#69 誰も、なにも、なくさなかった
朝の光の中で、数を確かめた。
港の上の丘の、天幕の前で。
アーリアが、名簿を読み上げた。
旧市街の住民、612人。
1人ずつ、名前を呼んで、返事を聞いて、印をつけていく。
呼ばれた人が、「はい」と答える。天幕の中から。丘の草の上から。毛布にくるまったまま。子どもを抱いたまま。
途中で、アーリアの声が、少しかすれた。
それでも、止まらずに読み続けた。
最後の1人は、北の路地の老人だった。
「……はい」
老人は、胸に老犬を抱いたまま、答えた。
アーリアが、名簿の最後の名前に、印をつけた。
「612人。全員、無事です」
——飼い獣を、数えた。
88匹。全匹、無事。
——湾の、ウミカワウソを数えた。
コンブが、群れの中に潜って、1頭ずつ鼻を寄せて回った。僕は、港の石段から、スズリの目で数えた。
34頭。
岩場の上に。海の上に。仰向けに浮かんで、雨上がりの陽を浴びて。
34頭。全頭、無事。
——崖は、立っていた。
崖の東の端に、岩が剥がれた跡が、大きく残っていた。その下に、ギンが作った氷の壁が、朝日を浴びて、少しずつ溶けながら、きらきら光っていた。
泥は、氷の中に閉じ込められたまま、石段の手前で止まっていた。
崖の根元の、コナが掘った穴からは、今も、澄んだ水が、ちょろちょろと湧き出していた。崖の中に溜まっていた水が、ゆっくり、抜けていっているのだ。
——剥がれた岩は、どうなったのか。
僕は、クルミに聞いた。
『クルミ。いわ、どこ?』
『……ほっぺ』
まだ、頬袋の中にあった。
『だして、いい?』
『いっしょ!』
一覧が浮かんだ。
〈岩 1〉
「……ここで出すと、港が潰れるな」
リオの小舟で、港の外の、浅瀬まで行った。
クルミが、頬を揉んだ。
ざぶん、と、湾の外の海が、大きく揺れた。
馬車3台ぶんの岩が、浅瀬の底に、どしんと沈んだ。
——3日後、リオが教えてくれた。
その岩の周りに、小さな魚が、群れで集まり始めているのだという。
岩の陰は、隠れ家になる。
いつか、そこに、海藻の森が戻るかもしれない。
——丘の上に、ルーセの人たちが集まっていた。
旧市街の人も。新市街の人も。
みんな、崖を見ていた。
立っている、崖を。
誰かが、膝をついた。
草の上に。
それを見て、隣の人も、膝をついた。
1人、また1人。丘の上の、何百人もの人たちが、崖に向かって、膝をついていった。
——白い髭の、長老がいた。
最初の日に、「この崖は、300年、崩れたことがない」と言った老人だ。
老人は、手に持っていた帽子を、両手で、握りつぶしていた。
くしゃくしゃに。
崖を見上げたまま。
何も言わずに。
——リオが、丘のてっぺんに立っていた。
空を、仰いでいた。
雨上がりの、洗われたような青い空を。
それから、笑った。
大声で。
腹の底から。
両手を広げて、空に向かって、笑っていた。
——幻獣たちは、広場で、転げ回っていた。
旧市街の、噴水のある広場で。雨上がりの、濡れた石畳の上を。
アサが、跳ねていた。着地して、転がって、また跳ねた。
バンが、その後ろを、同じように転がっていた。
コナが、石畳の隙間を、少しだけ掘って、それから転がった。
ハネが、みんなのあいだを、すりすりと駆け回っていた。
ソラが、広場の噴水の縁と、僕の頭の上を、何度も何度も跳んでいた。
クルミが、噴水の縁の上で、頬を膨らませたり、しぼませたりしていた。
フデが、石畳の上で、なくしものを片っ端から探り当てていた。昨夜誰かが落とした靴。子どもの木の人形。鍵の束。
みんな、転げ回っていた。
『たのしい!』
アサが、叫んだ。
『たのしい!』
バンが、続いた。
そして——。
『うれしい!』
コナだった。
石畳の上で、仰向けにひっくり返って、4本の脚で空を掻きながら。
『うれしい!』
『うれしい!』
ハネが。ソラが。
——初めて、人を助けた。
初めて、仲間と組んだ。
初めて、全力を出した。
この子たちは、人とのふれあいも、仲間と組むことも、お手伝いも、全部、初めてだったのだ。
初めてのことが、全部、一晩で来た。
そして、それが、うまくいった。
僕は、広場の端に座って、それを見ていた。
笑っていた。
——モチは、崖の上の、北の路地にいた。
座り込んだまま、寝ていた。
梁を持ち上げたあとで。
その前に、1人の男が立っていた。
ルーセの、養蜂家だった。崖の上に、蜂の巣箱を並べて暮らしている人だ。
男は、両手に、大きな陶器の壺を抱えていた。
蜂蜜の壺だった。
1つ、まるごと。
男は、それを、寝ているモチの前に、そっと置いた。
モチの鼻が、ぴくりと動いた。
小さな目が、開いた。
壺を、見た。
『……はち……みつ……』
モチは、壺を、両腕で抱え込んだ。
400kgの体で、壺を、胸に抱いた。
そして、そのまま、また寝た。
養蜂家の男は、しばらく、それを見ていた。
それから、帽子を取って、深く頭を下げて、帰っていった。
——僕は、その日の昼、3人前食べた。
リオの家の食堂で。
魚介のスープを3杯。パンを6つ。貝焼きを何枚も。
リオの家の料理人が、目を丸くしていた。
食べ終わって、離れの寝台に横になった。
横になった瞬間に、眠っていた。
——18時間、眠っていたらしい。
目を覚ましたとき、窓の外は、すっかり朝になっていた。
体は、どこも痛くなかった。
熱もなかった。
ただ、ものすごく、よく眠った、という感じだけがあった。
幻獣と一緒に使った力の代償は、これだけだった。
お腹が空いて、眠くなる。
それだけ。
——胸の上に、何かが乗っていた。
白くて、細長い。
スズリだった。
僕の胸の上で、丸くなって、こちらを見ていた。
黒い、小さな目で。
「……おはよう」
僕は、小さく言った。
それから、念話で、送った。
冬の、あの吹雪の夜に、送った言葉を。
『ありがとう』
——あの夜は、『……』が返ってきた。
まだ知らない言葉だった。
スズリは、首を傾げた。
僕の胸の上で。
しばらく、考えるように、じっとしていた。
僕は、待った。
——そして。
『ありがとう』
返ってきた。
はっきりと。
スズリの声で。
僕は、動けなくなった。
『ありがとう』
スズリが、もう1度、言った。
僕の胸の上で、小さな体を、少しだけ伸ばして。
——次の声が、来た。
足元から。
『ありがとう!』
アズキだった。
寝台の足元で、尻尾を全力で振りながら。
窓の外から。
『……あり……がと……』
モチだった。ゆっくりと、間を空けて。蜂蜜の壺を抱えたまま、軒下で。
庭から。
『ありがとう!』
アサだった。
そして。
寝台の横の、床から。
銀白の、大きな体が、顔を上げていた。
『ありがとう』
ギンだった。
——僕は、布団を頭からかぶった。
かぶって、その中で、泣いた。
声を殺して。
でも、たぶん、全部、聞こえていたと思う。
スズリが、布団の上から、僕の顎のあたりに、鼻先を押しつけていた。
——念話が、伸びていた。
その朝、布団の中で、気づいた。
頭の奥が、ふわっと、遠くまで広がっていた。
半径10km。
同時20体。
47体と、この一晩の、おかげだと思う。
——その日、マリネアとヴェリシアの同盟が、結ばれた。
ルーセの、リオの家の、広い食堂で。
アーリアが、王の名代として、署名した。
縁談の返事は、まだだった。
「考えさせてください」の、ままだった。
——ナギは、まだ、飛べなかった。
庭の、作りかけの船の骨組みの上で、南の海を見ていた。
右の翼に、白い布を巻いたまま。




