#61 獣のための条文
ヴァルデン砦に戻ったのは、5月の終わりだった。
国境の村から、2日。
帰り道、荷馬車の荷台は、行きより狭くなっていた。村の人たちが、干したきのこと、燻した魚と、毛糸の手袋を、山ほど積んでくれたからだ。
手袋は、全部で14組あった。
「……人数より多い」
リーゼが言った。
「狼の分だそうです」
ニナが伝えた。
「狼は、手袋をしない」
「気持ちだそうです」
リーゼは、手袋を1組取って、自分の手にはめた。少し小さかった。それでも、外さなかった。
——砦に着くと、会議が、動いていた。
国境の村でのことが、先に伝わっていたらしい。オルガが村から砦へ戻る途中で、帝都へ早馬を出したのだという。
帝国の飢えた村の泉を、王国のテイマーが澄ませた。咳が止まった。370頭の獣が、村の家畜を襲わずに済む場所へ移った。
それは、帝国側にとって、食料の約束より重いことだったらしい。
——3日後、停戦協定が結ばれた。
砦の広間で。
帝国の代表として、オルガ。王国の代表として、アーリア。
長い卓の上に、分厚い羊皮紙が2通、並んでいた。帝国の文字で1通、王国の文字で1通。
僕には、どちらも読めない。
でも、中に何が書いてあるのかは、知っていた。
国境線は、戦の前のまま。
緩衝地帯は、なくす。代わりに、両国の兵が一緒に見回る。
王国は、この冬に向けて、国境の村々へ麦を送る。帝国は、その代わりに、北の鉄を安く売る。
——そして、1行だけ。
僕が頼んで、入れてもらった条文がある。
アーリアが、それを読み上げた。
「『両国は、獣と、果たす気のない約束をしない』」
広間が、静かになった。
《誓約鎖》という言葉は、どこにも使われていなかった。
でも、それが何のことかは、広間の全員が分かっていた。
オルガが、ゆっくり頷いた。
「帝国は、この条文を、喜んで受け入れます」
オルガは言った。
「もっとも、使おうにも、もう使えませんが」
370頭に、1度に嘘を知られた。この大陸の獣は、あの日のことを覚えている。
「それでも、書いておくことに意味があります」
アーリアが言った。
「100年後の誰かが、また同じことを思いつかないように」
——条文は、ほかにも2つ、獣のためのものがあった。
1つは、国境の、両国の兵が見回る道の途中に、獣舎を1つ置くこと。両国で建てて、両国で世話をする。怪我をした獣、はぐれた獣、冬を越せない獣を、どちらの国の獣でも預かる。
もう1つは、その獣舎の、総監飼官のこと。両国の獣舎の世話を、まとめて預かる役目だ。
「総監飼官に、帝国の元獣導士、ニナ・レントを任じます」
アーリアが読み上げたとき、広間の隅で、ニナが顔を上げた。
聞いていなかったらしい。
僕も、ついさっきまで知らなかった。オルガとアーリアが、2人で決めたのだという。
「……わたし、が」
ニナの声が、震えていた。
「あなたは、両国の言葉が話せます」
オルガが言った。
「そして、獣たちが、あなたの匂いを覚えています」
ニナの足元で、ラウが、尻尾を振っていた。
——ニビは、北に残ることになった。
国境の村の林から、南西の谷まで。あのあたりの獣たちの、まとめ役として。
テイムは、続いたままだ。
でも、王都からは、念話が届かない。半径5kmの、ずっと外になる。
出発の前の日、僕は、国境の見回り道の端まで、ニビを送っていった。
「ニビ」
『ニビ』
この子は、まだ、自分の名前を繰り返すのが好きだ。
「ここ、いる?」
『いる』
「みんなの、そば?」
『みんな、そば』
「……うん」
僕は、ニビの首を、両手で抱いた。
鈍色の毛。短くて、ごわごわしていて、冷たい風の匂いがする。その下の、温かい体。
「また、来るから」
僕は、そう言った。
言ってから、少し迷った。
来られるかどうか、分からない。
僕は、この1年足らずで、獣に、果たせるか分からない約束をしないことを覚えた。
だから、言い直した。
『また、くる。……くる、したい』
来たい。
それなら、嘘ではない。
ニビは、僕の手の甲に、鼻をつけた。
『まつ』
——待つ。
ギンと同じ言葉だった。
——調印式の直前に、小さな騒ぎがあった。
羽根ペンが、なかった。
調印に使う、白い大きな羽根ペン。書記官が、朝から卓の上に用意しておいたはずのものが、なくなっていた。
「クルミか?」
リーゼが、真っ先に僕を見た。
僕は、クルミの頬袋の一覧を見た。
『おねがい』
『いっしょ!』
匙41本。どんぐり96個。小石14個。羽根ペン、なし。
「クルミじゃないです」
「じゃあ、誰だ」
——広間の窓の外で、鳩が鳴いた。
窓枠の上に、灰青の、小柄な鳩が止まっていた。
マメだった。
この砦の鳩舎の生まれで、ツグミの隣にいた伝令鳩。今度の旅にも、ツグミと一緒についてきていた。
マメの足元に、白い羽根が1本、あった。
僕は、窓の下へ行って、聞いた。
『マメ。それ、なに?』
『あたらしい』
『あたらしい?』
『すきな、はね』
——好きな羽根。
僕は、羽根ペンを見て、それから、マメを見た。
羽根ペンの羽根は、白い。根元のほうが、少しだけ灰色がかっている。
マメの羽根と、よく似た色だった。
それも、とても大きくて、立派な。
マメは、自分の羽根に似た、見たこともないくらい立派な羽根を見つけて、巣に持ち帰ろうとしていたのだ。
鳩舎の、自分の巣に。
「……マメ。それ、みんなで、つかう」
『……』
『マメの、はね』
「うん。分かる」
僕は、少し考えた。
それから、ツグミを呼んだ。
ツグミは、灰色の伝令鳥だ。マメより一回り大きい。ちょうど換羽の時期で、翼の端の羽根が、何本か抜けかけていた。
『ツグミ。はね、1本、マメに、あげる?』
ツグミは、首を傾げた。
それから、自分の翼をくちばしで梳いて、抜けかけていた羽根を1本、引き抜いた。
灰色の、きれいな風切り羽根だった。
ツグミは、それをくわえて、マメの隣に止まって、差し出した。
マメは、ツグミの羽根を、長いこと見ていた。
それから、白い羽根ペンを、窓枠から、ころりと落とした。
ツグミの羽根をくわえて、鳩舎のほうへ飛んでいった。
僕は、落ちてきた羽根ペンを、両手で受け止めた。
「……ありがとう、ツグミ」
ツグミは、窓枠の上で、翼をたたんで、知らん顔をしていた。
——羽根ペンは、書記官の手に戻った。
オルガが、署名した。
アーリアが、署名した。
羽根ペンの先には、マメが少しかじった跡がついていたが、誰も気にしなかった。
——調印のあと、オルガが、僕のところに来た。
「テイマー殿」
「はい」
「言っておかなければならないことがあります」
オルガの目は、あの交渉の初日と同じ、硬い灰色だった。
「帝国の寒さは、何も変わっていません」
「……はい」
「凍える息は、今年も来ます。来年も来るでしょう。北の村の麦は、今年も実りません。この協定で、王国から麦が来る。それで、この冬は越せる。でも、それだけです」
オルガは、窓の外の、北の山を見た。
「これは、1年ぶんの時間を買っただけです」
僕は、何も言えなかった。
分かっていた。
泉を澄ませても、370頭の居場所を見つけても、北が寒いことは、何も変わらない。
オルガは、それから、少しだけ、声を柔らかくした。
孫の話をするときの声だった。
「……ですが、1年あれば、何かが見つかるかもしれない。私は、そう思うことにしました」
——王都へ帰る日の朝。
荷馬車が、砦の門を出た。
僕は、荷台の上で、振り返った。
石の城壁。北を向いた稜堡。中庭の、雪の溶けた石畳。
去年の冬、担架で運ばれてきた場所だ。
僕の頭の上で、ソラも、振り返っていた。
荷馬車が門を出てからも、ずっと。
砦が小さくなって、丘の向こうに隠れるまで。
大きな黒い目で、じっと、砦のほうを見ていた。
「ソラ?」
『……みえる』
「うん。砦、見えるね」
『みえる』
ソラは、砦が見えなくなっても、しばらく、そっちを見ていた。
目に、焼きつけるみたいに。
——僕は、荷台の上で、考えていた。
泉の水は、澄んだ。狼たちは、谷へ行った。ニナは、総監飼官になった。
この国で、僕がやれることが、また1つ、増えた。
そう思ってから、少しだけ、胸が痛んだ。
「この国で」と、僕は思ったのだ。
「この世界で」でも、「ここにいるあいだに」でもなく。




