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59/82

#59 凍える国の、370頭

泉は、村の外れにあった。林の、すぐ手前だ。


石を丸く積んだ縁の中に、水が湧いている。直径3mほど。村の人たちは、ここから桶で水を汲んで、家へ運ぶ。林の獣たちは、人のいない時刻をよく確かめてから、そっと飲みに来る。


見た目は、澄んでいた。


底の石まで、見えた。


僕は、泉の縁にしゃがんで、ニビに聞いた。


『ニビ。この、みず、どう?』


ニビは、泉の水に、鼻先をつけた。


舌で、少しだけ舐めた。


『……にがい』


——苦い。


僕も、手ですくって、口に含んでみた。


分からなかった。人間の舌には、ただの冷たい水だった。


でも、狼の舌には、苦いのだ。


「スズリ」


肩の上に、送った。


『おねがい』


『いっしょ!』


——泉が、透けた。


水の中。底の石。石の下の、湧き口。


湧き口の、さらに奥。地面の下を、水が流れてくる道筋。


その道筋を、上流へたどっていった。


村の北の斜面。雪解けの水が、地面に染み込んでいく場所。


そこに、古い沼の跡があった。


もう、水はない。干上がって、上に雪が積もっている。でも、その底に、黒い泥が溜まっていた。何十年分の、腐った落ち葉と、泥。


雪解けの水が、その泥の層を、通り抜けていた。


通り抜けて、泥の中の何かを、溶かして運んでいた。


そして、泉の湧き口のあたりに——灰色の靄が、溜まっていた。


水の中に。うっすらと。煙のように。


目に見えるほど濃くはない。でも、スズリの目で見ると、はっきり分かった。


「……泥です」


僕は、言った。


「北の斜面の、古い沼の底の泥を、雪解けの水が運んできてます。泉の底に、溜まってる」


エステルが、泉を覗き込んだ。


「……それが、喉を」


「たぶん。人も、獣も、同じ水を飲んでるから」


去年まで、こんなことはなかったと、村の顔役は言っていた。


去年、雪が7月まで残った。いつもの年より、雪解けの水が、ずっと多かった。多すぎた水が、いつもは通らない沼の底を、通るようになったのだ。


寒くなった北の国の、また1つの困りごとだった。


——僕は、コナを呼んだ。


荷台の、藁の中から、コナが顔を出した。


『コナ。ここ、きれい、する?』


コナの耳が、ぴんと立った。


『きれい』


『する!』


「……アサ。バン」


2羽が、荷台から飛び降りてきた。


僕は、3体に、順番に送った。


『コナ、おねがい』


『いっしょ!』


『アサ、バン、おねがい』


『『いっしょ!』』


——コナが、泉のほとりを、掘り始めた。


石の縁のすぐ外側。泉の湧き口に、いちばん近い地面を。


速い。


5月でも凍っている帝国の土が、見る間に後ろへ飛んでいく。


そして——コナの体が、光っていた。


王都の菜園で見たときより、ずっとはっきりと。


白い毛の縁から、淡い、聖なる光が、にじみ出ている。


光が、コナの前肢から、掘った穴の底へ、落ちていく。


地面の下へ。泉の湧き口のほうへ。


——バンが、一歩、踏み出した。


足元から、虹の波紋が広がった。


その波紋に、コナの光が、乗った。


光が、波に運ばれて、広がっていく。


泉の周り。広場の石畳の下。村の家々の、床の下。


村じゅうの地面の下へ、波のように。


——アサが、跳んだ。


泉の上に、虹色のドームを張った。


泉を、ぴったり覆う大きさで。


北の斜面から流れてくる、新しい泥の混じった水が、ドームの縁で、止まった。


《結界》は、雪崩を止めるだけではない。泥の混じった水も、通さない。


コナが、清める。


バンが、広げる。


アサが、守る。


——雪の兎が2羽と、雪の狐が1匹。


ロヴィの村から来た3体が、初めて、本気で組んでいた。


村の人たちが、林の手前に集まって、それを見ていた。


誰も、声を出さなかった。


——2日かかった。


1日目の夜、泉の灰色の靄が、半分になった。


2日目の昼、スズリの目で見ても、靄は、どこにもなかった。


泉の水が、澄んでいた。


見た目だけでなく、底の底まで。


『ニビ。のんで、みて』


ニビが、泉の水を舐めた。


長いこと、舐めていた。


それから、顔を上げた。


『……おいしい』


——その2日のあいだ、モチも働いていた。


泉がドームで覆われているあいだ、村の人たちは水が汲めない。


だから、モチが運んだ。


村の東の、上流の沢。そこは、沼の泥が混じらない、澄んだ水が流れている。


モチは、縄でくくりつけられた2つの水樽を背負って、沢と村を往復した。


1往復、40分。


『……みず……』


『……はこぶ……』


のそのそと、でも、1度も休まずに。


帰り道の林の中で、歩けない狼を見つけると、モチは立ち止まった。


痩せすぎて、立てなくなった子たちだ。


モチは、水樽を下ろそうと、その場に伏せた。


僕が、その背中に、狼を乗せた。


1頭。2頭。3頭。


400kgの熊の、白い背中に、痩せた狼が3頭、並んで乗った。


モチは、立ち上がった。


ゆっくり。乗せたものを、落とさない歩き方で。


たくましく、優しい熊が、林から村の焚き火まで、狼を運んだ。


——その後ろを、子どもたちがついて歩いていた。


昨日の夜、木の陰から見ていた子たちだ。


今日は、隠れていなかった。


白い熊のすぐ後ろを、ぞろぞろと。5人、6人、それから、もっと増えた。


1人の男の子が、モチの尻尾に、そっと手を伸ばした。


触る直前で、引っ込めた。


また伸ばした。


今度は、触った。


モチは、振り返らなかった。


男の子は、自分の手を見て、それから、隣の子に何か伝えた。


たぶん、「ふわふわだ」と言ったのだと思う。


——村の人たちの咳が、止まった。


2日目の夕方には、広場で咳をしている人は、1人もいなかった。


林の獣たちも、同じだった。


数を、確かめた。


国境の村に集まっていたのは、370頭のうち、212頭。


そのうち、病んでいたのは、118頭。


エステルとコナのおかげで、118頭、全頭が回復した。


エステルは、2日で118頭の喉に手を当てた。最後の1頭を終えたとき、雪の上に仰向けに倒れて、しばらく起き上がらなかった。


「……わたくし、これで、狼が怖くなくなったと、言ってもいいでしょうか」


「いいと思います」


「……では、言います。怖くありません」


「はい」


「嘘です。まだ、少し怖いです」


僕は、笑った。


——残りの158頭のことを、ニビに聞いた。


『ほかの、みんな、どこ?』


ニビは、北のほうを向いた。


『もり』


『きた、もり』


『むれ、みんな』


『……ぜんぶ、いきてる』


——158頭は、群れごとに分かれて、北の森へ散っていったのだ。


縄張りを取り戻した群れもある。別の群れに入れてもらった子もいる。


ぜんぶ、生きている。


370頭。


212頭と、158頭。


全部だ。


——食べものの問題が、残っていた。


212頭は、この林にいても、食べるものがない。村の家畜を狙うようになったら、また人と獣が争うことになる。


僕は、スズリに頼んだ。


『おねがい』


『いっしょ!』


見る先を、遠くへ向けた。


南西へ。20km。


深い谷があった。


木々の中に、鹿の群れがいた。何十頭も。雪の少ない谷の底で、冬を越していた。


去年の冬、ロヴィの村で、氷牙狼の群れに教えたのと同じだ。


鹿は、寒さを避けて、南へ下りる。狼は、それを知らない。


——でも、212頭だ。鹿の群れひとつでは、とても足りない。


見る先を、谷の斜面へ移した。


落ち葉の積もった林の中で、黒い背中が、いくつも動いていた。鼻先で雪を押しのけて、土を掘り返している。木の根や、どんぐりを探しているのだ。


イノシシだった。


1つの群れではない。斜面のあちこちに、いくつも。


イノシシは、1度に4頭も5頭も子を産む。それを、毎年。日本でも、山で増えすぎて、畑を荒らすとよくニュースになっていた。


谷底の雪の下には、野ネズミの通り道が、網の目のように走っていた。野ネズミは、ひと春のうちに、何度も子を産む。


鹿だけを、追いかけなくていい。


この谷なら、212頭が食べても、どれか1つが、いなくなってしまうことはない。


「……いた」


「フブキ」


片目の大きな狼が、僕の横に来た。


『おねがい』


これは、頼みごとだ。


フブキは、林の獣たちの前に立った。


低く、喉を鳴らした。


《群れ導き》。


212頭が、いっせいに顔を上げた。


——ただ、谷までは20kmある。


病み上がりの体には、長い道のりだ。モチが背中に乗せて運んだ3頭のように、熱は下がっても、まだ足元のおぼつかない子たちがいた。


数えると、22頭。


その22頭には、林に残ってもらうことにした。


『ここ、まつ』


『あし、つよく、なったら、いく』


足の戻った子から、ニビが、何日かに分けて谷へ連れていく。


フブキが、南西へ歩き出した。


190頭が、その後ろについていった。


ニビが、群れの最後尾についた。


——村の猟師たちとは、取り決めをした。


谷の東半分は、村の猟師の狩り場。西半分は、狼たちの狩り場。互いに、相手の側へ入らない。


猟師たちは、渋い顔をするかと思ったら、喜んだ。谷のイノシシは、獲っても獲っても減らなくて、春になると麓の畑を荒らしに下りてくるのだそうだ。


「狼が、少し食ってくれるなら、助かる」


猟師たちのまとめ役の男が、そう言った。


オルガが、その取り決めを、帝国の書式で書きつけた。


オルガは、2日目の昼に、砦から村へ来ていた。和平会議を1日止めて。


——夕方、フブキとニビが戻ってきた。


群れを谷へ届けて、2頭だけで。


2頭とも、口に、大きなものを咥えていた。


フブキは、若い鹿を1頭。ニビは、丸々と太ったイノシシを1頭。


首をぐっと高く上げて、ようやく足先が雪から浮くくらいの大きさだった。少しでも頭が下がったら、引きずってしまう。2頭とも、顎に力を込めて、まっすぐ歩いてきた。


フブキは、林の手前で止まった。


林に残っている22頭の前に、鹿を、そっと置いた。


狼たちが、鼻を寄せた。


ニビは、林を抜けて、僕のところまで来た。


僕の足元に、イノシシを、どさりと置いた。


それから、村の人たちのほうへ、鼻先を向けた。


『ひとの、ぶん』


「……村の皆さんに、だそうです」


僕がそう言うと、猟師たちのまとめ役の男が、イノシシとニビを、何度も見比べたあと、勢いよく頭を下げた。


それから、顔を、くしゃくしゃにした。


「……肉だ」


この冬、村の男たちは、ずっと咳をしていた。咳をしながらでは、雪の斜面を登れない。息をひそめて獲物に近づくこともできない。獲れるのはウサギや鳥がやっとで、大物は、もう長いこと1頭も獲れていなかったのだそうだ。


「肉だぞ! 大物だ!」


広場から、人が駆けてきた。女の人たちが、大鍋を抱えて出てきた。子どもたちが、イノシシのまわりを跳ねまわった。


モチの尻尾を触ったあの男の子が、今度はニビの尻尾に手を伸ばして、ふいっとよけられていた。


ニビは、よけたあとで、尻尾を1度だけ、男の子の手の届くところへ戻した。


夜は、広場でイノシシの鍋になるらしい。


林の手前では、残っていた狼たちが、鹿を囲んでいた。


僕は、ニビの首に、両腕を回した。


「すごいな、ニビ。重かっただろ」


ごわごわの冬毛の下に、まだ少し、あばらが触れた。自分だって、お腹いっぱい食べたいはずなのに。


耳の後ろを、両手で、わしわしと撫でた。


ニビは、されるがままになっていた。目を細めて、大きな頭を、僕の胸に預けてきた。灰色の尻尾が、雪の上を、ばさ、ばさ、と掃いた。


それから、林の手前まで歩いた。


フブキは、鹿を囲む狼たちから少し離れて座り、それを見ていた。自分は、ひと口も食べずに。


隣にしゃがんで、見えるほうの目の側から、ゆっくり手を伸ばした。


額から、首の後ろへ。何度も、何度も撫でた。


「お疲れさま、フブキ。……よくやったな」


フブキは、喉の奥で、ぐるる、と低く鳴らした。


それから、僕の手のひらに、額をぐいぐいと押しつけてきた。


群れの長だった大きな狼が、仔犬みたいに。


そのとき、泉のそばで、ギンが立ち上がった。


体長2.2m。村の粉屋の大秤で、トトのやり方を真似して量ったら、260kgになっていた。


ギンは、何もしなかった。


ただ、泉のそばに立って、谷から戻ってきた2頭と、林に残っていた病み上がりの狼たちのほうを見た。


——狼たちが、いっせいに、伏せた。


林に残っていた、22頭の狼が。


雪の上に、腹をつけて、頭を下げて。


ニビも、伏せた。


フブキも、伏せた。


村の人たちが、息を呑んだ。


オルガが、手に持っていた書類を、雪の上に落とした。


ギンは、狼たちを、しばらく見ていた。


それから、僕のほうへ歩いてきて、僕の膝に、顎をのせた。


体重260kgのギンの頭が、どすんと。


『ユウマ』


「……うん」


『はら、へった』


——狼たちが、顔を上げた。


村の人たちが、息を吐いた。


オルガが、書類を拾った。


僕は、ギンの頭を撫でながら、声を上げて笑っていた。


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