#72 渡り鳥には、約束しません
リオが、帰国の挨拶に来た。
7月の終わりだった。
リオは、同盟の取り決めを王都で仕上げるために、ルーセから僕らと一緒に来ていた。それも、終わった。
明日の朝、マリネアへ発つ。
「世話になった!」
獣舎の前で、リオは、いつもの大声で言った。
「こっちこそ」
「湾のことも、崖のことも。俺は一生、忘れねえ」
「コンブが、教えてくれたので」
「そういうとこだよ、お前は」
リオは、笑って、僕の肩を叩いた。今日も、痛かった。
——縁談の返事は、まだだった。
アーリアは、「考えさせてください」のままだった。
リオは、それを、急かさなかった。
「姫には、姫の時間がある」
リオは、そう言った。
「俺は、待てる男だからな。船乗りは、風を待つのが仕事だ」
それから、にかっと笑った。
「だから、結婚が決まったら、こっちでよろしくな。ユウマ」
「……こっち?」
「こっちだよ。ヴェリシア。俺が、こっちに来るんだ」
僕は、瞬きをした。
海の話になると、止まらなくなる人だ。
「リオさんは、海を離れられるんですか」
リオは、笑うのをやめた。
それから、頭を掻いた。
「……姫にも、聞かれた。まったく同じことを」
「……」
「この国にはな、もう姫しか残ってねえんだ。姉さんたちは2人とも、よその国へ嫁いだ。そんな人を、海の向こうへ連れてくわけにはいかねえだろ」
リオは、南の空のほうを見た。
「それに、俺は、ちっちゃい頃から船に乗って、あっちこっちの港を渡り歩いてきた。こっちの言葉も、北の言葉も、東の言葉も、たいてい喋れる。どこへ行ったって、困りゃしねえ」
「……」
「大事にするって、誓ったんだ。誓ったからには、第二王子の俺がこっちに来るのが筋ってもんだ。覚悟なら、とっくにできてる」
リオは、そこで、少しだけ困った顔をした。
「——なのに、姫のほうが、悩んでる。自分が、俺から海を取り上げることになるって」
「……」
「気にすんなって、言ったんだけどな。……ああいう人なんだな、姫は。自分のことより先に、相手が何をなくすかを考える」
僕は、何も言えなかった。
——その日の昼、王と、回廊ですれ違った。
王は、バウを連れていた。
「綿貫殿」
「陛下」
王は、少し立ち止まって、それから、声を落とした。
「……アーリアはな、国のためになるなら、と言っておる」
「……そうなんですね」
僕は、それしか言えなかった。
国と国の話だ。王女様の、結婚の話だ。
僕が、何か言うことではない。
王は、僕の顔を、少しのあいだ、見ていた。
何か、もっと言いたそうだった。
でも、言わなかった。
バウの頭を撫でて、歩いていった。
——夕方、中庭で、アーリアとリオを見かけた。
僕は、獣舎から、ナギの餌のウニを運んでいるところだった。
中庭の、噴水の前で。
アーリアが、リオに、深く礼をしていた。
長い礼だった。
頭を下げたまま、しばらく、動かなかった。
リオが、何か言った。
それから、笑って、アーリアに手を振った。
船乗りが、港で仲間を見送るときみたいな、大きな振り方で。
アーリアが、顔を上げた。
2人が、何を話していたのかは、聞こえなかった。
僕は、ウニの桶を抱えて、獣舎のほうへ歩いていった。
——ナギのことを、話す。
ナギは、ルーセから、僕らと一緒に王都へ来た。
荷馬車の荷台の、藁を敷いた大きな籠に入って。
右の翼は、まだ、海を渡れるほどには戻っていない。エステルが、毎日《癒し》をかけている。少しずつ、よくなっている。王宮の中庭の端から端までなら、低く飛べるようになった。
でも、海を渡るには、何ヶ月も、かかる。
——ナギは、毎朝、南を向く。
獣舎の屋根の上に登って。
南の空を、じっと見て。
そして、言う。
『かえる』
『うみ、むこう』
毎朝。
1日も、欠かさずに。
僕は、そのたびに、ナギを見上げていた。
——いつか、帰れるよ。
そう言ってあげたかった。
『いつか、かえれる』と。
でも、言わなかった。
言えなかった。
帰れるかどうか、僕には分からない。
翼が、海を渡れるほどに治るかどうか。治ったとして、海の向こうのどこへ帰ればいいのか。この子の帰る場所が、どこにあるのか。
僕は、何も知らない。
知らないのに、『かえれる』とは言えない。
——獣に、果たせるか分からない約束をしない。
それが、この1年で、僕が学んだことだった。
去年の冬、国境の雪原で、首に銀の環をはめた狼たちを見た。
『やくそく、まもって、くれる』と、疑いもせずに言った狼たちを。
果たす気のない約束を信じて、南へ歩いてきた370頭を。
獣は、嘘をつかない。
だから、人が言ったことを、そのまま信じる。
僕が『かえれる』と言えば、ナギは、それを信じる。信じて、待つ。
もし、帰れなかったら。
——僕は、屋根の上に、登った。
ナギの隣に、座った。
ナギが、長い首を回して、僕を見た。
『……ひと』
「うん」
『かえる』
「うん」
『うみ、むこう』
「うん」
僕は、南の空を見た。
夏の空だった。雲が、高いところを、ゆっくり流れていた。
あの雲の下の、ずっと向こうに、海がある。
その海の、ずっと向こうに、この子の帰る場所がある。
僕は、送った。
『いっしょ、かんがえる』
——ナギは、首を傾げた。
『……』
沈黙だった。
「かんがえる」という言葉は、まだ、この子には通じないのかもしれない。
でも、ナギは、首を傾げたまま、しばらく、僕を見ていた。
それから——。
長い首を、ゆっくり下ろして。
僕の肩に、頭をのせた。
白い、大きな頭が、僕の肩に。
羽根が、首筋に触れて、くすぐったかった。
海の匂いが、した。
ルーセを出て、もう半月以上経つのに、この子の羽根には、まだ、海の匂いが残っていた。
通じたのかどうかは、分からない。
でも、ナギは、そのまま、しばらく動かなかった。
僕も、動かなかった。
——翌朝、リオが発つ前に、ひと騒ぎあった。
王宮の匙が、全部、消えた。
厨房の。食堂の。王の私室の。客間の。
1本残らず。
朝食の卓で、ドーラが、空っぽの匙立てを見て、叫んだ。
「坊主!!」
——犯人は、2体だった。
クルミと、コンブだった。
コンブは、リオと一緒に、明日、マリネアへ帰る。桶に入って、荷馬車に乗って。
その前に、何か、しまっておきたかったらしい。
クルミは、それを見て、張り合ったらしい。
しまい込む者どうし。
最後の夜に、どちらが多くしまえるか、勝負をしていたのだ。
クルミは、頬袋に。
コンブは、脇のたるみに。
「……2体とも、出して」
僕は、中庭で、2体の前にしゃがんだ。
クルミは、頬を、ぱんぱんに膨らませて、そっぽを向いていた。
コンブは、桶の中で仰向けに浮かんで、脇を、両方の前肢で、ぎゅっと押さえていた。
『クルミ、おねがい』
『……』
『コンブ、おねがい』
『……』
2体とも、相手を見ていた。
先に出したほうが、負け、らしい。
僕は、少し考えた。
それから、2体に、同時に送った。
『いっしょに、だして』
『……いっしょ?』
クルミが、首を傾げた。
『いっしょ』
コンブが、首を傾げた。
2体は、顔を見合わせた。
それから——。
『いっしょ!』
『いっしょ!』
——ばらばらばらばらばら、と。
中庭の石畳の上に、匙が、降ってきた。
クルミの目の前の、何もない宙から。コンブの脇から。同時に。
山になった。
トトが、数えた。
「……83本!」
「83本?」
「83本!」
ドーラが、腕を組んだ。
「王宮の匙は、80本しかないよ」
——3本、多かった。
どこから来たのかは、誰にも分からなかった。
クルミも、コンブも、知らない顔をしていた。
——出発の直前に、もう1つ、小さなことがあった。
クルミが、コンブの桶の縁に、ちょこんと座っていた。
さっきまで、匙の数で張り合っていた相手の桶に。
コンブが、仰向けに浮かんだまま、クルミを見上げていた。脇のたるみを、前肢で、ぎゅっと押さえて。また何か取られると思ったらしい。
クルミは、頬を、少しだけ膨らませた。
それから、小さな手で、頬を揉んだ。
ころりと、何かが、桶の中に落ちた。
小石だった。
青みがかった、つるつるの、丸い小石。
クルミの頬袋の一覧の、〈小石〉の中の1つだ。
コンブは、水の中に沈んでいく小石を、しばらく見ていた。
それから、潜って、拾い上げた。
胸の上に乗せて、白い縞の石の隣に並べた。
2つの石を、両方の前肢で、抱えた。
クルミは、桶の縁から飛び降りて、僕の肩に戻ってきた。
知らない顔をしていた。
「……あげたの?」
『……』
「しまい込む者どうし、か」
『……いっしょ』
——リオが、荷馬車の上から、手を振った。
「じゃあな、ユウマ! また来るぜ! 今度は、俺の船でな!」
「はい!」
荷台の上の、コンブの桶の中で、コンブが、仰向けに浮かんで、胸の上で白い縞の石を抱えていた。
『いし、くれた』
『……また』
「うん。また」
荷馬車が、門を出ていった。
南へ。
獣舎の屋根の上で、ナギが、それを見送っていた。




