#68 虹の結界、光の浄化
2晩目の夜だった。
雨は、6日目も、止まなかった。
避難は、続いていた。
1晩目と、2日目の昼のあいだに、旧市街の半分以上が、崖を下りていた。3本の石段を、雨のなか、リオの部下と、ルーセの漁師たちと、リーゼが、1人ずつ手を引いて下ろした。
ソラは、広場と港の上の丘のあいだを、何度も跳んだ。3人ずつ。老人と、病人と、小さな子どもから先に。
1回跳ぶたびに、ソラは少し休む。ハネが寄り添い、バンが足元にいる。3体で1組だ。
港の上の丘には、天幕が並んでいた。
アーリアが、天幕の入口で、帳面を開いていた。旧市街の住民の名簿だ。1人上がってくるたびに、名前に印をつけていく。
エステルが、その隣で、濡れて震える人たちに、毛布を配っていた。
——夜が更けて、残りは、200人を切っていた。
僕は、崖の下にいた。
旧市街の真下。湾に面した、新市街の外れの、崖の根元に。
雨具を着ていても、全身が濡れていた。
隣に、コナがいた。アサと、バンと、フクがいた。ハネが、僕の肩にいた。スズリが、反対側の肩にいた。ギンが、後ろにいた。
スズリの目で、崖の中を、ずっと見ていた。
水が、溜まっていた。
岩の割れ目が、少しずつ、開いていた。
スミの言った、「ふたつ、ねる」。
今夜が、その2晩目だった。
——崖が、鳴った。
低い音だった。
地面の下から、腹の底に響くような。
ごう、と。
石段の上で、誰かが悲鳴を上げた。
——フクが、地面を叩いた。
ダン!
1回だけ。
今までで、いちばん強く。
それが、合図だった。
『『いっしょ!』』
アサとバン。
アサが、跳んだ。
僕が頼むより、先に。
雨の中へ。
高く。
雪の兎の、強靭な後ろ肢が、濡れた地面を蹴った。白い体が、雨粒を突き抜けて、上へ、上へ。
崖の中ほどの高さまで。
空中で、身を翻した。
その軌跡から——虹が、広がった。
雨の夜に。
7つの色が、夜の闇の中で、光っていた。
『おねがい!』
僕は、叫んだ。
——バンが、一歩、踏み出した。
足元から、虹の波紋。
ドームが、膨らむ。
二歩。
三歩。
バンの足元から、次々に、虹の輪が走っていく。雨に濡れた地面の上を。崖の岩肌の上を。
輪が走るたびに、ドームが、大きく、強く、速く、厚くなっていく。
虹が、崖を包んでいった。
崖の根元から。崖の中腹へ。崖の上の、旧市街の家々へ。
赤い屋根を越えて。白い壁を越えて。広場の噴水を越えて。
——半径、600m。
旧市街の全部と、崖の全部が、虹の中にいた。
雨が、ドームの上で、弾かれていた。
1粒も、中に落ちてこなかった。
崖に、これ以上、水は入らない。
——でも、中に溜まった水は、まだ、そこにあった。
『コナ、おねがい』
『いっしょ!』
コナが、崖の根元を、掘り始めた。
雨の届かないドームの内側の、崖と地面の境目を。
前肢で、猛烈な速さで。
コナの体が、光っていた。
今までで、いちばん、強く。
白い毛の縁から、聖なる光が、にじみ出して、あふれて、掘った穴の底へ、流れ込んでいく。
土の中へ。
岩の中へ。
——バンの波紋が、その光を、運んだ。
虹の輪に乗って、コナの光が、崖の岩の中を、上へ、上へ、広がっていく。
岩の割れ目の中へ。
水の溜まっている、奥のほうへ。
スズリの目で、見ていた。
光が、割れ目に、染み込んでいった。
《浄化》は、病のもとを消し、乱れを整える力だ。
崖の岩の中の、乱れを。
水に押されて、開きかけた割れ目を。
整えていく。
崩れる前に。
崩れないように。
溜まった水が、光に押されて、少しずつ、少しずつ、岩の奥の、細い筋を伝って、下へ流れ始めた。
崖の根元の、コナの掘った穴から、澄んだ水が、ちょろちょろと湧き出してきた。
——ハネが、僕の肩から、飛び降りた。
幻獣たちのあいだを、駆け回った。
アサの足元へ。すりすりと。
バンの横へ。すりすりと。
コナの背中へ。すりすりと。
《はげまし》。
そばにいる仲間の力を、一段上げる。
ハネが擦り寄るたびに、虹が、光が、一段ずつ、強くなった。
幻獣同士が組むほど、力が、跳ね上がっていく。
——それでも、崖が、もう1度、鳴った。
ごう、と。
崖の、東の端。ドームの縁の、ぎりぎりのところで。
岩肌が、割れた。
巨大な岩の塊が、崖から、剥がれた。
馬車3台ぶんくらいの、灰色の塊。
それが、新市街の、家々の屋根のほうへ、傾いていく。
「クルミ!」
僕の上着のポケットから、クルミが、飛び出していた。
『いっしょ!』
——クルミが、跳んだ。
落ちてくる岩に向かって。
小さな体が、雨の中を、弾丸みたいに。
岩の真下で、クルミが、両手を伸ばして——ちっちゃな手で、触れた。
——岩が、消えた。
空中で。
クルミの頬の中に。
クルミは、そのまま、新市街の屋根の上に、ころりと落ちた。
頬が、ほんの少しだけ、膨らんでいた。
——泥が、溢れた。
岩が剥がれた跡から。崖の中に溜まっていた水と、土が、泥の流れになって、噴き出してきた。
東の石段のほうへ。
石段には、まだ、下りてくる人たちがいた。
「ギン!」
僕は、叫んでいた。
でも、『かして』とは言わなかった。
言う前に、ギンは、もう、動いていた。
——ギンが、泥の流れの前に、立った。
体長2.2m、260kgの神獣が、雨の中で。
口を、開けた。
息を、吹きかけた。
白い息だった。
泥の流れが——止まった。
凍った。
泥が、流れてきた形のまま、氷になった。
厚い、白い、氷の壁になって、石段の手前で、止まっていた。
僕は、ギンに、何も頼んでいない。
何も借りていない。
この子が、自分で、やったのだ。
——崖の上から、声がした。
リーゼの声だった。
「ユウマ! まだ、いる! 北の路地の、崩れた家に!」
『フデ、おねがい』
『いっしょ!』
フデの《探り当て》。
隠れたもの、埋もれたものを、見つける力。
崖の上の、旧市街の、北の路地。
崩れかけた家の、奥。
梁が、落ちていた。
その梁の下の、隙間に。
人が、1人。老人だった。
そして、犬が、1匹。老犬だった。
老人は、老犬を、胸に抱えていた。
——白い山が、動いていた。
モチが、崖の上に、いた。
最初の日から、ずっと、離れの軒下で寝ていたモチが。
今夜は、いつのまにか起きて、動いていた。
僕が気づいたときには、もう、下りてくる人のいなくなった西の石段を、登り切っていた。
モチは、崩れた家の前まで、のそのそと歩いていった。
落ちた梁の下に、頭を入れた。
背中を、梁に当てた。
400kgの全身を使って、持ち上げた。
梁が、上がった。
人が、這い出せるくらいの隙間ができた。
《山の腕》は、借りていない。
モチ自身の、力だった。
リーゼが、老人の腕を掴んで、引き出した。老人の胸の中で、老犬が、震えていた。
リーゼは、老人を背負って、広場まで走った。
『ソラ、おねがい』
『いっしょ!』
ソラが、崖の上の広場に跳んだ。
ハネもバンも、崖の下にいる。それでも、このドームの内側なら、バンの波紋も、ハネのはげましも、崖の上まで届いていた。
老人と、リーゼと、老人の胸の中の老犬。
2人と1匹を連れて、港の上の丘へ、跳んだ。
モチは、梁を、そっと下ろした。
それから、崖の上で、雨に打たれながら、座り込んだ。
——僕は、崖の下で、念話を送り続けていた。
アサに。バンに。コナに。ハネに。
スズリに。フデに。クルミに。ソラに。
『おねがい』
『おねがい』
『おねがい』
返事は、全部、同じだった。
『いっしょ!』
『いっしょ!』
『いっしょ!』
そのあいだも、石段では、残りの人たちが1人ずつ下りていった。ソラは、広場と丘のあいだを、3人ずつ連れて、跳び続けた。
——何時間、そうしていたのかは、分からない。
鼻から、血は出なかった。
頭も、痛くなかった。
代わりに、お腹が、鳴った。
ぐうう、と。
雨の音にも負けないくらい、大きく。
隣で、エステルが——いつのまにか丘から下りてきていたエステルが、目を丸くしていた。
「……今の、ユウマ様の、お腹ですか」
「……はい」
もう1度、鳴った。
——夜が、明けた。
雨が、上がっていた。
雲の切れ間から、朝の光が、湾に差し込んでいた。
虹のドームが、ゆっくり、薄れていった。
薄れた向こうに、崖があった。
白い壁と、赤い屋根の、旧市街を乗せて。
崖は、立っていた。
崩れなかった。




