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#71 帰りません、と言いました

翌朝、王の私室を訪ねた。


扉を叩くと、王が、自分で開けた。


侍従ではなく、王が。寝間着の上に、外套を1枚。足元に、バウがいた。


「綿貫殿。朝から、どうした」


「お話が、あります」


王は、僕の顔を見て、少しだけ、表情を固くした。


私室に通された。暖炉には、夏なので、火が入っていなかった。卓の上に、茶と、菓子。


「……座ってくれ」


「はい」


僕は、座った。


去年の10月、この部屋で、この椅子に座って、縁談を断った。


あのときと、同じ椅子だった。


「陛下」


「うむ」


「僕、帰りません」


——王が、動かなくなった。


茶の器を、口元に運びかけたまま。


「……今、何と」


「帰りません。ここに、いることにしました」


王の手から、茶の器が、卓の上に、ことんと落ちた。


こぼれなかった。器が、まっすぐ立ったまま、卓に着地したからだ。


王は、器を見ていなかった。


僕を見ていた。


赤褐色の髭の奥で、口が、開いたり閉じたりしていた。


「……帰る術は、あるのだぞ」


「知ってます」


「花束は、まだ枯れておらん。ヴィルマの術式は、組み上がっておる。そなたは、帰れるのだぞ」


「知ってます」


僕は、言った。


「あの子たちと、離れられません」


——王が、泣いた。


肩を震わせて。


大きな体を、椅子の上で丸めて。両手で、顔を覆って。


「すまぬ……すまぬ、綿貫殿……」


「陛下、謝らないでください」


「そなたの母上に、すまぬ……妹御に、すまぬ……」


王は、泣きながら、謝り続けた。


バウが、王の膝に前肢をかけて、顔を舐めようとしていた。


僕は、椅子から降りて、王の横にしゃがんだ。


「陛下」


「……うむ」


「僕が、決めたんです。僕が、ここにいたいから」


王は、指の隙間から、僕を見た。


涙で、髭が、ぐしゃぐしゃになっていた。


「……そうか」


「はい」


「……そうか」


——その話は、昼までに、王宮じゅうに広まっていた。


トトの情報網は、今日も、僕の理解を超えていた。


厨房の前を通ったら、ドーラが、鍋を落とした。


がらんがらんと、石の床の上で、鍋が3回跳ねた。


中身は、空だった。洗ったあとの鍋だった。


ドーラは、鍋を拾わずに、僕の前まで来て、僕の顔を、両手で挟んだ。


「坊主」


「はい」


「……痩せたね」


「痩せてないです」


「痩せたよ。今夜から、皿、4枚だよ」


「多いです」


「4枚!」


ドーラは、僕の顔を離して、鍋を拾いに行った。


鍋を拾いながら、袖で、顔を拭いていた。


——獣舎の前で、トトが、飛びついてきた。


「兄ちゃん!」


「わっ」


12歳の体当たりは、思ったより、重かった。


最近、腕が太くなったのだ。コナの穴を、毎日埋め戻しているから。


「兄ちゃん! 本当!? 本当に!?」


「本当」


「ずっと!?」


「ずっと」


トトは、僕の腰に抱きついたまま、わんわん泣いた。


——回廊で、エステルに会った。


エステルは、何も聞かなかった。


僕の顔を見て、それから、少しだけ、目を細めた。


「……よかった」


それだけ言った。


それ以上、何も言わずに、歩いていった。


回廊の角を曲がる前に、1度だけ、振り返った。


振り返って、何か言いかけて、やめて、笑った。


——騎竜団の詰所の前で、リーゼに会った。


リーゼは、鞍の手入れをしていた。


僕を見て、手を止めた。


「おい」


「はい」


「聞いた」


「はい」


「……知ってた」


リーゼは、そう言って、鞍を肩に担いで、詰所の中に入っていった。


扉が、ばたんと閉まった。


あとで、騎竜団の団員から聞いた。


リーゼは、その日の昼まで、僕が帰ると思っていたらしい。


「知ってた」は、嘘だったのだ。


——ヴィルマは、何も言わなかった。


書庫で、僕が話すのを、黙って聞いていた。


聞き終えて、しばらく、羽根ペンを指で回していた。


それから、1つだけ、質問をした。


「あなたの母上は、字をお読みになりますか」


——僕は、首を傾げた。


「……読みますけど」


日本語なら。当たり前だ。


ヴィルマは、頷いた。


それだけだった。


「花束は、どうなさいますか」


「……枯れるまで、宝物庫に置いといてください」


「契約は」


「そのままで」


ヴィルマは、もう1度、頷いた。


そして、書庫の奥の、自分の卓へ戻っていった。


——その夜も、書庫の灯りは、消えなかった。


獣舎の見回りのとき、中庭から見上げたら、書庫の3階の窓が、ずっと明るかった。


何を調べているのかは、知らない。


帰還術式は、もう組み上がっている。僕は、それを使わないと決めた。


なのに、あの人は、まだ、書庫にいる。


——夕方、回廊で、アーリアに会った。


報告しなければ、と思っていた。


帰還方法の調査を、去年の秋から、ずっと手伝ってくれた人だ。毎日2時間、古語を読み上げてくれた人だ。


「アーリア様」


「ユウマさん」


アーリアは、回廊の窓辺に立っていた。夕日が、金褐色の髪を、赤く照らしていた。


「聞きました。……お残りに、なるのですね」


「はい」


「そう、ですか」


アーリアは、窓の外を見た。


「ずっと、調べてくださったのに、すみません」


「いいえ」


アーリアは、首を振った。


「ユウマさんが、ご自分で決められたのでしたら。それが、いちばんです」


僕は、少し笑った。


それから、窓の外の、夕日を見た。


「……妹は、怒るだろうなあ」


独り言みたいに、言った。


「兄ちゃんのバカ、って。絶対、言う」


——アーリアが、一瞬だけ、黙った。


ほんの、一瞬。


それから、僕のほうを向いて、言った。


きっぱりと。


「妹さんは、きっと——お兄さんが幸せなら、それでいいと言う方です」


——僕は、アーリアを見た。


アーリアは、まっすぐ、僕を見ていた。


緑の目が、夕日を映していた。


僕は、笑った。


「会ったことあるみたいに言いますね」


アーリアも、笑った。


いつもの、綺麗な笑い方だった。


「ユウマさんの妹さんですもの」


アーリアは、そう言って、礼をした。


「では、失礼いたします」


「はい」


アーリアは、回廊を歩いていった。


靴音が、いつもより早く、回廊の角の向こうへ、遠ざかっていった。


次の予定が、あるんだろうと思った。


——その日の午後、変なことが起きた。


部屋に戻ったら、獣たちが、いた。


ほとんど、全員。


アズキ。ススキ。ソラ。フク。クルミ。ツグミ。モチ。


アサとバンとコナ。スミとスズリと、5匹の子イタチ。シモも、珍しく姿が見える。


ハギ、ミゾレ、アラレ、ヒョウ。ボロ。クヌギとナラ。山羊たち。コメ。


ナギ。桶ごと、誰かに運ばれてきたコンブ。


ギン。


部屋の床が、見えなかった。


モチは、入りきらなくて、頭だけ扉から入れていた。


窓の外から、灰色の大きな頭が、窓枠いっぱいに覗いていた。ヒバリだった。体は、中庭に置いたまま。


「……なに、これ」


獣たちが、いっせいに、僕を見た。


『ここ、いる?』


アズキだった。


『ここ、いる?』


ソラだった。


『ここ、いる?』


『ここ、いる?』


『……ここ……いる……?』


全員が、同じことを聞いてきた。


——誰かが、言いふらしたのだ。


僕は、部屋の真ん中で、得意そうに尻尾を振っている、銀白の大きな体を見た。


「……ギン」


『ギン、いった』


「言ったね」


『みんな、しってる』


「……うん」


僕は、しゃがんだ。


1体ずつ、目を見て、答えた。


『いる』


『いるよ』


『ずっと、いる』


部屋に来ていない子にも、獣舎まで、念話で送った。


46回、同じことを言った。北の国境にいるニビにだけは、届かなかったけれど。


それから、頼んだ。


『じゅうしゃ、もどって。ここ、せまい』


『……』


『あした、も、いる』


『……いる?』


『いる』


——獣たちは、1体ずつ、部屋を出ていった。


最後に、モチが、扉から頭を抜いた。


扉の枠が、少しだけ、曲がっていた。


いつもなら、肩を上手にずらして通る子だ。今日は、頭だけでも中に入れようと、ずっと肩を枠に押しつけていたらしい。


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