#60 グレゴールの問い
3日目の朝、オルガが、1人の男を連れてきた。
村の外れの、泉のそばで。
僕は、ニビの毛を梳いていた。春の抜け毛は、狼も多い。灰色の毛の塊が、櫛を通すたびに取れる。泉に飛ばないよう、足元の籠に押し込んでいくと、籠はもう半分埋まっていた。
「テイマー殿」
オルガの声だった。
振り返った。
オルガの後ろに、男が立っていた。
50代。痩せている。灰色の、飾りのない外套。疲れた目。
——知っている顔だった。
「グレゴール・アイゼン」
オルガが、紹介した。
「獣導長の職は、2月に解かれました。今は、帝都の外れで暮らしています」
オルガは、少しだけ間を置いた。
「この獣たちを、よく知っている者ですので。連れてまいりました」
——グレゴールは、僕の前に立った。
去年の冬、使者交換の天幕で会ったときより、ずっと痩せていた。頬がこけて、外套が肩より少し余っていた。
でも、背筋は、まっすぐだった。
「お久しぶりです」
静かな敬語だった。
あのときと、同じ声だった。
「……はい」
僕は、立ち上がった。
足元で、ニビが、低く喉を鳴らした。唸ったのではない。ただ、この男の匂いを、覚えているのだ。
グレゴールは、ニビを見た。
「……第17番」
小さく、そう言った。
「今は、ニビです」
僕は言った。
「名前をつけました」
グレゴールは、しばらく、ニビを見ていた。
それから、僕のほうへ、視線を戻した。
「1つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「はい」
グレゴールは、両手を、体の前で組んだ。
組んだ指に、力が入っているのが分かった。
「ヴェルグは、最後に、何を言い残したのですか」
——泉のそばが、静かになった。
オルガが、目を伏せた。
ニナが、少し離れたところで、ラウの首を抱いたまま、動かなくなった。
僕は、グレゴールの顔を見ていた。
この人は、1月の雪原で、ヴェルグが自分のもとを離れていくのを、見ていた。
見ていて、「……お前は、最後に何を言い残したんだ」と言った。
僕はそこにいなかった。あとで、聞いた。
この人は、それからずっと、その答えを探していたのだ。
4ヶ月。
——嘘は、つかない。
それだけは、決めていた。
「最後、かどうかは、分かりません」
僕は言った。
「僕がヴェルグの声を聞いたのは、1度だけです。去年の冬、使者交換の天幕で。あなたの隣に、あの子が伏せていたときです」
「……はい」
「あの子は、こう言っていました」
僕は、1語ずつ、そのまま伝えた。
「『この、ひと』」
グレゴールの指が、動かなかった。
「『いい、ひと』」
「……」
「『ずっと、いっしょ』」
——グレゴールは、何も言わなかった。
表情も、変わらなかった。
ただ、組んでいた指が、ほどけた。
両手が、体の横に、ぶらりと下がった。
長い、沈黙だった。
泉の水が、湧き口から、ことことと音を立てていた。
林のほうで、狼が1頭、咳をした。まだ少しだけ、治りきっていない子だ。
グレゴールは——。
どこも見ていないような目で、泉の水面を見ていた。
「……そうですか」
それだけ、言った。
それから、深く礼をして、泉のそばを離れていった。
オルガは、何も言わずに、その背中を見送っていた。
——僕は、しばらく、動けなかった。
ニビが、僕の手の甲に、鼻をつけた。
『……ひと』
「うん」
僕は、ニビの首を撫でた。
鈍色の毛が、朝の光を吸って、少しだけ温かかった。
——昼には、広場が賑やかになっていた。
ニナの狼のラウと、鷹のシュネーが、村の子どもたちに囲まれていた。
ラウは、若い牡の狼だ。ニナのそばを離れない。でも、子どもは嫌いではないらしい。子どもたちが周りを走り回っても、耳を立てて、尻尾をゆっくり振っていた。
シュネーは、ニナの左腕に乗って、子どもたちを見下ろしていた。1人の女の子が、そっと羽根に指を伸ばすと、シュネーは首を傾げて、されるままになった。
子どもたちが、興奮して、何か叫んでいた。
ニナが、笑いながら答えていた。
——1人だけ、輪に入れない子がいた。
小さな男の子だった。5つか、6つ。
輪の外で、ラウのほうを見ていた。
手を伸ばしかけて、引っ込める。また伸ばしかけて、引っ込める。
怖いのだ。
狼は、大きい。この子の背丈より、ずっと。
僕は、上着の袖の中から、ハネを出した。
いちばん甘えん坊の子イタチ。誰にでも擦り寄る。
ハネは、僕の手から降りて、雪の上を走っていって、男の子の足元に、すりすりと擦り寄った。
男の子が、びっくりして、しゃがんだ。
ハネが、その膝に登った。
『ハネ。おねがい』
『いっしょ!』
——《はげまし》。
そばにいる仲間の力を、一段上げる。
男の子の肩から、何かが、ふっと抜けたように見えた。
男の子は、膝の上のハネを、そっと撫でた。
それから、立ち上がって、ラウのほうへ歩いていった。
1歩。2歩。
ラウの前で、しゃがんだ。
握った手の甲を、ラウの鼻先に、差し出した。
誰かに、教わったらしい。ニナかもしれない。
ラウが、首を伸ばして、その手の甲の匂いを嗅いだ。
2秒。
尻尾が、振れた。
男の子が、ラウの背中を撫でた。
最初は、指先で。それから、手のひらで。
男の子の顔が、ぱっと明るくなった。
そばにいる子たちに、なにかを伝えた。
たぶん、「ふわふわだ」と言ったのだと思う。昨日、モチの尻尾に触った子と、同じ顔をしていたから。
——午後、村の老人が、犬を連れてきた。
年寄りの、茶色い犬。13歳だという。
「この3日、餌を食わん」
僕は、しゃがんで、老犬の鼻先が触れるのを待った。1分もかからなかった。年寄りの犬は、たいてい、すぐに触れてくる。
『どこ、いたい?』
『……は』
「歯?」
僕は、老犬の口を、そっと開けた。
奥のほうの歯が、1本、ぐらついていた。歯茎が赤く腫れている。噛むたびに、痛かったのだ。
「エステルさん」
「はい」
エステルが、老犬の頬に手を当てた。《癒し》の光で、腫れた歯茎を、しばらく温める。
痛みが引いたところで、ぐらついていた歯を、指先で、そっと外した。
もう、ほとんど抜けかけていた歯だった。
老犬は、口をもぐもぐさせて、それから、エステルの手を舐めた。
「しばらくは、柔らかいものを。粥とか、ふやかしたパンとか」
ニナが訳すと、老人は何度も頷いた。
その夜、老犬は、ふやかしたパンを、器1杯ぶん平らげたそうだ。
——夕方、僕は、村の外れを歩いていた。
林のほうへ。ニビの様子を見に行くつもりだった。
林の手前で、足を止めた。
誰かが、しゃがんでいた。
灰色の、飾りのない外套。
グレゴールだった。
林の縁の、雪の上に。獣たちのほうを向いて、しゃがんでいた。
動かずに。
林の中の狼たちは、グレゴールを見ていた。近づきもせず、離れもせずに。
グレゴールは、手を伸ばさなかった。何も言わなかった。
ただ、しゃがんでいた。
僕が、去年の夏から、ずっとやってきた姿勢で。
——僕は、声をかけなかった。
かけるべきではない、と思った。
来た道を、そっと戻った。
3歩後ろで、ススキが、ついてきた。
振り返ると、グレゴールは、まだ、しゃがんでいた。
夕日が、その背中を、赤く染めていた。




