#65 海の向こうから来た鳥
嵐が来たのは、ルーセに着いて10日目の夜だった。
南の海の嵐は、北の吹雪とは、違う音がする。
吹雪は、唸る。
南の嵐は、叩く。
窓を、屋根を、壁を。雨粒が、石を投げつけるみたいに、ばちばちと叩く。風が、港の船の帆柱を、ぎいぎいと鳴らす。波が、湾の防波堤を越えて、新市街の石畳まで上がってくる。
僕らが泊まっていたのは、新市街の、リオの家の離れだった。
リオの家は、王族の屋敷というより、大きな船大工の家だった。庭に、作りかけの船の骨組みが転がっている。
その夜、僕は眠れなかった。
胸の上で、フクが、ずっと震えていた。
『こわい』
「うん。嵐だね」
『こわい』
「うん。大丈夫」
フクの背中を撫でながら、窓の外の、ばちばちという音を聞いていた。
《胸騒ぎ》の音では、なかった。フクが地面を叩かない。これは、ただの嵐だ。
それでも、フクは怖いのだ。
この子は、いちばん臆病な子だから。
——翌朝、嵐は、嘘みたいに去っていた。
空が、洗ったみたいに青かった。
湾の水が、少しだけ濁っていた。嵐で、海の底の砂が巻き上がったのだ。昼までには、元に戻るだろう。
港に、漁師たちが集まっていた。
何か、指さしている。
湾の外の、岩礁のほうを。
「……鳥だ」
漁師の1人が言った。
「でかい鳥が、岩礁に落ちてる」
——僕は、港の先まで走った。
湾の外。500mほど沖に、黒い岩礁が、波の上に頭を出している。
その岩の上に、白いものがあった。
大きかった。
遠目にも、分かるくらい。
「オオワタリドリだ」
リオが、僕の隣に来て、目を細めた。
「海を渡る鳥だ。翼を広げると、大人2人ぶんくらいある。この辺りじゃ、めったに見ない」
「めったに?」
「おう。年に1羽、見るか見ないか。沖を、ずっと遠くを飛んでく鳥なんだ。陸には、ほとんど下りない」
漁師の1人が、小舟を出して、岩礁まで行ったのだという。
魚を、差し出した。
鳥は、食べなかった。
漁師が近づくと、翼を広げて、威嚇した。
右の翼を、半分しか広げられないまま。
「……怪我してる」
「嵐で、岩に打ちつけたんだろうな」
——リオの小舟で、岩礁へ渡った。
リオが漕いで、僕が舳先に座った。
波は、まだ少し高かった。小舟が、上下に揺れた。
岩礁が、近づいてくる。
鳥が、見えてきた。
大きい。
翼をたたんでいても、僕の腰より高い。白い体に、翼の先だけが、墨を刷いたように黒い。長い、少し曲がった、黄色い嘴。
右の翼が、変な角度で、垂れていた。
鳥は、小舟を見て、首を伸ばした。
嘴を開けて、鋭く、1声鳴いた。
来るな、と。
「……ここで、降ろしてください」
僕は、言った。
「岩礁の、端っこに」
「濡れるぞ」
「大丈夫です」
——岩礁の上は、濡れていた。
波しぶきが、ときどき、足元まで上がってくる。黒い岩に、小さな貝が、びっしり張りついている。
僕は、鳥から、10mほど離れたところに、しゃがんだ。
いつもどおり。横を向いて。視線は、濡れた岩の上。膝の上に腕を置いて。
動かない。
——波の音がした。
ざあ、と寄せて、しゅう、と引く。
寄せて、引く。
寄せて、引く。
鳥が、ときどき、鳴いた。
僕は、動かなかった。
リオは、小舟の上で、黙って待っていた。
30分。
鳥が、鳴かなくなった。
1時間。
鳥が、首を下ろした。
僕の尻が、波しぶきで、ずぶ濡れになっていた。
1時間半。
——ぺた、ぺた、と音がした。
水かきのある足が、濡れた岩の上を歩く音だった。
鳥が、近づいてきていた。
右の翼を引きずりながら。1歩ずつ。
僕の前で、止まった。
長い首が、ゆっくり下りてきた。
黄色い嘴の先が、僕の手の甲に、触れた。
冷たくて、硬くて、少し塩辛い匂いがした。
——後頭部が、じんわり温かくなった。
テイム、成立。
47体目。
『……ひと』
頭の中に、声が落ちてきた。
かすれた、細い声だった。
『うみ、むこう』
『かえる』
——海の、向こう。
帰る。
僕は、顔を上げて、鳥の目を見た。
黒くて、丸くて、遠くを見る目だった。
ソラの目に、少し似ていた。
「……君は、この海の鳥じゃないんだね」
リオが、年に1羽見るか見ないか、と言った鳥。沖を、ずっと遠くを飛んでいく鳥。
この子は、海の向こうから来たのだ。
嵐に、流されて。
——港に戻ると、エステルが待っていた。
「翼を、見せていただけますか」
鳥は、最初、エステルから顔を背けた。
僕が、隣で、首を撫でていると、少しずつ、翼を広げさせてくれた。
エステルが、翼の付け根に手を当てた。
手のひらが、白く光った。
「……骨は、折れていません。付け根の筋が、ひどく伸びています」
「治りますか」
「治ります」
エステルは、少しだけ、言いにくそうにした。
「ですが、海を渡れるほどに戻るには、何ヶ月も、かかると思います」
——何ヶ月も。
僕は、鳥の横顔を見た。
鳥は、湾の外の、海のほうを見ていた。
南の、ずっと向こうを。
——鳥は、港に置いた桶の魚を、食べなかった。
漁師がくれた、この湾で獲れた、新鮮な魚だ。
鳥は、嘴の先で1度つついて、それきり、顔を背けた。
「……食べない」
『におい』
『しらない』
——知らない匂い。
この辺りの魚の匂いを、この子は知らないのだ。
ずっとずっと遠くの海で、向こうの魚を食べて、生きてきた子だから。
僕は、少し考えた。
それから、コンブを呼んだ。
コンブは、湾の岩場で、群れの仲間たちと一緒に、ウニを割っていた。僕が呼ぶと、仰向けに浮かんだまま、すいすいと寄ってきた。
『コンブ。うに、ひとつ、わって?』
コンブは、首を傾げた。
それから、海に潜って、ウニを1つ抱えて浮かんできた。
胸の上で、白い縞の石で、こんこんと殻を割った。
中の、橙色の身が見えた。
コンブは、それを、殻ごと、岸辺に押し出した。
『ありがとう』
コンブは、仰向けのまま、首を傾げた。まだ、知らない言葉なのだ。
僕は、それを受け取って、鳥の前に置いた。
鳥は、ウニを見た。
首を傾げた。
嘴の先で、つついた。
——食べた。
殻の中の橙色の身を、嘴で掻き出して、一気に。
それから、顔を上げて、コンブを見た。
『……もっと』
コンブは、2つ目のウニを取りに、海へ潜っていった。
ウニは、どこの海にもいる。
この子の知っている、海の向こうの海にも。
——名前を、つけた。
「ナギ」
嵐の夜に、落ちてきた子。
だから、凪、という名前をあげたかった。
波のない、静かな海の名前を。
『……ナギ』
鳥は、首を傾げて、繰り返した。
——その夜、リオの家の離れで、寝台に横になっていた。
胸の上に、フク。枕に、ソラ。足元に、アズキ。
窓の外で、波の音がしていた。
昨夜の嵐とは違う、静かな、寄せて返す音。
庭の、作りかけの船の骨組みの上に、ナギが止まっていた。右の翼に、エステルが巻いた布が、白く見えた。
眠りかけたとき、頭の中に、声が落ちてきた。
ナギだった。
『……あったかい、やま』
僕は、目を開けた。
『あったかい、やま?』
『……おおきいの』
『ねてる』
——温かい山。
大きいのが、寝ている。
僕は、天井を見ながら、考えた。
何のことだろう。
海の向こうの、どこかの山のことだろうか。この子が、生まれた場所の。
『おおきいの、って、なに?』
『……』
沈黙だった。
ナギは、それきり、何も言わなかった。
骨組みの上で、長い首を翼の下に入れて、眠っていた。
僕は、しばらく、波の音を聞いていた。
温かい山。
大きいのが、寝ている。
何のことかは、分からなかった。




