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69/83

#69 誰も、なにも、なくさなかった

朝の光の中で、数を確かめた。


港の上の丘の、天幕の前で。


アーリアが、名簿を読み上げた。


旧市街の住民、612人。


1人ずつ、名前を呼んで、返事を聞いて、印をつけていく。


呼ばれた人が、「はい」と答える。天幕の中から。丘の草の上から。毛布にくるまったまま。子どもを抱いたまま。


途中で、アーリアの声が、少しかすれた。


それでも、止まらずに読み続けた。


最後の1人は、北の路地の老人だった。


「……はい」


老人は、胸に老犬を抱いたまま、答えた。


アーリアが、名簿の最後の名前に、印をつけた。


「612人。全員、無事です」


——飼い獣を、数えた。


88匹。全匹、無事。


——湾の、ウミカワウソを数えた。


コンブが、群れの中に潜って、1頭ずつ鼻を寄せて回った。僕は、港の石段から、スズリの目で数えた。


34頭。


岩場の上に。海の上に。仰向けに浮かんで、雨上がりの陽を浴びて。


34頭。全頭、無事。


——崖は、立っていた。


崖の東の端に、岩が剥がれた跡が、大きく残っていた。その下に、ギンが作った氷の壁が、朝日を浴びて、少しずつ溶けながら、きらきら光っていた。


泥は、氷の中に閉じ込められたまま、石段の手前で止まっていた。


崖の根元の、コナが掘った穴からは、今も、澄んだ水が、ちょろちょろと湧き出していた。崖の中に溜まっていた水が、ゆっくり、抜けていっているのだ。


——剥がれた岩は、どうなったのか。


僕は、クルミに聞いた。


『クルミ。いわ、どこ?』


『……ほっぺ』


まだ、頬袋の中にあった。


『だして、いい?』


『いっしょ!』


一覧が浮かんだ。


〈岩(おおきい) 1〉


「……ここで出すと、港が潰れるな」


リオの小舟で、港の外の、浅瀬まで行った。


クルミが、頬を揉んだ。


ざぶん、と、湾の外の海が、大きく揺れた。


馬車3台ぶんの岩が、浅瀬の底に、どしんと沈んだ。


——3日後、リオが教えてくれた。


その岩の周りに、小さな魚が、群れで集まり始めているのだという。


岩の陰は、隠れ家になる。


いつか、そこに、海藻の森が戻るかもしれない。


——丘の上に、ルーセの人たちが集まっていた。


旧市街の人も。新市街の人も。


みんな、崖を見ていた。


立っている、崖を。


誰かが、膝をついた。


草の上に。


それを見て、隣の人も、膝をついた。


1人、また1人。丘の上の、何百人もの人たちが、崖に向かって、膝をついていった。


——白い髭の、長老がいた。


最初の日に、「この崖は、300年、崩れたことがない」と言った老人だ。


老人は、手に持っていた帽子を、両手で、握りつぶしていた。


くしゃくしゃに。


崖を見上げたまま。


何も言わずに。


——リオが、丘のてっぺんに立っていた。


空を、仰いでいた。


雨上がりの、洗われたような青い空を。


それから、笑った。


大声で。


腹の底から。


両手を広げて、空に向かって、笑っていた。


——幻獣たちは、広場で、転げ回っていた。


旧市街の、噴水のある広場で。雨上がりの、濡れた石畳の上を。


アサが、跳ねていた。着地して、転がって、また跳ねた。


バンが、その後ろを、同じように転がっていた。


コナが、石畳の隙間を、少しだけ掘って、それから転がった。


ハネが、みんなのあいだを、すりすりと駆け回っていた。


ソラが、広場の噴水の縁と、僕の頭の上を、何度も何度も跳んでいた。


クルミが、噴水の縁の上で、頬を膨らませたり、しぼませたりしていた。


フデが、石畳の上で、なくしものを片っ端から探り当てていた。昨夜誰かが落とした靴。子どもの木の人形。鍵の束。


みんな、転げ回っていた。


『たのしい!』


アサが、叫んだ。


『たのしい!』


バンが、続いた。


そして——。


『うれしい!』


コナだった。


石畳の上で、仰向けにひっくり返って、4本の脚で空を掻きながら。


『うれしい!』


『うれしい!』


ハネが。ソラが。


——初めて、人を助けた。


初めて、仲間と組んだ。


初めて、全力を出した。


この子たちは、人とのふれあいも、仲間と組むことも、お手伝いも、全部、初めてだったのだ。


初めてのことが、全部、一晩で来た。


そして、それが、うまくいった。


僕は、広場の端に座って、それを見ていた。


笑っていた。


——モチは、崖の上の、北の路地にいた。


座り込んだまま、寝ていた。


梁を持ち上げたあとで。


その前に、1人の男が立っていた。


ルーセの、養蜂家だった。崖の上に、蜂の巣箱を並べて暮らしている人だ。


男は、両手に、大きな陶器の壺を抱えていた。


蜂蜜の壺だった。


1つ、まるごと。


男は、それを、寝ているモチの前に、そっと置いた。


モチの鼻が、ぴくりと動いた。


小さな目が、開いた。


壺を、見た。


『……はち……みつ……』


モチは、壺を、両腕で抱え込んだ。


400kgの体で、壺を、胸に抱いた。


そして、そのまま、また寝た。


養蜂家の男は、しばらく、それを見ていた。


それから、帽子を取って、深く頭を下げて、帰っていった。


——僕は、その日の昼、3人前食べた。


リオの家の食堂で。


魚介のスープを3杯。パンを6つ。貝焼きを何枚も。


リオの家の料理人が、目を丸くしていた。


食べ終わって、離れの寝台に横になった。


横になった瞬間に、眠っていた。


——18時間、眠っていたらしい。


目を覚ましたとき、窓の外は、すっかり朝になっていた。


体は、どこも痛くなかった。


熱もなかった。


ただ、ものすごく、よく眠った、という感じだけがあった。


幻獣と一緒に使った力の代償は、これだけだった。


お腹が空いて、眠くなる。


それだけ。


——胸の上に、何かが乗っていた。


白くて、細長い。


スズリだった。


僕の胸の上で、丸くなって、こちらを見ていた。


黒い、小さな目で。


「……おはよう」


僕は、小さく言った。


それから、念話で、送った。


冬の、あの吹雪の夜に、送った言葉を。


『ありがとう』


——あの夜は、『……』が返ってきた。


まだ知らない言葉だった。


スズリは、首を傾げた。


僕の胸の上で。


しばらく、考えるように、じっとしていた。


僕は、待った。


——そして。


『ありがとう』


返ってきた。


はっきりと。


スズリの声で。


僕は、動けなくなった。


『ありがとう』


スズリが、もう1度、言った。


僕の胸の上で、小さな体を、少しだけ伸ばして。


——次の声が、来た。


足元から。


『ありがとう!』


アズキだった。


寝台の足元で、尻尾を全力で振りながら。


窓の外から。


『……あり……がと……』


モチだった。ゆっくりと、間を空けて。蜂蜜の壺を抱えたまま、軒下で。


庭から。


『ありがとう!』


アサだった。


そして。


寝台の横の、床から。


銀白の、大きな体が、顔を上げていた。


『ありがとう』


ギンだった。


——僕は、布団を頭からかぶった。


かぶって、その中で、泣いた。


声を殺して。


でも、たぶん、全部、聞こえていたと思う。


スズリが、布団の上から、僕の顎のあたりに、鼻先を押しつけていた。


——念話が、伸びていた。


その朝、布団の中で、気づいた。


頭の奥が、ふわっと、遠くまで広がっていた。


半径10km。


同時20体。


47体と、この一晩の、おかげだと思う。


——その日、マリネアとヴェリシアの同盟が、結ばれた。


ルーセの、リオの家の、広い食堂で。


アーリアが、王の名代として、署名した。


縁談の返事は、まだだった。


「考えさせてください」の、ままだった。


——ナギは、まだ、飛べなかった。


庭の、作りかけの船の骨組みの上で、南の海を見ていた。


右の翼に、白い布を巻いたまま。


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