#67 長雨と胸騒ぎ
7月になった。
ルーセに、雨が来た。
最初の日は、恵みの雨だと、町の人たちは言った。南の夏は乾く。畑も、井戸も、雨を待っていた。
2日目も、降った。
3日目も。
4日目も。
止まなかった。
強くはない。嵐のように叩きつける雨ではない。細くて、まっすぐで、途切れない雨。空が、ずっと同じ灰色のまま、朝も昼も夜も、しとしとと降り続ける。
「長雨だな」
リオが、窓の外を見て言った。
「夏に、たまにある。1週間くらい続くこともある」
獣たちは、退屈していた。
アズキは、離れの中を、10分おきに1周した。コンブは、雨の湾で、ずっと仰向けに浮かんでいた。雨の日のウミカワウソは、機嫌がいいらしい。モチは、離れの軒下で、4日間ほとんど寝て過ごした。
——5日目の朝。
フクが、地面を叩き始めた。
離れの床の上で。
ダン。
ダン、ダン。
「フク?」
雨の音が、嫌いな子だ。でも、嫌いなだけなら、念話で『こわい』と言ってくる。
地面を叩くのは、本当に何かが来るときだけだ。
僕は、朝ご飯の匙を置いて、立ち上がった。
——でも、音は、そこで止んだ。
フクは、耳を立てたまま、しばらく窓の外を見ていた。それから、ふっと力を抜いて、アサとバンのあいだに潜り込んだ。
鼻が、いつもの速さで、ひくひく動いていた。
僕は、その背中を、しばらく撫でていた。手のひらに伝わる心臓の音も、もう落ち着いていた。
——遠くで、何かが動きかけて、また止まったのかもしれない。
様子を見ることにした。
——昼になった。
ダン!
離れの床が、鳴った。
朝とは、比べものにならなかった。
ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。
フクが、後ろ肢で、床を叩き続けていた。耳を背中にぴたりと倒して、全身の毛を逆立てて。止まらない。
アサとバンが、フクの両側で、身を固くしていた。
——やっぱり、何かあるんだ。
僕は、しゃがんで、フクを抱き上げた。
体が、固かった。心臓が、手のひらに跳ね返ってくるくらい、速い。
『こわい』
『こわい』
『……うえ』
「うえ?」
フクは、顔を上げた。
崖のほうへ。
旧市街の、白い壁と赤い屋根が並ぶ、高さ40mの崖の上を、見た。
——《胸騒ぎ》。
災いが来る前に、分かる力。
去年の冬、クルム村の86人を救った警報。
この春、厨房の屋根の雪から、トトたちを守った警報。
「……スズリ」
『おねがい』
『いっしょ!』
——崖が、透けた。
旧市街の家々の、床の下。石畳の下。その下の、土。
その下の、岩。
崖は、岩でできていた。灰色の、硬い岩の塊。その上に、300年前から、町が乗っている。
岩の中に、筋が走っていた。
細い、割れ目のような筋が。何本も。
その筋の中に——水が、溜まっていた。
5日間の雨が、旧市街の石畳の隙間から、土の中へ、岩の割れ目の中へ、染み込んでいた。
染み込んで、行き場を失って、岩の奥で、溜まっていた。
水は、見ている間にも、少しずつ、増えていた。
割れ目を、内側から、押し広げながら。
「……リオさん」
僕の声が、かすれていた。
「崖の中に、水が溜まってます」
——スミを呼んだ。
スズリの妻で、子どもたちの母親。いちばん聡明な子。
『スミ。おねがい』
『いっしょ!』
——《先読み》。
この先、どうなるか。少しだけ、分かる力。
スミの目を借りて、崖を見た。
見る、というより、分かった。
岩の割れ目が、水に押されて、少しずつ、少しずつ、開いていく。
今夜は、まだ保つ。
明日の夜も、たぶん、まだ。
でも、その次の夜——。
『……ふたつ、ねる』
『みっつ……ない…』
スミが、言った。
——2晩。
2晩のうちに、崩れる。
——町の顔役たちが、リオの家に集められた。
旧市街の、長老たちだった。5人。みんな、60を過ぎている。
僕の話を、リオが伝えた。
長老たちは、顔を見合わせた。
それから、いちばん年上の、白い髭の老人が、首を振った。
「この崖は、300年、崩れたことがない」
「でも」
「300年だ。どんな嵐の年も、どんな長雨の年も、崩れなかった。わしの祖父の祖父の代から、ずっと」
老人は、僕を見た。
「北から来た若い方。王子殿下のお客人だということは、承知しております。湾を澄ませてくださったことも。……ですが、崖のことは、崖の上に住む者が、いちばんよく知っております」
——言い返せなかった。
僕は、この崖のことを、何も知らない。
知っているのは、フクが怖がっていることと、スズリの目に見えた水と、スミの言葉だけだ。
それは、この人たちにとっては、何の証拠にもならない。
獣が、そう言っている。
それだけだ。
——リオが、立ち上がった。
「俺は、こいつを信じる」
大声ではなかった。
いつもの、船乗りの大声ではなかった。
静かな、低い声だった。
「湾が死にかけてた3年、誰も原因が分からなかった。こいつは、来て1日で分かった。ウミカワウソに聞いて、ウニを見て、川を遡って。……俺たちが3年分からなかったことを、こいつは、聞いて分かった」
リオは、長老たちを見回した。
「今度も、こいつは、聞いたんだ。崖の中を見て、獣に聞いた」
長老の1人が、口を開きかけた。
リオが、それを遮った。
「マリネア第二王子、リオ・マリネアとして命じる」
——部屋が、静かになった。
リオが、王子として命令するのを、僕は初めて聞いた。
「旧市街の全員を、今日のうちに、崖の下へ下ろせ。港の上の丘へ。1人残らずだ」
——避難が、始まった。
でも、すぐに、新たな問題が発生した。
旧市街と、崖の下を繋ぐのは、細い石段が3本だけだった。
どれも、人が2人すれ違うのがやっとの幅。雨で濡れて、滑る。老人も、子どもも、病人もいる。荷物を抱えた人も。犬や猫を抱えた人も。
旧市街の住民は、612人。
飼っている犬や猫が、88匹。
「……今日のうちには、無理だ」
石段の下で、リオの部下が、首を振った。
「この雨で、この石段だ。1人下ろすのに、どれだけかかるか。夜になったら、もっと遅くなる」
2日で、612人と88匹。
——僕は、離れに戻った。
獣たちを、集めた。
離れの床に、みんな並んだ。
アズキ。ススキ。フク。アサ。バン。コナ。スズリ。スミ。子イタチの5匹。クルミ。ソラ。モチ。ギン。コンブ。ナギ。
僕は、その前に、座った。
「……みんな」
1体ずつ、聞いていくことにした。
何ができるのか。
——ソラ。
『ソラ。まちの、ひろば。いったこと、ある?』
旧市街の真ん中の、噴水のある広場。
『……みえる』
ある。
この数日、僕の頭に乗って、旧市街と新市街を何度も往復した。広場も、港の上の丘も、ソラにとっては、もう「行ったことのある場所」になっていた。
『ひと、はこべる?』
ソラは、首を傾げた。
ソラは、今まで、自分しか運べなかった。帽子を持たせても、帽子だけが残った。
——試してみることにした。
離れの庭で。
僕が、ソラを頭に乗せて、立った。
ハネを、肩に乗せた。
バンを、足元に置いた。
『ハネ、おねがい』
『いっしょ!』
『バン、おねがい』
『いっしょ!』
『ソラ、おねがい。……いっしょに、とぶ?』
『いっしょ!』
——ハネの《はげまし》が、ソラの力を、一段上げる。
バンの《波紋》が、それを、広げる。
ソラの目が、重なった絵の中から、1枚を選んだ。
離れの門の、上。
——ふっ、と、体が軽くなった。
目を開けたら、門の上にいた。
庭の端の、門柱の上に。僕が。僕ごと。
足元が、ぐらりと揺れて、僕は門柱にしがみついた。
『……たかい!』
頭の上で、ソラが叫んだ。
庭で、リーゼが、口を開けていた。
「……跳んだ」
「跳びました」
「お前ごと」
「僕ごと」
——幻獣同士が組むと、力が跳ね上がる。
ヴィルマが、そう言っていた。
もう1度、試した。今度は、僕と、リーゼと、エステル。3人で、ソラの周りに手を繋いで。
跳べた。
4人は、跳べなかった。
3人まで。
「……3人ずつなら、運べる」
——クルミ。
『クルミ。ほっぺ、どれくらい、はいる?』
『……』
クルミは、首を傾げた。
分からないらしい。この子自身、限界を試したことがないのだ。
庭の隅に、船大工が使っていた、壊れた荷車があった。
『あれ、はいる?』
クルミは、荷車を見た。
僕の肩の上で、頬を、ぷくっと膨らませた。
『いっしょ!』
——荷車が、消えた。
庭の隅から。
クルミの頬は、ほんの少しだけ、膨らんでいた。
「……入った」
「荷車が」
「入りましたね」
リーゼが、額に手を当てていた。
——アサ。
『アサ。まる、どれくらい、おおきく、できる?』
アサは、首を傾げた。
それから、フクと、バンのほうを見た。
『……フク、さき』
『バン、いっしょ』
——フクが先に知って、バンが広げてくれるなら。
どこまでも、と、言っているように聞こえた。
——ギン。
ギンは、何も聞かなくても、僕の隣に来て、座っていた。
雨の中で。
離れの庭の、濡れた石の上に。
体長2.2m、260kgの体を、雨に打たせて。銀白の毛が、濡れて、体に張りついていた。
ギンは、崖を、見上げていた。
旧市街の白い壁と、赤い屋根と、その下の、灰色の岩を。
じっと。
雨粒が、ギンの鼻先から、ぽたぽたと落ちていた。
「……ギン」
『……ユウマ』
ギンは、崖から目を離さずに、僕の名前を呼んだ。
それだけだった。
——日が暮れた。
雨は、止まなかった。
崖の中の水は、増え続けていた。
1晩目の夜が、始まっていた。




