#63 縁談
その話を僕に教えてくれたのは、トトだった。
翌朝、獣舎で。
糞の桶を運んでいたら、トトが走ってきた。
走ってきて、桶を持った僕の腕を、両手で掴んだ。
「兄ちゃん!」
「こぼれる、こぼれる」
「兄ちゃん、大変だ!」
「なに?」
「リオ様! 姫様と! 結婚!」
——僕は、桶を置いた。
「……え?」
「縁談だよ、縁談! 昨日の夜、王様の私室で! マリネアのリオ様が、姫様と結婚したいって!」
トトの情報網は、相変わらず、僕の理解を超えている。
「王宮じゅう、その話でもちきりだよ! 厨房でも、洗濯場でも、厩でも!」
「……へえ」
僕は、それしか言えなかった。
同盟の話だと思っていた。表向きは、同盟。
表向きではないほうが、あったのだ。
——あとで、もう少し詳しく聞いた。
リオは、王と、アーリアの前で、率直に言ったのだという。
隠さなかった。
「これは、政略だ。……です。マリネアとヴェリシアの同盟を、確かなものにするための縁談です」
リオは、そう言ってから、少しだけ言葉を崩した。
「でも、俺は、姫を大事にする。約束できるのは、それだけだ。それしか約束できねえ」
——果たせるかどうか分からないことは、約束しない。
果たせることだけを、約束する。
僕は、それを聞いて、リオを好きになった。
たぶん、いい人なのだと思った。
——アーリアの答えも、トトが教えてくれた。
「姫様、なんて言ったと思う?」
「なんて?」
「『考えさせてください』だって!」
——考えさせてください。
僕は、獣舎の柵にもたれて、その言葉を、頭の中で繰り返した。
考えさせてください。
大事なことは、すぐには決められない。
僕にも、そういうことがある。
冬の、あの屋根の上で。
僕も、まだ、答えを出していない。
「……そっか」
「兄ちゃん、それだけ?」
「うん」
「なんか、ないの?」
「なんかって?」
トトは、口を開けて、閉じて、それから、ものすごく複雑な顔をした。
12歳の顔ではなかった。
「……もういい」
トトは、桶を持って、ぷりぷりしながら行ってしまった。
僕は、首を傾げた。
——昼過ぎ、中庭で、リオに会った。
リオは、コンブの桶の横に座って、コンブの毛を、指で梳いていた。
コンブは、仰向けに浮かんで、胸の上で、白い石を抱えていた。
「よう、ユウマ」
「リオさん」
「聞いたか」
「トトから、少し」
リオは、頭を掻いた。
「……いきなりで、驚いたよな」
「驚きました」
「姫には、悪いことしたと思ってる。会ったばっかりの、海から来た変な奴に、いきなり結婚してくれって言われてさ」
リオは、コンブの鼻先を、指でつついた。
「でも、国と国の話だからな。俺が言わなくても、いつか誰かが言う。だったら、俺が言ったほうが、姫を大事にできる」
「……リオさん」
「ん」
「リオさん、いい人ですね」
リオが、目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「お前、面白い奴だな!」
「さっきの、約束の話です」
僕は、言った。
「約束できるのは、それだけだ、って。……守れる分だけ、約束するんですよね」
リオは、笑うのをやめた。
コンブの鼻先から、指を離して、僕を見た。
「船乗りはな、海の上で、できねえ約束をしちゃいけねえんだ」
リオは言った。
「『必ず港に帰る』とは言わねえ。海は、何が起きるか分からねえからな。代わりに、『帰れるように、やれることは全部やる』って言う。……親父に、そう教わった」
「……いいお父さんですね」
「口うるせえだけだ」
リオは、照れたように頭を掻いて、それから、コンブの桶に手を突っ込んで、水をぱしゃりと僕の顔にかけた。
コンブが、桶の中で、仰向けのまま、石を抱えて、くるりと1回転した。
——夕方、回廊でリーゼとすれ違った。
リーゼは、騎竜団の詰所からの帰りだった。鞍の手入れをしていたらしく、手に油の匂いがついていた。
「おい」
「はい」
「マリネアの王子の話、聞いたか」
「聞きました」
「……で?」
「で?」
「どう思った」
僕は、正直に答えた。
「リオさん、いい人ですよ」
——すねを、蹴られた。
結構、強く。
「痛っ!」
「……」
リーゼは、何も言わずに、行ってしまった。
僕は、回廊の真ん中で、すねを押さえて、しゃがみこんでいた。
なぜ、蹴られたのか、分からなかった。
リオさんが、いい人だと言っただけなのに。
足元に、アズキが寄ってきて、僕のすねの匂いを嗅いだ。
『いたい?』
「……痛い」
『なんで?』
「分かんない」
『……』
アズキも、分からないらしかった。
——アーリアとは、その日、1度だけ会った。
書庫で。いつもの朗読の時間に。
アーリアは、いつもどおりだった。
いつもどおり、古文書を開いて、いつもどおりの声で、読み上げた。
写本の癖の話も、綴りの違いの話も、した。
いつもどおりに。
僕は、縁談のことを、何も聞かなかった。
聞くことではない、と思った。国と国の話だ。僕が口を出すことではない。
朗読の途中で、アーリアが、1度だけ、読むのを止めた。
窓の外を見た。
中庭で、リオがコンブの桶を覗き込んで、何か大声で笑っていた。
アーリアは、それを、少しのあいだ見ていた。
それから、帳面に目を戻して、読み上げを続けた。
——リオには、頼みごとが、もう1つあった。
翌日、リオは、獣舎まで僕を訪ねてきた。
いつもの大声ではなかった。
「ユウマ。1つ、頼みがある」
「はい」
「マリネアに、ルーセって港町がある。俺が育った町だ」
リオは、南の空のほうを見た。
「そこの湾にな、ウミカワウソの群れがいる。コンブの生まれた群れだ。34頭」
「34頭」
「その群れが、弱ってる。3年くらい前から。だんだんと岩場で動かなくなって、最近じゃ、ほとんど潜らなくなった」
リオの声が、低くなった。
「それと同じころから、徐々に湾の漁が落ちてる。魚が、いなくなってきてる」
「……原因は」
「分かんねえ。誰にも分かんねえんだ」
リオは、僕を見た。
「お前、動物の声が聞けるんだろ。……来てくれないか」
僕は、桶の中のコンブを見た。
コンブは、仰向けに浮かんで、石を抱いて、僕を見ていた。
『うみ』
『かえる?』
——この子も、帰りたいのだ。生まれた湾に。
「行きます」
僕は、言った。
——その日の午後、小さな騒ぎがあった。
リオの従者の馬が、王宮の中庭の石畳を嫌がって、動かなくなった。
マリネアから連れてきた、脚の長い、栗毛の牝馬だ。中庭の真ん中で、前脚を突っ張って、首を振っている。
「石畳が、慣れねえんだろう。マリネアは砂の道が多いから」
リオが言った。
僕は、しゃがんで、鼻先が触れるのを待った。
『あし』
『いたい』
『かたい、いたい』
——硬いと、痛い。
僕は、前脚の蹄を持ち上げた。
蹄鉄の釘が、1本、飛び出していた。
柔らかい砂の道なら、気にならない。でも、硬い石畳の上では、1歩ごとに、その釘が蹄の中に響く。
「リオさん。蹄鉄の釘が、1本出てます。王宮の鍛冶場で、打ち直してもらえます」
リオが、蹄を覗き込んで、口笛を吹いた。
「……お前、ほんとに、何でも分かるんだな」
「この子が、言ってくれたので」
——鍛冶場で釘を打ち直すと、栗毛の馬は、石畳の上を、何事もなかったように歩いた。
——南へ行くことが、決まった。
王の名代として、アーリアも同行することになった。
同盟の話を進めるためだ。そして、たぶん、縁談の返事のためにも。
出発は、3日後。
僕は、はじめて、この世界の海を見に行く。




