↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
67/84

#67 長雨と胸騒ぎ

7月になった。


ルーセに、雨が来た。


最初の日は、恵みの雨だと、町の人たちは言った。南の夏は乾く。畑も、井戸も、雨を待っていた。


2日目も、降った。


3日目も。


4日目も。


止まなかった。


強くはない。嵐のように叩きつける雨ではない。細くて、まっすぐで、途切れない雨。空が、ずっと同じ灰色のまま、朝も昼も夜も、しとしとと降り続ける。


「長雨だな」


リオが、窓の外を見て言った。


「夏に、たまにある。1週間くらい続くこともある」


獣たちは、退屈していた。


アズキは、離れの中を、10分おきに1周した。コンブは、雨の湾で、ずっと仰向けに浮かんでいた。雨の日のウミカワウソは、機嫌がいいらしい。モチは、離れの軒下で、4日間ほとんど寝て過ごした。


——5日目の朝。


フクが、地面を叩き始めた。


離れの床の上で。


ダン。


ダン、ダン。


「フク?」


雨の音が、嫌いな子だ。でも、嫌いなだけなら、念話で『こわい』と言ってくる。


地面を叩くのは、本当に何かが来るときだけだ。


僕は、朝ご飯の匙を置いて、立ち上がった。


——でも、音は、そこで止んだ。


フクは、耳を立てたまま、しばらく窓の外を見ていた。それから、ふっと力を抜いて、アサとバンのあいだに潜り込んだ。


鼻が、いつもの速さで、ひくひく動いていた。


僕は、その背中を、しばらく撫でていた。手のひらに伝わる心臓の音も、もう落ち着いていた。


——遠くで、何かが動きかけて、また止まったのかもしれない。


様子を見ることにした。


——昼になった。


ダン!


離れの床が、鳴った。


朝とは、比べものにならなかった。


ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。


フクが、後ろ肢で、床を叩き続けていた。耳を背中にぴたりと倒して、全身の毛を逆立てて。止まらない。


アサとバンが、フクの両側で、身を固くしていた。


——やっぱり、何かあるんだ。


僕は、しゃがんで、フクを抱き上げた。


体が、固かった。心臓が、手のひらに跳ね返ってくるくらい、速い。


『こわい』


『こわい』


『……うえ』


「うえ?」


フクは、顔を上げた。


崖のほうへ。


旧市街の、白い壁と赤い屋根が並ぶ、高さ40mの崖の上を、見た。


——《胸騒ぎ》。


災いが来る前に、分かる力。


去年の冬、クルム村の86人を救った警報。


この春、厨房の屋根の雪から、トトたちを守った警報。


「……スズリ」


『おねがい』


『いっしょ!』


——崖が、透けた。


旧市街の家々の、床の下。石畳の下。その下の、土。


その下の、岩。


崖は、岩でできていた。灰色の、硬い岩の塊。その上に、300年前から、町が乗っている。


岩の中に、筋が走っていた。


細い、割れ目のような筋が。何本も。


その筋の中に——水が、溜まっていた。


5日間の雨が、旧市街の石畳の隙間から、土の中へ、岩の割れ目の中へ、染み込んでいた。


染み込んで、行き場を失って、岩の奥で、溜まっていた。


水は、見ている間にも、少しずつ、増えていた。


割れ目を、内側から、押し広げながら。


「……リオさん」


僕の声が、かすれていた。


「崖の中に、水が溜まってます」


——スミを呼んだ。


スズリの妻で、子どもたちの母親。いちばん聡明な子。


『スミ。おねがい』


『いっしょ!』


——《先読み》。


この先、どうなるか。少しだけ、分かる力。


スミの目を借りて、崖を見た。


見る、というより、分かった。


岩の割れ目が、水に押されて、少しずつ、少しずつ、開いていく。


今夜は、まだ保つ。


明日の夜も、たぶん、まだ。


でも、その次の夜——。


『……ふたつ、ねる』


『みっつ……ない…』


スミが、言った。


——2晩。


2晩のうちに、崩れる。


——町の顔役たちが、リオの家に集められた。


旧市街の、長老たちだった。5人。みんな、60を過ぎている。


僕の話を、リオが伝えた。


長老たちは、顔を見合わせた。


それから、いちばん年上の、白い髭の老人が、首を振った。


「この崖は、300年、崩れたことがない」


「でも」


「300年だ。どんな嵐の年も、どんな長雨の年も、崩れなかった。わしの祖父の祖父の代から、ずっと」


老人は、僕を見た。


「北から来た若い方。王子殿下のお客人だということは、承知しております。湾を澄ませてくださったことも。……ですが、崖のことは、崖の上に住む者が、いちばんよく知っております」


——言い返せなかった。


僕は、この崖のことを、何も知らない。


知っているのは、フクが怖がっていることと、スズリの目に見えた水と、スミの言葉だけだ。


それは、この人たちにとっては、何の証拠にもならない。


獣が、そう言っている。


それだけだ。


——リオが、立ち上がった。


「俺は、こいつを信じる」


大声ではなかった。


いつもの、船乗りの大声ではなかった。


静かな、低い声だった。


「湾が死にかけてた3年、誰も原因が分からなかった。こいつは、来て1日で分かった。ウミカワウソに聞いて、ウニを見て、川を遡って。……俺たちが3年分からなかったことを、こいつは、聞いて分かった」


リオは、長老たちを見回した。


「今度も、こいつは、聞いたんだ。崖の中を見て、獣に聞いた」


長老の1人が、口を開きかけた。


リオが、それを遮った。


「マリネア第二王子、リオ・マリネアとして命じる」


——部屋が、静かになった。


リオが、王子として命令するのを、僕は初めて聞いた。


「旧市街の全員を、今日のうちに、崖の下へ下ろせ。港の上の丘へ。1人残らずだ」


——避難が、始まった。


でも、すぐに、新たな問題が発生した。


旧市街と、崖の下を繋ぐのは、細い石段が3本だけだった。


どれも、人が2人すれ違うのがやっとの幅。雨で濡れて、滑る。老人も、子どもも、病人もいる。荷物を抱えた人も。犬や猫を抱えた人も。


旧市街の住民は、612人。


飼っている犬や猫が、88匹。


「……今日のうちには、無理だ」


石段の下で、リオの部下が、首を振った。


「この雨で、この石段だ。1人下ろすのに、どれだけかかるか。夜になったら、もっと遅くなる」


2日で、612人と88匹。


——僕は、離れに戻った。


獣たちを、集めた。


離れの床に、みんな並んだ。


アズキ。ススキ。フク。アサ。バン。コナ。スズリ。スミ。子イタチの5匹。クルミ。ソラ。モチ。ギン。コンブ。ナギ。


僕は、その前に、座った。


「……みんな」


1体ずつ、聞いていくことにした。


何ができるのか。


——ソラ。


『ソラ。まちの、ひろば。いったこと、ある?』


旧市街の真ん中の、噴水のある広場。


『……みえる』


ある。


この数日、僕の頭に乗って、旧市街と新市街を何度も往復した。広場も、港の上の丘も、ソラにとっては、もう「行ったことのある場所」になっていた。


『ひと、はこべる?』


ソラは、首を傾げた。


ソラは、今まで、自分しか運べなかった。帽子を持たせても、帽子だけが残った。


——試してみることにした。


離れの庭で。


僕が、ソラを頭に乗せて、立った。


ハネを、肩に乗せた。


バンを、足元に置いた。


『ハネ、おねがい』


『いっしょ!』


『バン、おねがい』


『いっしょ!』


『ソラ、おねがい。……いっしょに、とぶ?』


『いっしょ!』


——ハネの《はげまし》が、ソラの力を、一段上げる。


バンの《波紋》が、それを、広げる。


ソラの目が、重なった絵の中から、1枚を選んだ。


離れの門の、上。


——ふっ、と、体が軽くなった。


目を開けたら、門の上にいた。


庭の端の、門柱の上に。僕が。僕ごと。


足元が、ぐらりと揺れて、僕は門柱にしがみついた。


『……たかい!』


頭の上で、ソラが叫んだ。


庭で、リーゼが、口を開けていた。


「……跳んだ」


「跳びました」


「お前ごと」


「僕ごと」


——幻獣同士が組むと、力が跳ね上がる。


ヴィルマが、そう言っていた。


もう1度、試した。今度は、僕と、リーゼと、エステル。3人で、ソラの周りに手を繋いで。


跳べた。


4人は、跳べなかった。


3人まで。


「……3人ずつなら、運べる」


——クルミ。


『クルミ。ほっぺ、どれくらい、はいる?』


『……』


クルミは、首を傾げた。


分からないらしい。この子自身、限界を試したことがないのだ。


庭の隅に、船大工が使っていた、壊れた荷車があった。


『あれ、はいる?』


クルミは、荷車を見た。


僕の肩の上で、頬を、ぷくっと膨らませた。


『いっしょ!』


——荷車が、消えた。


庭の隅から。


クルミの頬は、ほんの少しだけ、膨らんでいた。


「……入った」


「荷車が」


「入りましたね」


リーゼが、額に手を当てていた。


——アサ。


『アサ。まる、どれくらい、おおきく、できる?』


アサは、首を傾げた。


それから、フクと、バンのほうを見た。


『……フク、さき』


『バン、いっしょ』


——フクが先に知って、バンが広げてくれるなら。


どこまでも、と、言っているように聞こえた。


——ギン。


ギンは、何も聞かなくても、僕の隣に来て、座っていた。


雨の中で。


離れの庭の、濡れた石の上に。


体長2.2m、260kgの体を、雨に打たせて。銀白の毛が、濡れて、体に張りついていた。


ギンは、崖を、見上げていた。


旧市街の白い壁と、赤い屋根と、その下の、灰色の岩を。


じっと。


雨粒が、ギンの鼻先から、ぽたぽたと落ちていた。


「……ギン」


『……ユウマ』


ギンは、崖から目を離さずに、僕の名前を呼んだ。


それだけだった。


——日が暮れた。


雨は、止まなかった。


崖の中の水は、増え続けていた。


1晩目の夜が、始まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。