#74 国境の獣舎
8月の半ば。
国境の獣舎が、完成した。
停戦協定で決めた、両国で建てて、両国で世話をする、あの獣舎だ。
開所式に、王国からも誰か出てほしい、と帝国から手紙が来た。
王都から、ヴァルデン砦まで、馬で3日。そこから国境の獣舎まで、徒歩で1時間ほど。
秋の収穫の前で、騎竜団も王宮も、手が離せない時期だった。往復で数日も空けられる者は、誰もいなかった。
「行けませんね」
僕が言うと、オズワルドが唸った。
「騎竜団の飛竜なら、1日で着く。だが、帝国の空を、王国の竜が飛ぶわけにはいかん」
「砦までなら、王国の空ですよ」
「砦から先がな。飛竜を砦に預けるとなると、人も増やせばならん」
——そのとき、僕の頭の上で、ソラが、言った。
『……みえる』
「ソラ?」
『あそこ、みえる』
——僕は、思い出した。
5月の終わり。ヴァルデン砦を出て、王都へ帰る日の朝。
荷馬車の荷台の上で、ソラは、ずっと、砦のほうを振り返っていた。砦が丘の向こうに隠れるまで。隠れてからも、しばらく。
目に、焼きつけるみたいに。
『ソラ。とりで、みえる?』
『みえる!』
——試してみることにした。
王宮の中庭で。
僕と、オズワルドと、トト。3人。
ハネが、僕の肩に。バンが、足元に。ソラが、頭の上に。
「本当に、跳ぶのか」
オズワルドが、兜を両手で抱えて、青い顔をしていた。
「ルーセでは、崖の上から丘まで、跳べました」
「ルーセの崖と丘は、何mだ」
「400mくらいです」
「ヴァルデン砦までは、何kmだ」
「……たくさんです」
オズワルドの顔が、さらに青くなった。
トトは、飛び跳ねていた。
「兄ちゃん、早く! 早く!」
——僕は、1体ずつ、頼んだ。
『ハネ、おねがい』
『いっしょ!』
『バン、おねがい』
『いっしょ!』
『ソラ、おねがい。とりで、いっしょに、とぶ?』
ソラの目が、重なった絵の中から、1枚を選んだ。
僕にも、見えた。
石の城壁。北を向いた稜堡。中庭の、石畳。井戸。
5月の終わりの、朝の光。
ソラが、見たままの、あの景色。
『いっしょ!』
——ふっ、と、体が軽くなった。
瞬きを、1回。
——空気が、変わった。
匂いが違った。王都の、夏の、干し草と石の匂いではない。
北の、風の匂いだった。
8月なのに、少し冷たい。
目を開けた。
石の城壁。北を向いた稜堡。中庭の石畳。
ヴァルデン砦だった。
「……着いた」
僕は、呟いた。
隣で、トトが、口を開けたまま、周りを見回していた。
オズワルドは——。
いなかった。
「オズワルドさん!?」
「……こ、ここだ」
声は、足元から聞こえた。
中庭の井戸の縁に、オズワルドが、しがみついていた。
体の半分が、井戸の中に入っていた。
跳んだ先が、ちょうど井戸の縁だったらしい。ソラが覚えていた景色の、井戸のすぐ横に。オズワルドは、そこで足を踏み外したのだ。
僕とトトで、騎竜団長を、井戸から引っ張り上げた。
オズワルドは、中庭の石畳の上に座り込んだ。兜を抱えたまま、しばらく動かなかった。
「……瞬きひとつだ」
「はい」
「王都から、瞬きひとつで、ここだ」
「はい」
「……騎竜団は、何のためにあるのだ」
——頭の上で、ソラが、ぐったりと伸びていた。
『……ねむい』
跳ぶのは、疲れる。遠くへ跳ぶほど、疲れる。
ソラは、僕の頭の上で、そのまま寝てしまった。
たぶん、1日に1往復が、限界だ。帰りは、夕方になる。
——せっかく、ここまで来たのだ。
「開所式は、今日でも構わんはずだ」
井戸の縁から立ち直ったオズワルドが、言った。
砦の守備隊が、すぐに国境の獣舎へ早馬を出してくれた。獣舎はもうできあがっていて、帝国の役人たちも、数日前から詰めている。あとは、王国から誰が来るのか、その返事を待つばかりだったのだという。
——国境の獣舎は、砦から、見回り道を1時間歩いたところにあった。
新しい、木造の、大きな建物だった。
屋根は、王国の建て方で、斜めに急。壁は、帝国の建て方で、丸太を横に積んで、隙間に苔を詰めてある。両国の大工が、半分ずつ建てたのだという。
入口の上に、看板があった。
帝国の文字と、王国の文字で、同じことが書いてある。
僕には、どちらも読めない。
トトが、読み上げてくれた。
「『獣の、家』」
——僕たちが現れたことで、急遽行われた開所式は、短かった。
帝国の役人が1人、王国側の代表として、オズワルドが1人、挨拶をした。オズワルドは、井戸のことで、まだ少し顔色が悪かった。
それから、総監飼官が、紹介された。
ニナだった。
帝国と王国の、両方の色を使った、新しい制服を着ていた。紺色の上着に、灰色の襟。
少しだけ、誇らしそうだった。
背筋を伸ばして、両手を体の前で組んで、顎を少し上げて。
ラウが、足元で、同じように顎を上げていた。
「ユウマさん」
ニナが、僕を見つけて、駆け寄ってきた。
「どうやって、ここに」
「跳んできました」
「……跳んで?」
「頭の上の子が」
ニナは、僕の頭の上で寝ているソラを見て、それから、何も聞かなかった。
「……来てくださって、ありがとうございます」
——獣舎の奥から、何かが、走ってきた。
灰色の、大きな狼。
耳の縁が、3箇所、欠けていた。
ニビだった。
一直線に、僕のほうへ。
速い。雪原を走る狼の速さで。
僕の、3歩手前で、止まった。
ぴたりと。
前肢を揃えて。
僕を見上げて。
——止まったのは、1秒だけだった。
次の瞬間、ニビは、僕に飛びついていた。
前肢を、僕の肩にかけて。立ち上がって。僕より背が高くなって。
顔を、舐められた。
何度も。
「ニビ、ニビ、待って、重い」
『ニビ!』
『ニビ!』
自分の名前を、叫んでいた。
僕は、ニビを抱きとめたまま、後ろにひっくり返った。
草の上に。
ニビが、上に乗ってきた。
「……3歩手前で、止まったのに」
止まったのは、たぶん、ススキの真似だった。
僕の周りの狼は、3歩の距離を守る。ニビは、それを覚えていたのだと思う。
でも、我慢できなかったのだ。
——獣舎の、隅に。
見覚えのある、灰色の外套があった。
グレゴールだった。
開所式に、帝国側の見届け人として、呼ばれていたらしい。
獣舎の隅の、藁の上に、しゃがんでいた。国境の村の、夕方の林の縁で、見たのと同じ姿勢で。
グレゴールの前に、若い狼が1頭、いた。
獣舎で預かっている、はぐれの子だ。まだ1歳くらい。
グレゴールは、手を、差し出していた。
握った手の甲を、下から、狼の鼻の高さに。
動かさずに。
若い狼が、首を伸ばした。
グレゴールの手の甲に、鼻を寄せた。
匂いを、嗅いだ。
長いこと、嗅いでいた。
グレゴールは、動かなかった。
手を引っ込めもせず、撫でようともせず。
ただ、しゃがんで、手の甲を差し出したまま。
——僕は、それを、獣舎の反対側の端から、見ていた。
近づかなかった。
声も、かけなかった。
ニビが、僕の横で、グレゴールのほうを見ていた。
低く、喉を鳴らした。
唸ったのでは、なかった。
——開所式のあと、ニナが、困った顔で、僕を呼んだ。
「水飲み場を、嫌がる子がいるんです」
獣舎の外に、大きな石の水桶が、並んでいた。北の沢から、といを使って水を引いてある。
そのうちの1つだけ、どの獣も、飲もうとしなかった。
僕は、水桶の前にいた、茶色の老犬の前にしゃがんだ。
鼻先が触れる。声が、届く。
『……つめたい』
「冷たい?」
僕は、水桶に手を入れた。
冷たかった。
でも、ほかの水桶の水と、同じ冷たさだった。同じ沢から、同じといを使って引いている。
——僕は、立ち上がって、周りを見た。
その水桶は、獣舎の建物の角に置かれている。
北から吹く風が、建物の角を回り込んで、ちょうど、その水桶の上を吹き抜けていた。
水が冷たいのではない。
水を飲むとき、首筋に当たる風が、冷たいのだ。
8月でも、ここは、もう、北の風が来る場所なのだ。
「ニナさん。この水桶、建物の、風よけの内側に、移せますか」
「……風よけ?」
ニナと、帝国の大工が2人と、ニビと、ラウとで、水桶を、建物の南側の、壁の陰に動かした。
茶色の老犬が、移した水桶に、口をつけた。
飲んだ。
長いこと、飲んでいた。
——夕方、ソラが、目を覚ました。
『……みえる』
「うん。帰ろう」
僕と、オズワルドと、トト。ハネと、バン。
ニビは、見回り道の端まで、ついてきた。
3歩手前で、止まって。
今度は、飛びついてこなかった。
『ニビ』
「うん。ニビ」
『……まつ』
「うん」
『いっしょ!』
——瞬きを、1回。
王宮の中庭だった。
夏の、夕方の、干し草と石の匂い。
オズワルドが、今度は、ちゃんと石畳の上に着地して、それから、膝から崩れ落ちた。
「……二度と、やらん」
ソラは、僕の頭の上で、また寝ていた。
——獣舎の前で、フブキが、座っていた。
北を、向いて。
片目で、ずっと遠くを見ていた。
日に1度、北を見る。
今日も、見ていた。
僕は、フブキの隣にしゃがんで、一緒に、北を見た。
見えるのは、王都の屋根と、夕焼けの空だけだった。
でも、その遠く向こうに、国境の獣舎がある。
今日、そこへ行ってきた。
ニビがいて、ニナがいて、グレゴールが、しゃがんでいた。




