#70 1年目の答え
王都に帰ったのは、7月の半ばだった。
帰り道の6日間、ずっと晴れていた。南の長雨が、嘘みたいに。
王宮の門をくぐったとき、トトが、門の上から手を振っていた。
「兄ちゃーん! おかえりー!」
門の上に、どうやって登ったのかは知らない。
——僕が、この世界に来て、1年になる。
7月の夕方に、あの交差点で、光の輪を踏んでから。
——帰った次の日、宝物庫へ行った。
ヴィルマの、月に1度の計測に同行して。
今月の立ち会いは、王だった。
3枚の扉を、1枚ずつ開けて。
いちばん奥の、台の上に。
白い花束があった。
トルコキキョウと、名前を知らない小さいのが何種類か。ラッピングのビニールと、花屋のシール。
召喚から、1年。
——1枚も、枯れていなかった。
ヴィルマが、花びらを数えた。214枚。
重さを量った。変わらない。
色を見比べた。白は、白のままだった。
「変化なし」
ヴィルマが、帳面に書きつけた。
僕は、ほっとした。
そのことが、後ろめたかった。
——母の顔を、思い浮かべた。
夏休みの初日、僕の部屋を勝手に掃除して、動物図鑑の並び順を全部変えてしまった母。僕がへこんでいたら、翌朝には、元の順番に戻してあった。どうやって覚えていたのかは、今も知らない。
——陽菜の顔を、思い浮かべた。
僕が熱を出した日、「うつさないでよ」と文句を言いながら、自分のお小遣いで、犬の絵のついた冷却シートを買ってきた陽菜。
1年。
息子が、兄が、夏のある日、出ていったきり、帰ってこない。
あの2人は、きっと、今も、僕を探している。
——花束を、見ていた。
1年前の7月の、あの日。
制服のまま、駅前の花屋に寄った。
店の前で、10分くらい、立っていた。
入る前に、考えていたのだ。
もし、聞かれたら、どう答えよう。
「お供えですか」と。
「はい」と言えばいいのか。「友達に」と言えばいいのか。
どっちも、言えそうになかった。
「お供え」と言ったら、灯が、本当に、いなくなってしまう気がした。
「友達に」と言ったら、それは、嘘だった。
——結局、店に入って、「白でお願いします」とだけ言った。
花屋のおばさんは、何も聞かなかった。
僕の顔を、1度だけ見て、それから、黙って、白い花を選んで、包んでくれた。
僕は、ほっとした。
ほっとして、それから、少しだけ、聞いてほしかったとも思った。
聞いてくれたら、言えたかもしれない。
言えないまま、あの交差点に着いて、しゃがんで、花を置いて。
「灯、あのさ——」
そこで、足元が光った。
——扉が、閉まった。
王が、鍵をかけていた。
「……綿貫殿」
「はい」
王は、何か言いたそうな顔をしていた。
でも、何も言わなかった。
鍵の束を握りしめたまま、少しだけ猫背になって、廊下を歩いていった。
——夕方、獣舎の屋根に、登った。
冬の、あの日と、同じ場所だ。
王宮の東の外れ。屋根に登ると、王都の街並みの向こうに、平野が見える。
夏の空は、赤くなるのが遅い。まだ、少し青が残っていた。
——隣に、ギンが座った。
どすん、と。
屋根の板が、みしりと鳴った。冬のあの日より、ずっと大きく、体長は、もう2.3mくらいある。重さは、260kgを量ってから、また増えた。
体は、大きくなった。
なのに、座り方は、仔犬のままだった。
前肢を揃えずに、片方だけ前に投げ出して。尻を、ぺたんと落として。首を、少し傾げて。
2.1kgだったころと、同じ座り方だ。
——僕らは、並んで、空を見ていた。
僕は、1年分を、1つずつ、思い出していた。
厨房の裏の、赤茶の犬。『はら、へった』。
廊下の真ん中で、立ち止まった夕方。『いっしょ、いく』。
囲いの外で、日が傾くまで座っていた日。灰色の飛竜が、膝に鼻先を押しつけてきた。
藪の際から、3歩あけてついてきた、はぐれの若い狼。あの日からずっと、3歩後ろで、僕の背中を守ってくれている。
400kgのあったかくて、白いおおきな山。『……しろいの……』。
雪の吹き溜まりの、白い綿毛。『……ぽかぽか』。
吹雪の書庫で、手の甲に触れた、小さな冷たい鼻。『いっしょ、つかう』。
厨房の裏で、跳ね上がった雪兎。空中に広がった、7つの色。『たのしい!』。
雪崩の上を滑っていく、白い壁。その下で、無傷で立っていた、一行。
国境の村の泉のほとりで、光りながら掘っていた狐。
たどたどしく、自分の名前を繰り返す、鈍色の狼。
雨の夜の崖。
そして、ルーセの朝。
胸の上の、小さな白い体。
『ありがとう』。
——この子たちと離れるなんて、できない。
そう思った。
思った瞬間に、分かった。
ずっと前から、そう思っていたのだ。
冬の屋根の上で、「悪くないな」と思ったときから。
いや、もっと前から。
厨房の裏で、赤茶の犬の鼻先が、手の甲に触れたときから。
僕は、ずっと、ここにいたかったのだ。
帰りたかった。
今も、帰りたい。
母の顔も、陽菜の顔も、消えない。
でも。
帰りたいのと同じくらい——いや、それよりも。
ここに、いたい。
——「ギン」
僕は、言った。
ギンが、空から目を離して、僕を見た。
青い目だった。
雪の中で拾った日と、そこは、今も変わっていない。
「冬に、聞いたよね。帰るの、って」
『……』
「ごめん。ずっと、待たせて」
僕は、息を吸った。
「僕、帰らないよ」
ギンの耳が、ぴくりと動いた。
「ここにいる」
——ギンは、長いこと、黙っていた。
僕を見たまま。
屋根の上で。夕日を背にして。
風が、ギンの銀白の毛を、さわさわと揺らしていた。
それから——。
『ユウマ』
「うん」
『ここ、いる?』
「いる」
『ずっと?』
——ずっと。
冬の、あの屋根の上で、この子は「まつ」と言った。
この半年、ずっと、待っていたのだ。
「ずっと」
僕は、言った。
「ずっと、いる」
ギンの尻尾が、屋根の板を、叩いた。
1回。
2回。
屋根が、みしみしと鳴った。
『ずっと、いっしょ』
『ギン、うれしい』
『ユウマ、ありがとう』
——僕は、何も言えなくなった。
6つ。
続けて。
冬の屋根の上で、この子が寄越した5つより、1つ多い。
——ギンが、僕の膝に、鼻先を置いた。
重い。
冬のあの日より、ずっと重い。
僕は、その頭に、手を置いた。
毛の中に、指が沈む。手首まで入る。
2.1kgだったころと、そこは、今も変わっていない。
夕日が、平野の向こうに、落ちていった。
——日が落ちてから、問題が起きた。
ギンが、降りられなくなった。
登るときは、獣舎の横の積み藁から、ひとっ飛びで上がってきたらしい。
降りるときを、考えていなかったのだ。
屋根の縁から、下を覗き込んで、耳を倒している。
『……たかい』
「ソラみたいなこと言うなよ」
『たかい』
「登ったんだから、降りられるよ」
『……』
——この重さで、屋根の縁から落ちたら、獣舎が潰れる。
この下と、そのまわりで、今夜は46体が寝ている。北の国境にいるニビのほかは、全員だ。
僕は、屋根の上を、四つん這いで、ギンの前まで行った。
『ギン。こっち。いっぽ』
屋根の傾きの、いちばん緩いところへ。
『いっぽ』
ギンが、前肢を、1歩ぶん出した。
屋根が、みしりと鳴った。
『いっぽ』
もう1歩。
『いっぽ』
1歩ずつ。屋根の端の、積み藁のある側まで。
『そこ。とんで、いい』
ギンは、積み藁を見下ろした。
それから、僕を見た。
『……ユウマ、いっしょ』
「……僕も跳ぶの?」
『いっしょ』
——僕らは、一緒に跳んだ。
積み藁の上に、2人で落ちた。
藁が、夜空に舞い上がった。
トトが、獣舎から飛び出してきて、藁まみれの僕とギンを見て、腹を抱えて笑った。




