#73 竜のゆりかご
8月の初めに、雨の日があった。
南の長雨とは違う、夏の、短い雨だった。朝から降り出して、夕方には止む、と、ドーラが言った。
「夏の雨は、昼寝の雨だよ」
天気の話だった。
獣たちは、本当に、昼寝をしていた。モチは獣舎の奥で。アズキは僕の寝台の上で。ギンは、回廊の日陰の、ひんやりした石の上で、腹を出して。
僕は、書庫にいた。
——リオが、帰り際に、贈り物を置いていった。
木の箱に入った、古い巻物の束だった。
「マリネアの、古い海の記録だ。船乗りたちが、何百年も書き継いできたやつの写し。竜の話も、たくさん出てくる」
リオは、そう言って、箱を僕に押しつけた。
「お前、読めないんだろ。姫に読んでもらえ」
——だから、今日、読んでもらうことにした。
書庫の3階の、いつもの卓で。
アーリアが、巻物を開いて、読み上げる。
僕が、聞く。
トトが、隣で、記録帳に書き取る。
去年の秋、帰還の方法を調べ始めたころと、同じ形だった。
違うのは、調べているものが、帰る方法ではないことだ。
「……『海の民の記』。マリネアの、古い船乗りの言葉で書かれています」
アーリアは、指で行をなぞりながら、読み上げた。
「『南の海を渡ること、30日。果ての大陸あり。山は火を抱き、森は深し。そこに、竜、住む』」
——果ての大陸。
リオが言っていた名前だった。
アーリアは、続けた。
「『竜は、自らの卵を、温めず』」
僕は、顔を上げた。
「温めない?」
「はい。そう書いてあります」
アーリアは、少し首を傾げながら、続きを読んだ。
「『竜は、自らの卵を温めず。千年に一度、信じたる者に、託す』」
——千年に1度。
信じた者に、託す。
「……竜って、卵を、人に預けるんですか」
「そう書いてありますね」
「なんで?」
アーリアは、巻物の続きを、しばらく目で追っていた。
「……理由は、書いてありません。ただ、『託された者、竜の子を育て、竜、その者を忘れず』と」
トトが、記録帳に、ものすごい速さで書きつけていた。
「兄ちゃん、竜の卵だって!」
「うん」
「竜の卵!」
「聞いてた」
——アーリアが、別の巻物を開いた。
「こちらは、ルーセの神殿の言い伝えです。同じ記録の、別の巻に」
「神殿の?」
「竜の角の、神殿です」
アーリアは、読み上げた。
「『800年の昔、北の山の竜、海を渡る。友の卵を守らんがため、自らの角を折り、帰りの道に、その角をルーセの港に置く』」
——僕は、動けなくなった。
北の山の、竜。
海を、渡った。
友の卵を、守るために。
角を、折った。
「……北の山の、竜」
僕は、呟いた。
「角の、折れた」
「ユウマさん?」
「……オーガス?」
——書庫の中が、静かになった。
窓の外で、雨が、屋根を叩いていた。
アーリアが、巻物から顔を上げて、僕を見ていた。
トトの羽根ペンが、止まっていた。
——頭の中で、何かが、並び始めた。
1つずつ。
書庫の卓の上に、見えない何かを並べていくように。
2月の終わり。ヒバリが、治った翼で、王宮の上を3周して、降りてきたとき。
北の山を見て、言った。
『おおきいの、いない』
——留守だったのだ。北の山の、岩棚が。
3月の終わり。吹雪の、峠の手前の宿場。
雲の切れ間を、何か巨大なものが、横切っていった。
星を、端から端まで隠して。
北から、南へ。
ヒバリが、言った。
『おおきいの』
『みなみ』
——南へ、渡っていったのだ。
5月。北へ向かう旅の、峠の宿場の暖炉の前。
ニナが、口ずさんでいた、帝国の古い歌。
「北の竜には、海の向こうに、友がいる」
——友が、いたのだ。
6月の終わり。ルーセの、嵐の翌朝。
海の向こうから流されてきた、白い大きな鳥。
その夜、ナギは、言った。
『あったかい、やま』
『おおきいの、ねてる』
——温かい山。
巻物には、「山は火を抱き」と書いてあった。
火を抱く山なら、温かいはずだ。
そこで、「おおきいの」が、寝ている。
——そして、ルーセの神殿の、竜の角。
800年前に折れたのに、今も、ほんのり温かい角。
その折れ口は、北の山の、あの古竜の、折れた角の根元と、同じ形をしていた。
ギンは、あの角を嗅いで、『おおきいの』と言った。
——全部、繋がっていた。
「……トト」
「なに!?」
「ナギの羽根、1本、もらってきてくれる? 抜けたやつでいいから」
トトは、雨の中を、獣舎へ走っていった。
——戻ってきたトトの手に、白い羽根が1本、あった。
大きな羽根だった。先だけ、墨を刷いたように黒い。
僕は、回廊で寝ていたギンを、書庫まで呼んだ。
ギンは、雨に濡れた足で、書庫の床に足跡をつけながら、階段を上がってきた。
書庫番の老人が、悲鳴を上げた。
「すみません、あとで拭きます」
ギンの鼻先に、羽根を差し出した。
『ギン。これ、におい、なに?』
ギンは、羽根を嗅いだ。
長いこと、嗅いでいた。
それから、顔を上げた。
『……おおきいの』
『におい』
——僕は、羽根を持ったまま、固まった。
海の向こうから来た鳥の羽根に。
北の山の古竜の匂いが、残っている。
ナギは、海の向こうで、「おおきいの」のそばにいたのだ。
温かい山で。
「おおきいの」が、寝ている、そばに。
——いつのまにか、ヴィルマが、書庫の階段の上に立っていた。
雨の日は、この人も、書庫にいる。
「……聞こえていました」
ヴィルマは、卓の上の巻物を覗き込んだ。
アーリアが、読み上げた2つの箇所を、指で示した。
ヴィルマは、それを、しばらく、黙って見ていた。
それから、言った。
「800年に1度、あの竜は、海を渡っているのかもしれませんね」
「800年に1度?」
「800年前に、渡った。そして、この春、また渡った。……友の卵を、守るために」
ヴィルマは、窓の外を見た。
「千年に1度、竜は卵を信じた者に託す。800年前に角を折って守った卵が、あるいは——」
ヴィルマは、そこで、言葉を止めた。
質問でも、答えでもない、途中で止まった言葉だった。
この人にしては、珍しいことだった。
——僕は、窓の外の、雨を見ていた。
竜の卵。
海の向こうの、火を抱く山。
800年に1度、海を渡る、北の山の古竜。
「……竜の卵、見てみたいなあ」
口から、出ていた。
竜が好きなのだ。
去年の夏、騎竜団の演習を初めて見たとき、柵に飛びついて「翼指!」と叫んだくらいには。
ヴィルマが、僕を見た。
いつもの、無表情だった。
「口にした願いは」
ヴィルマは、言った。
「たいてい、面倒な形で叶います」
——そのとき、書庫の天井から、ぽたりと、何かが落ちてきた。
卓の上の、巻物のすぐ横に。
雨漏りだった。
見上げると、天井の梁の隙間から、雨水が、ぽた、ぽた、と落ちてきていた。
「巻物が!」
アーリアが、巻物を抱え上げた。
書庫番が、桶を探しに走った。
ぽた、ぽた、ぽた。
雨漏りは、1箇所ではなかった。卓の上。棚の上。
「アサ!」
念話を、獣舎に送った。10kmまで届く。獣舎なら、すぐだ。
『アサ、おねがい。しょこ、あめ』
少しして、書庫の階段を、白い雪兎が、ぴょんぴょんと駆け上がってきた。
『いっしょ!』
アサが、書庫の真ん中で、跳んだ。
天井の下で、身を翻した。
虹色の、平たいドームが、書庫の天井の下に、広がった。
傘みたいに。
雨漏りの雫が、虹の上に落ちて、つるりと転がって、ドームの縁から、書庫の隅の、石の床へ流れていった。
巻物にも、本にも、1滴も落ちなかった。
——アサが、床に降りてきた。
ヴィルマの、足元に。
ヴィルマは、アサを見下ろしていた。
しばらく、そうしていた。
それから、しゃがんだ。
ぎこちなく。この人がしゃがむのを、僕は初めて見た。
そして、アサの背中に、そっと手を置いた。
白い毛の中に、指が、少し沈んだ。
「……柔らかいのですね」
ヴィルマが、呟いた。
アサが、ヴィルマの手の下で、鼻をひくひくさせていた。
『たのしい!』




