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#64 港町ルーセ

南へ、6日。


王都から南へ下る街道は、北へ向かう道とは、何もかもが違った。


雪がない。


2日目には、道の両側の麦畑が、もう青かった。3日目には、見たことのない形の木が並び始めた。葉が厚くて、つやつやしている。4日目の朝には、外套を脱いだ。


5日目の昼、風の匂いが変わった。


最初に気づいたのは、アズキだった。


荷馬車の荷台から身を乗り出して、鼻をひくつかせて、尻尾を全力で振り始めた。


『におい!』


『しらない、におい!』


「知らない匂い?」


僕も、鼻から息を吸った。


——塩の匂いだった。


それと、干した海藻と、魚と、濡れた木と。


僕は、荷台の上で、立ち上がっていた。


「……海だ」


——6日目の朝、丘を越えた。


越えた瞬間、視界の下半分が、青くなった。


青い。


どこまでも、青い。


空の青とは、違う青だった。もっと深くて、もっと濃くて、陽の光を受けて、白く、ちかちかと光っている。


それが、地平線まで。


右から左まで。視界の端から端まで。


「うわ……」


僕は、荷馬車の荷台の上で、声を上げていた。


「すご! 視界全部、海だ! この世界にも、海がある!」


「そりゃあるだろ」


リーゼが、呆れた声で言った。


「ありますよね! ありますけど! 見るのは初めてなんです! 見てください、あの色! 沖のほうが、濃くなってる! 深いんだ! あっちの、白く泡立ってるところ、たぶん岩礁で——」


「落ちるぞ」


リーゼが、僕の襟を掴んで、荷台の上に座らせた。


隣で、リオが、腹を抱えて笑っていた。


「お前、最高だな! 海を見て、そんなに喜ぶ奴、初めて見た!」


アーリアも、笑っていた。


——港町ルーセは、2つに分かれていた。


崖の上の、旧市街。


湾沿いの、新市街。


湾に向かって、高さ40mほどの崖が、ぐるりと半円を描いている。その崖の上に、古い石造りの家々が、びっしりと並んでいる。白い壁と、赤茶色の屋根。300年前からそこにある町だ、とリオが言った。


崖の下の、湾に沿った細長い平地には、新しい町がある。港と、市場と、船大工の小屋と、漁師の家。


崖の上と下は、細い石段で繋がっていた。


「上に600人くらい。下に、その倍くらい」


リオが、崖を見上げて言った。


「俺は、下で育った。船の上で、って言ったほうが近いけどな」


——湾に、下りた。


港の外れの岩場に、ウミカワウソたちがいた。


黒い岩の上に、焦げ茶色の丸い体が、点々と並んでいる。


34頭。


リオが言っていた数と、同じだった。


みんな、動かなかった。


岩の上に、ぺたりと伏せて。仰向けになっている子は、1頭もいない。コンブのように、胸の上で石を抱えて浮かんでいる子も、1頭もいない。


毛が、ぼさぼさだった。


ウミカワウソは、毎日何時間もかけて、毛づくろいをする。毛の間に空気を溜めて、冷たい海水から体を守るためだ。


その毛づくろいを、この子たちは、していなかった。


僕は、岩場の端に、しゃがんだ。


コンブの桶を、隣に置いた。


コンブが、桶の縁から身を乗り出して、岩の上の仲間たちを見ていた。


——1頭が、這い寄ってきた。


大きな、年を取った牝だった。コンブの匂いを嗅ぎに来たらしい。


その鼻先が、僕の手の甲に、触れた。


契約はしていない。でも、声は届いた。


『うみ、へん』


『うに、いっぱい』


『ゆらゆら、ない』


——僕は、湾を見た。


岩場の先の、浅い海。


水が、少しだけ、濁っていた。


濁っている、というほどではない。ほんのわずかに、青の中に、緑とも茶ともつかない色が、混じっている。


「スズリ」


『おねがい』


『いっしょ!』


——海が、透けた。


水の中。海の底。


岩の上に、何かが、びっしりと並んでいた。


黒くて、丸くて、とげとげした。


ウニだった。


何百。何千。


海の底の岩を、端から端まで、ウニが埋め尽くしていた。


そして——ウニのほかに、何もなかった。


「……海藻が、ない」


僕は、呟いた。


「リオさん。昔、この湾に、海藻の森があったんですよね。背の高い、ゆらゆらした」


リオの顔色が変わった。


「……あった。コンブが昼寝してた森だ。ガキのころは、湾の半分が、海藻の森だった」


「今は、ありません。全部、ウニに食べられてます」


——分かった。


全部、繋がった。


ウミカワウソは、ウニを食べる。


ウミカワウソが弱って、潜らなくなれば、ウニを食べる者がいなくなる。


ウニは、海藻を食べる。


ウニが増えすぎれば、海藻の森が、根元から食べ尽くされる。


海藻の森は、小さな魚の、隠れ家で、揺りかごだ。


森が消えれば、魚が消える。


漁が、落ちる。


——僕が向こうで見た動物番組で、同じ話をやっていた。


遠い国の、冷たい海の話だった。ラッコがいなくなって、ウニが増えて、海藻の森が消えて、魚がいなくなった海の話。


この世界の海でも、同じことが起きていた。


「……でも、なんで、ウミカワウソが弱ったのか」


そこが、まだ分からなかった。


僕は、スズリの目で、湾の中を見回した。


水の流れを、たどっていった。


湾の奥。


川が1本、湾に流れ込んでいた。


その川の水の中に、色が、混じっていた。


薄い、藍色。


「リオさん。あの川の上流に、何がありますか」


リオは、少し考えた。


「……染物工房だ。3年前に、できた」


——3年前。


ウミカワウソが弱り始めたのと、同じころ。


——工房は、川を1km遡ったところにあった。


大きな木造の建物で、中から、藍の匂いがした。桶がずらりと並んで、布が干してある。


工房の親方は、日に焼けた、気のいい中年の男だった。


リオが事情を話すと、親方は、真っ青になった。


「……俺の、染め汁が」


「知らなかったんだろ」


リオが言った。


「知らなかった。……本当に、知らなかった。川に流せば、海が薄めてくれると思ってた」


親方は、両手で顔を覆った。


悪い人ではなかった。


誰も、知らなかっただけだ。


「排水の場所を変えよう」


リオが、親方の肩に手を置いた。


「湾に流れ込まない、東の窪地に溝を掘る。人手は、俺が船から出す」


——工房の水は、それで止まる。


でも、湾の中には、3年分が、もう溜まっている。


——翌日の夕方。


僕は、湾のほとりに、コナとバンを連れていった。


『コナ、おねがい』


『いっしょ!』


『バン、おねがい』


『いっしょ!』


コナが、湾に面した砂浜を、掘り始めた。


前肢をつかって、猛烈な速さで。


コナの体が、うっすら光っていた。


光が、砂の底へ落ちていく。砂の下の、海の水が染み込んでいるところへ。


——バンが、波打ち際に、一歩踏み出した。


足元から、虹の波紋が、広がった。


砂浜を越えて。


波打ち際を越えて。


海の上へ。


虹の輪が、海の上を、渡っていった。


コナの光を、乗せて。


1つ。2つ。3つ。


バンが一歩ずつ踏み出すたびに、新しい虹の輪が、海の上に生まれて、沖へ向かって、ゆっくり広がっていく。


夕日が、湾を赤く染めていた。


その赤い海の上に、虹の輪が、いくつも、いくつも、広がっては、消えていった。


——港に、人が集まっていた。


漁師たちが。船大工たちが。市場の女の人たちが。崖の上の旧市街から、石段を下りてきた人たちも。


港の石畳に、ずらりと並んで。


誰も、声を出さずに。ただ、湾の上の虹を、見ていた。


アーリアも、港の端に立って、見ていた。


僕も、コナとバンから、目を離せなかった。


——3日かかった。


3日目の朝、湾の水が、澄んでいた。


藍色が、どこにもなかった。


岩場の上で、ウミカワウソたちが、動いていた。


1頭が、毛づくろいを始めた。前肢で、顔を、胸を、脇腹を、丁寧に。


もう1頭も。


そして、1頭が、海に飛び込んだ。


次々と潜った。


——コンブが、桶から、飛び出していた。


僕が止める間もなく。


桶の縁を越えて、岩場を転がって、海の中へ。


群れの中へ。


しばらく、浮かんでこなかった。


それから——。


焦げ茶色の丸い頭が、水面に、ぽこりと浮かんだ。


仰向けになった。


胸の上に、黒くて、とげとげした、大きなウニを抱えていた。


脇のたるみから、白い縞の石を取り出して、ウニの殻を、こんこんと叩き始めた。


3年ぶりに。生まれた湾で。


——リオが、僕の肩を、ばんと叩いた。


痛いくらいに。


「ユウマ」


「はい」


「お前、うちの国に住まないか」


僕は、笑った。


笑って、答えなかった。


湾の上で、コンブたちが、ウニを割る音が、こんこんと響いていた。


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