#66 竜の角の神殿
「見せたいもんがある」
リオが、そう言ったのは、ナギが来て3日目の朝だった。
「竜が好きなんだろ、ユウマ」
「好きです」
「じゃあ、来い」
——ルーセの旧市街の、いちばん奥。
崖の縁に近いところに、古い神殿があった。
石造りの、低い建物だ。屋根が丸くて、壁に窓がほとんどない。入口の石段が、何百年も人に踏まれて、真ん中だけ、すり鉢のようにへこんでいた。
「800年前からある」
リオが言った。
「ルーセでいちばん古い建物だ。旧市街の家は、この神殿の周りに、あとから建ったんだ」
中は、暗かった。
蝋燭が、何本か灯っていた。
目が慣れるまで、少しかかった。
慣れて——僕は、足を止めた。
——祭壇の上に、角があった。
竜の、角だった。
大きい。
僕の背丈の、3倍くらいある。
根元が、大人が両手を回しても届かないくらい太い。そこから、先へ向かって、ゆるやかに反りながら細くなっていく。表面は、灰褐色で、年輪のような筋が、何百本も走っていた。
先端は、天井の梁に届きそうだった。
「……うわ」
声が、出なかった。
いや、出た。小さく。
「うわ、うわ……」
「すげえだろ」
リオが、僕の隣で、得意そうに言った。
「800年前、北から、でっかい竜が来た。この港に、角を1本、置いていった。友を守るために、自分で折った角だ、って言い伝えだ」
——友を、守るために。
僕は、角の根元を見た。
折れていた。
根元から、ばっさりと。
折れ口は、ぎざぎざではなかった。斜めに、すっぱりと割れて、その断面が、ゆるやかな曲線を描いていた。まるで、何かの形に沿って、割れたみたいに。
——僕は、その形を、知っていた。
去年の冬。
北の、雲を突く岩山の、南面の岩棚。
4時間しゃがんで、待った相手。
全長40mの、古竜の頭に生えていた、4本の角。
そのうちの1本は、根元から、折れていた。
僕は、あのとき、4時間、あの竜の頭を見上げていた。見上げる以外に、することがなかったからだ。
だから、覚えていた。
折れ口の、形まで。
斜めに、すっぱりと。ゆるやかな曲線を描いて。
——同じ形だった。
「……リオさん」
「ん?」
「北から来た竜って、どんな竜ですか」
「さあな。言い伝えじゃ、でかかった、としか。背中に雪を積もらせてた、ってのもあったかな」
背中に、雪。
僕は、角から、目が離せなかった。
——ギンが、祭壇に近づいていった。
僕が止める間もなく。
体長2.2mの神獣が、蝋燭の間を縫って、祭壇の前まで行った。
角の、根元に、鼻先を近づけた。
匂いを、嗅いだ。
長いこと、嗅いでいた。
それから、振り返って、僕を見た。
『……おおきいの』
——大きいの。
ギンが、そう呼ぶ相手は、1つしかない。
去年の冬、あの岩棚で、ギンは僕の膝の上で寝ていた。あの古竜の目の前で。
あの匂いを、この子は、覚えているのだ。
「……オーガス」
僕は、小さく、呟いた。
「ん? なんか言ったか?」
「いえ」
僕は、首を振った。
言っても、たぶん、信じてもらえない。
僕自身、まだ、よく分からなかった。
800年前に、この港に角を置いていった竜。
北の山の、角の折れた古竜。
同じ竜なのだろうか。
——祭壇の上に、もう1つ、生き物がいた。
角の根元の、すぐ横に。
年を取った、灰色の猫だった。
丸くなって、寝ていた。
「ああ、そいつは神殿の猫だ」
リオが言った。
「番をしてるつもりらしい。もう15年くらい、ここに住んでる」
神殿の番をしている、年配の神官が、奥から出てきた。
「その猫が、ここ数日、祭壇から降りてこないのです」
神官は、困った顔をしていた。
「餌を置いても、降りてこない。水も飲まない。年ですから、心配で」
——僕は、祭壇の前に、しゃがんだ。
猫が、片目を開けた。
僕を見た。
僕は、手の甲を、祭壇の縁に置いた。
動かなかった。
3分。
猫が、のそりと起き上がって、伸びをして、僕の手の甲に、鼻をつけた。
契約はしていない。声だけ、届いた。
『……あったかい』
「あったかい?」
『ここ、あったかい』
——僕は、祭壇の石に、手を置いてみた。
角の根元の、すぐ横の石に。
温かかった。
ほんのりと。人の肌くらいの温かさ。
神殿の中は、暗くて、ひんやりしている。石の壁は、冷たい。
なのに、角の周りの石だけが、温かかった。
僕は、角そのものに、そっと手を触れた。
——温かかった。
800年前に折れた、竜の角が。
生き物の体温みたいに、ほんのりと。
「……リオさん。この角、温かいですよ」
「おう。昔から、そうだ」
リオは、当たり前のように言った。
「ルーセの子どもは、冬になると、この角に抱きつきに来るんだ。俺も、ガキのころ、よくやった」
「なんで、温かいんですか」
「さあな」
リオは、肩をすくめた。
「竜の角だから、じゃねえか?」
——800年前に折れた角が、なぜ、今も温かいのか。
誰にも、分からないらしかった。
僕は、しばらく、角に手を当てていた。
手のひらの下で、灰褐色の、年輪のような筋が、かすかに、温かかった。
——猫の件は、単純だった。
この3日、ルーセは嵐のあとで、少し冷えていた。
年を取った猫は、寒いのが苦手だ。神殿の中で、いちばん温かい場所から、動きたくなかっただけだった。
「祭壇の横に、毛布を敷いた籠を置いてあげてください。角のすぐそばに。餌と水も、そこに」
神官が、そうしてくれた。
猫は、祭壇から籠へ移って、水を飲んで、餌を食べて、また寝た。
角のすぐ隣で。
——夕方、港に下りた。
崖の石段を、1段ずつ。
港の、湾に面した石段の途中に、2人、並んで座っているのが見えた。
アーリアと、リオだった。
2人とも、海を見ていた。
夕日が、湾を赤く染めていた。コンブの群れが、岩場の近くで、仰向けに浮かんでいた。
アーリアとリオは、何か話していた。
声は、聞こえなかった。遠かったから。
リオが、何か言って、自分で笑った。
アーリアが、少しだけ、首を傾げた。
僕は、石段の上から、それを見ていた。
「……仲がいいなあ」
そう思った。
縁談の相手と、並んで海を見ている。
いいことだと思った。
——その夜、リオが、離れに来た。
酒の瓶を持って。
「飲むか?」
「僕、17なので」
「17なら、マリネアじゃ飲めるぞ」
「ヴェリシアでも、たぶん飲めます。でも、飲みません」
「真面目だな!」
リオは笑って、自分だけ飲んだ。
離れの窓辺に座って、海を見ながら。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「姫はさ、俺の話ばっかり、聞きたがるんだ」
——僕は、首を傾げた。
「リオさんの話を?」
「おう。海の話とか、船の話とか。俺がガキのころ、どこの港で何をやらかしたか、とか。自分のことは、ちっとも話さねえのにな」
リオは、酒の瓶を、軽く揺らした。
「……ありゃあ、自分のことを、いつもあと回しにする人だな」
それから、僕のほうを向いた。
「なあ、ユウマ。お前から見て、姫は、どんな人だ?」
僕は、少し考えた。
夕方の、港の石段のことを思い出した。
「……リオさんの話を聞いてるとき、楽しそうでした」
——リオが、僕を見た。
窓辺に座って、酒の瓶を持ったまま。日に焼けた顔で。
それから、笑った。
大声で。
腹を抱えて。窓辺から落ちそうになるくらい。
「リオさん?」
「いや、……そうか! そう見えたか!」
リオは、目尻を拭いながら、まだ笑っていた。
「お前、最高だな、ほんとに!」
それから、僕の背中を、ばんばん叩いた。痛かった。
僕には、何がそんなに嬉しいのか、よく分からなかった。
庭の、船の骨組みの上で、ナギが、長い首を持ち上げて、こっちを見ていた。




