#75 花束は、今日も
8月の終わりの、なんでもない日のことを話す。
——朝は、獣舎の掃除から始まる。
47体。
そのうち、王宮にいるのは45体。北の国境にニビがいて、南の海にコンブがいる。
45体ぶんの糞は、桶で14杯。夏なので、凍らない。凍らないので、重い。匂いもする。冬の、あの軽さが、懐かしい。
「兄ちゃん、氷牙狼のとこ、まだ終わってない!」
「今行く」
「あと、ボロがまた戸を開けた!」
去年の冬から、何も変わっていない。
ボロは、今でも掛け金を外す。アズキが教えたと、僕は今でも睨んでいる。
——トトが、腕を曲げて、見せに来た。
「兄ちゃん、見て!」
毎朝、見せに来る。
コナの穴を埋め戻すようになって、5ヶ月。12歳の細い腕に、確かに、小さな力こぶができていた。
「……うん。太くなった」
「だろ!?」
今日のは、嘘ではなかった。
——モチの爪切り。
これは、今でも、命がけである。
蜂蜜を舐めさせる。腹の下に潜り込む。400kgの腹の下である。前肢を引っ張り出して、鋸で削る。
モチは、寝ている。
寝返りを打とうとする。
「待って」
『……ねる……』
「待って、今、僕、下にいるから」
『……ねる……』
「死ぬ! 死ぬから!」
今日は、1回死にかけた。
冬よりは、上達したと思う。
——子イタチが、いなくなった。
5匹とも。
朝の点呼で、フデもハネもトメもブンもチンもいなかった。
スミに聞いた。スズリに聞いた。
2匹とも、僕を見て、首を傾げた。
それだけだった。
スミは、日だまりで、のんびり尻尾の先を毛づくろいしていた。スズリは、ふわあ、と小さなあくびをして、スミの横で丸くなり直した。
5匹が、そろって、いなくなったというのに。
——まるで、子どもたちがどこにいるのか、とっくに知っているみたいに。
トトと2人で、獣舎の隅から隅まで、書庫の棚の下まで探した。
見つからなかった。
昼前、外套を着ようとして、持ち上げた。
フードとポケットから、白いものが、ころころころころころ、と転がり出てきた。
5匹。
「……またか」
ブンだけ、外套の裏地と同じ、薄茶色になっていた。
——ヒバリの鞍を、着けた。
右の脇腹に、腹帯を回す。
そこには、もう、何の痕もない。
なめらかな、灰色の皮膚だけだ。2月の終わりに、エステルが3時間かけて戻してくれた。
腹帯を締めても、ヒバリは、身じろぎひとつしない。
『ひと』
「うん」
『とぶ』
「うん。いってらっしゃい」
リーゼを乗せて、ヒバリが、夏の空へ上がっていった。
——昼、厨房から、ドーラが来た。
汗だくだった。
8月の終わりの厨房は、窯の熱で、とんでもない暑さになる。
「坊主。頼みがある」
「はい」
「あの、でっかい白いのを、貸しておくれ」
「ギンですか?」
「そう。氷を作れるんだろう」
——ギンを、厨房に連れていった。
体長2.4m。今朝、トトが量った。干し草の天秤で、片方にモチ、もう片方にギンと砂袋。砂袋は、100kgで釣り合った。
「400ひく100で、300!」
2月に225kg。5月に260kg。今日、300kg。
伸び方が、少し、緩やかになってきた気がする。
それでも、厨房の入口は、ギンには狭かった。肩を、ぎゅっと縮めて、横向きに、なんとか入った。
厨房の中は、窯の熱で、空気が揺れていた。
ギンが、耳を倒した。
『……あつい』
「うん。暑いね」
ドーラが、大きな木のたらいを指さした。
「あれに、水を張ってある。果物を冷やしたいんだよ。井戸の水じゃ、ぬるくてね」
僕は、ギンに頼んだ。
これは、借りるのではない。ギンの力を、ギンに使ってもらう。
『ギン。おねがい。みず、つめたく』
ギンは、たらいを見た。
それから、厨房の中を、ぐるりと見回した。
窯。鍋。汗だくの料理人たち。
そして、ふう、と、息を吐いた。
——厨房が、冬になった。
たらいの水が、一瞬で凍った。
凍っただけではなかった。
窯の前の空気が、白くなった。料理人たちの息が、白くなった。天井の梁に、霜が降りた。鍋の縁に、つららが下がった。
8月の、真夏の厨房で。
「……」
料理人たちが、動かなかった。
1人が、自分の吐いた白い息を、呆然と見ていた。
1人が、鍋のつららを、指でつついていた。
ドーラが、腕を組んで、霜の降りた天井を見上げていた。
それから、言った。
「……果物だけで、よかったんだけどね」
「すみません」
「いいよ。涼しい」
ドーラは、凍ったたらいから、氷漬けになった杏を1つ、取り出した。
かじった。
「うん。いい冬だ」
天気の話だった。
——夕方、宝物庫へ行った。
ヴィルマの、月に1度の計測に、同行を頼んだ。
今月の立ち会いは、王だった。
「……また、見に行くのか」
鍵の束を持った王が、少しだけ、困った顔をしていた。
「はい」
「帰らぬと、決めたのだろう」
「はい」
王は、それ以上、何も聞かなかった。
——3枚の扉を、1枚ずつ開けて。
いちばん奥の、台の上に。
白い花束があった。
召喚から、1年と、1ヶ月と少し。
——1枚も、枯れていなかった。
ヴィルマが、花びらを数えた。214枚。
「変化なし」
僕は、ほっとした。
ほっとして、それが、後ろめたかった。
帰らないと、決めたのだ。
決めたのに、見に来てしまう。
見に来て、枯れていないことに、ほっとしている。
——母の顔を、思い浮かべた。
——陽菜の顔を、思い浮かべた。
あの2人は、今も、僕を探しているだろうか。
もう、探すのをやめただろうか。
どちらのほうが、いいのだろう。
分からなかった。
——扉を、閉めた。
王が、鍵をかけた。
1枚目。2枚目。3枚目。
最後の鍵が、かちりと鳴った。
「……綿貫殿」
「はい」
「余は、あれが枯れる日を、恐れておるのか、待っておるのか、今でも分からん」
「……僕もです」
王は、少しだけ笑って、僕の肩を、ぽんと叩いた。
——帰り道。
中庭を通ったら、ヒバリが降りてきていた。
夕方の飛行から、戻ったところだった。リーゼが、鞍を外していた。
ヒバリは、北を見ていた。
王都の向こう。ずっと遠くの、山の連なりのほうを。
2月の終わりに、同じ場所で、同じように、北を見ていた。
あのとき、この子は、こう言った。
『おおきいの、いない』
——今日は、違った。
『おおきいの』
『いる』
僕は、北の空を見た。
夕焼けの空に、山の連なりが、黒く浮かんでいた。
「……帰ってきたんだ」
北の山の、岩棚に。
春に、南へ渡っていった、あの大きな影が。
「おかえり」
小さく、言ってみた。
届くはずがない。北の山は、ここから何百kmも離れている。
でも、言ってみた。
——ツグミが、手紙を運ばない。
それは、夕食のあとに分かった。
国境の獣舎のニナへ、手紙を送るつもりだった。ニビの様子を聞くための。書くのは、トトに頼んだ。
ツグミの足に、手紙を結ぼうとしたら、ツグミが、翼で僕の手を払った。
『……あつい』
「暑い?」
『そら、あつい』
——空が、暑い。
僕は、少し考えて、分かった。
夏の昼間の空は、地面から熱が上がってくる。この子は、毎回、昼間に飛ばされていたのだ。
「ごめん。じゃあ、朝と、夕方に飛ぶことにしよう。涼しいときに」
『……あさ』
「うん。明日の朝」
ツグミは、翼をたたんで、止まり木の上で、目を閉じた。
——夜、寝台に横になった。
胸の上に、フデとハネ。脇に、トメ。フードの中に、ブンとチン。枕に、スミとスズリ。
頭の上に、ソラ。足元に、アズキとススキ。
寝台の横の床に、ギン。300kg。
窓の外で、夏の虫が鳴いていた。
獣舎からも、寝息が、聞こえてくる気がした。
1度も、揃わないまま。




