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75/87

#75 花束は、今日も

8月の終わりの、なんでもない日のことを話す。


——朝は、獣舎の掃除から始まる。


47体。


そのうち、王宮にいるのは45体。北の国境にニビがいて、南の海にコンブがいる。


45体ぶんの糞は、桶で14杯。夏なので、凍らない。凍らないので、重い。匂いもする。冬の、あの軽さが、懐かしい。


「兄ちゃん、氷牙狼のとこ、まだ終わってない!」


「今行く」


「あと、ボロがまた戸を開けた!」


去年の冬から、何も変わっていない。


ボロは、今でも掛け金を外す。アズキが教えたと、僕は今でも睨んでいる。


——トトが、腕を曲げて、見せに来た。


「兄ちゃん、見て!」


毎朝、見せに来る。


コナの穴を埋め戻すようになって、5ヶ月。12歳の細い腕に、確かに、小さな力こぶができていた。


「……うん。太くなった」


「だろ!?」


今日のは、嘘ではなかった。


——モチの爪切り。


これは、今でも、命がけである。


蜂蜜を舐めさせる。腹の下に潜り込む。400kgの腹の下である。前肢を引っ張り出して、鋸で削る。


モチは、寝ている。


寝返りを打とうとする。


「待って」


『……ねる……』


「待って、今、僕、下にいるから」


『……ねる……』


「死ぬ! 死ぬから!」


今日は、1回死にかけた。


冬よりは、上達したと思う。


——子イタチが、いなくなった。


5匹とも。


朝の点呼で、フデもハネもトメもブンもチンもいなかった。


スミに聞いた。スズリに聞いた。


2匹とも、僕を見て、首を傾げた。


それだけだった。


スミは、日だまりで、のんびり尻尾の先を毛づくろいしていた。スズリは、ふわあ、と小さなあくびをして、スミの横で丸くなり直した。


5匹が、そろって、いなくなったというのに。


——まるで、子どもたちがどこにいるのか、とっくに知っているみたいに。


トトと2人で、獣舎の隅から隅まで、書庫の棚の下まで探した。


見つからなかった。


昼前、外套を着ようとして、持ち上げた。


フードとポケットから、白いものが、ころころころころころ、と転がり出てきた。


5匹。


「……またか」


ブンだけ、外套の裏地と同じ、薄茶色になっていた。


——ヒバリの鞍を、着けた。


右の脇腹に、腹帯を回す。


そこには、もう、何の痕もない。


なめらかな、灰色の皮膚だけだ。2月の終わりに、エステルが3時間かけて戻してくれた。


腹帯を締めても、ヒバリは、身じろぎひとつしない。


『ひと』


「うん」


『とぶ』


「うん。いってらっしゃい」


リーゼを乗せて、ヒバリが、夏の空へ上がっていった。


——昼、厨房から、ドーラが来た。


汗だくだった。


8月の終わりの厨房は、窯の熱で、とんでもない暑さになる。


「坊主。頼みがある」


「はい」


「あの、でっかい白いのを、貸しておくれ」


「ギンですか?」


「そう。氷を作れるんだろう」


——ギンを、厨房に連れていった。


体長2.4m。今朝、トトが量った。干し草の天秤で、片方にモチ、もう片方にギンと砂袋。砂袋は、100kgで釣り合った。


「400ひく100で、300!」


2月に225kg。5月に260kg。今日、300kg。


伸び方が、少し、緩やかになってきた気がする。


それでも、厨房の入口は、ギンには狭かった。肩を、ぎゅっと縮めて、横向きに、なんとか入った。


厨房の中は、窯の熱で、空気が揺れていた。


ギンが、耳を倒した。


『……あつい』


「うん。暑いね」


ドーラが、大きな木のたらいを指さした。


「あれに、水を張ってある。果物を冷やしたいんだよ。井戸の水じゃ、ぬるくてね」


僕は、ギンに頼んだ。


これは、借りるのではない。ギンの力を、ギンに使ってもらう。


『ギン。おねがい。みず、つめたく』


ギンは、たらいを見た。


それから、厨房の中を、ぐるりと見回した。


窯。鍋。汗だくの料理人たち。


そして、ふう、と、息を吐いた。


——厨房が、冬になった。


たらいの水が、一瞬で凍った。


凍っただけではなかった。


窯の前の空気が、白くなった。料理人たちの息が、白くなった。天井の梁に、霜が降りた。鍋の縁に、つららが下がった。


8月の、真夏の厨房で。


「……」


料理人たちが、動かなかった。


1人が、自分の吐いた白い息を、呆然と見ていた。


1人が、鍋のつららを、指でつついていた。


ドーラが、腕を組んで、霜の降りた天井を見上げていた。


それから、言った。


「……果物だけで、よかったんだけどね」


「すみません」


「いいよ。涼しい」


ドーラは、凍ったたらいから、氷漬けになった杏を1つ、取り出した。


かじった。


「うん。いい冬だ」


天気の話だった。


——夕方、宝物庫へ行った。


ヴィルマの、月に1度の計測に、同行を頼んだ。


今月の立ち会いは、王だった。


「……また、見に行くのか」


鍵の束を持った王が、少しだけ、困った顔をしていた。


「はい」


「帰らぬと、決めたのだろう」


「はい」


王は、それ以上、何も聞かなかった。


——3枚の扉を、1枚ずつ開けて。


いちばん奥の、台の上に。


白い花束があった。


召喚から、1年と、1ヶ月と少し。


——1枚も、枯れていなかった。


ヴィルマが、花びらを数えた。214枚。


「変化なし」


僕は、ほっとした。


ほっとして、それが、後ろめたかった。


帰らないと、決めたのだ。


決めたのに、見に来てしまう。


見に来て、枯れていないことに、ほっとしている。


——母の顔を、思い浮かべた。


——陽菜の顔を、思い浮かべた。


あの2人は、今も、僕を探しているだろうか。


もう、探すのをやめただろうか。


どちらのほうが、いいのだろう。


分からなかった。


——扉を、閉めた。


王が、鍵をかけた。


1枚目。2枚目。3枚目。


最後の鍵が、かちりと鳴った。


「……綿貫殿」


「はい」


「余は、あれが枯れる日を、恐れておるのか、待っておるのか、今でも分からん」


「……僕もです」


王は、少しだけ笑って、僕の肩を、ぽんと叩いた。


——帰り道。


中庭を通ったら、ヒバリが降りてきていた。


夕方の飛行から、戻ったところだった。リーゼが、鞍を外していた。


ヒバリは、北を見ていた。


王都の向こう。ずっと遠くの、山の連なりのほうを。


2月の終わりに、同じ場所で、同じように、北を見ていた。


あのとき、この子は、こう言った。


『おおきいの、いない』


——今日は、違った。


『おおきいの』


『いる』


僕は、北の空を見た。


夕焼けの空に、山の連なりが、黒く浮かんでいた。


「……帰ってきたんだ」


北の山の、岩棚に。


春に、南へ渡っていった、あの大きな影が。


「おかえり」


小さく、言ってみた。


届くはずがない。北の山は、ここから何百kmも離れている。


でも、言ってみた。


——ツグミが、手紙を運ばない。


それは、夕食のあとに分かった。


国境の獣舎のニナへ、手紙を送るつもりだった。ニビの様子を聞くための。書くのは、トトに頼んだ。


ツグミの足に、手紙を結ぼうとしたら、ツグミが、翼で僕の手を払った。


『……あつい』


「暑い?」


『そら、あつい』


——空が、暑い。


僕は、少し考えて、分かった。


夏の昼間の空は、地面から熱が上がってくる。この子は、毎回、昼間に飛ばされていたのだ。


「ごめん。じゃあ、朝と、夕方に飛ぶことにしよう。涼しいときに」


『……あさ』


「うん。明日の朝」


ツグミは、翼をたたんで、止まり木の上で、目を閉じた。


——夜、寝台に横になった。


胸の上に、フデとハネ。脇に、トメ。フードの中に、ブンとチン。枕に、スミとスズリ。


頭の上に、ソラ。足元に、アズキとススキ。


寝台の横の床に、ギン。300kg。


窓の外で、夏の虫が鳴いていた。


獣舎からも、寝息が、聞こえてくる気がした。


1度も、揃わないまま。


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