?』
何も。
北の空は、晴れていた。夏の終わりの、白っぽい青空だった。
それきり、黙っていた。
——モチが、僕を見ていた。
『……しろいの……』
「うん」
『……つめ……』
「あ」
後ろ肢の爪が、3本目の途中で止まっていた。
「ごめん、あとで——」
言いかけて、口を閉じた。
獣舎の隅で、アズキが、耳を立てていた。
「……今、やる。今」
でも、手が震えて、鋸が握れなかった。
——その日1日、僕は落ち着かなかった。
獣舎の掃除をしていても。ヒバリの鞍を着けていても。子イタチを外套のフードから出していても。
ずっと、北のほうが気になった。
また、来るのではないか。
来たら、何を言われるのか。
——昼。
食堂で、ドーラの粥を食べていた。
夏でも、ドーラの粥は熱い。「夏こそ、熱いものを食べな。汗をかけば涼しくなる」と言って、湯気の立つ椀を出してくる。
僕は、匙で粥をすくって、ふうふう吹いて、口に入れた。
——頭の中に、落ちてきた。
『……たまご』
——粥を、吹いた。
口の中の粥が、全部、卓の上に。
向かいで食べていたトトの顔にも、少しかかった。
「兄ちゃん!?」
「……ごめん」
「なんで!?」
「……今、たまご、って」
「たまご?」
「竜が、たまごって」
トトは、顔の粥を拭きながら、首を傾げていた。
僕は、北のほうを向いて、送った。
『オーガスさん。たまご、って、なんですか』
——何も、返ってこなかった。
言いたいことだけ言って、黙る。
去年の冬も、そうだった。
『めんどう』と言って、黙った。『いちど、だけ』と言って、黙った。
この竜は、会話をしない。
自分の言いたいことを、言いたいときに、落としてくるだけだ。
——午後。
獣舎の前を通りかかったら、モチが、変な歩き方をしていた。
右の後ろ肢を、少し浮かせるようにして。ひょこ、ひょこ、と。
「モチ?」
僕は、しゃがんで、モチの後ろ肢を見た。
右の後ろ肢の爪が、3本目の途中まで削れて、4本目と5本目は、長いままだった。
左右で、爪の長さが違う。
だから、地面に足をつくと、長いほうの爪が先に当たって、足が傾く。
『……あし……へん……』
「うん。ごめん。朝、途中でやめたから」
僕は、蜂蜜の壺を取りに行った。
鋸を持った。
モチの腹の下に、潜り込んだ。
400kgの、白い腹の下。
「……今度こそ、最後まで、やるから」
『……ねる……』
「寝てていいよ。寝返りだけ、打たないで」
『……ねる……』
——3本目の続き。
4本目。
5本目。
途中で、モチが1回、寝返りを打とうとした。
「待って! 待って待って!」
『……ねる……』
「死ぬ!」
腹の下から、トトが引っ張り出してくれた。
5本目を削り終えたとき、モチは、ぐうぐう寝ていた。
起き上がって、歩いてもらった。
ひょこひょこが、なくなっていた。
『……あし……いい……』
「うん。よかった」
——夜。
寝台に、横になっていた。
胸の上に、子イタチが5匹。フデ、ハネ、トメ、ブン、チン。
5匹で、たぶん2kg。胸の上が温かくて、少し苦しい。
5つの小さな寝息が、ばらばらに、1秒に1回くらい。
僕は、天井を見ていた。
眠れなかった。
——落ちてきた。
『しりあいの』
僕は、跳ね起きた。
胸の上の子イタチが、5匹とも、ころころと布団の上に転がった。
「……しりあいの、たまご?」
知り合いの、卵。
『オーガスさん! 知り合いの卵って、なんですか! 誰の卵ですか!』
——何も。
返ってこなかった。
言いたいことだけ。
朝に『ちいさいの』。
昼に『たまご』。
夜に『しりあいの』。
1日かけて、3つ。
——僕は、寝台から降りた。
外套をつかんで、部屋を出た。
子イタチが、5匹とも、フードとポケットに飛び込んできた。
回廊を走った。
書庫の3階の窓が、明るかった。
——ヴィルマは、いつもの卓にいた。
夜更けの書庫で、1人で、羊皮紙に何か書きつけていた。
「ヴィルマさん」
ヴィルマが、顔を上げた。
「……こんな時間に、どうされました」
僕は、1日のことを、全部話した。
朝の『ちいさいの』。昼の『たまご』。夜の『しりあいの』。
ヴィルマは、黙って聞いていた。
聞き終えて、羽根ペンを置いた。
「……先月の、雨の日を、覚えていますか」
「はい」
「リオ殿の置いていった、海の記録」
ヴィルマは、棚から、あの巻物の箱を下ろした。
1本を開いて、ある行を、指で示した。
僕には読めない。
でも、何が書いてあるのかは、覚えていた。
アーリアが、読み上げてくれたから。
「『竜は、自らの卵を温めず』」
ヴィルマが、静かに読んだ。
「『千年に1度、信じたる者に、託す』」
——書庫が、シンとした。
僕の顔から、血の気が、引いていった。
自分でも、分かった。
「……託す」
「知り合いの、卵」
ヴィルマは、巻物を巻き戻した。
「そして、あなたの名前を、呼んでいる」
「僕の名前じゃないです。『ちいさいの』です」
「あの竜にとっては、それが、あなたの名前でしょう」
——書庫の階段を、誰かが上がってきた。
重い足音と、爪の音。
王だった。
寝間着の上に外套を1枚。足元に、バウ。
「……綿貫殿の部屋の前を通ったら、扉が開いておって」
王は、また眠れなかったらしい。
「何ごとだ」
僕が、もう1度、話した。
王の顔色が、変わっていった。
最後まで聞いて、王は、書庫の椅子の背を、両手で掴んだ。
「……竜の、卵」
王の膝が、震えていた。
「星5つの、7件目の、古竜が……知り合いの、卵を……」
——書庫の入口から、もう1つ、声がした。
「竜の卵!?」
トトだった。
寝間着で。裸足で。記録帳を胸に抱えて。
僕が部屋を飛び出したのを、獣舎の窓から見て、ついてきたらしい。
「兄ちゃん、竜の卵!? 竜の卵が来るの!?」
トトの目が、きらきらしていた。
王とは、正反対の顔だった。
「すげえ! すげえよ、兄ちゃん!」
「すごくないよ! まだ、何も分かってないんだよ!」
「でも竜の卵だよ!」
王が、椅子の背を掴んだまま、震えていた。
トトが、記録帳を抱えたまま、跳ねていた。
ヴィルマが、無表情で、2人を見ていた。
僕の外套のフードの中から、ブンとチンが、顔を出していた。
——北の山から、それきり、声は来なかった。




