#59 凍える国の、370頭
泉は、村の外れにあった。林の、すぐ手前だ。
石を丸く積んだ縁の中に、水が湧いている。直径3mほど。村の人たちは、ここから桶で水を汲んで、家へ運ぶ。林の獣たちは、人のいない時刻をよく確かめてから、そっと飲みに来る。
見た目は、澄んでいた。
底の石まで、見えた。
僕は、泉の縁にしゃがんで、ニビに聞いた。
『ニビ。この、みず、どう?』
ニビは、泉の水に、鼻先をつけた。
舌で、少しだけ舐めた。
『……にがい』
——苦い。
僕も、手ですくって、口に含んでみた。
分からなかった。人間の舌には、ただの冷たい水だった。
でも、狼の舌には、苦いのだ。
「スズリ」
肩の上に、送った。
『おねがい』
『いっしょ!』
——泉が、透けた。
水の中。底の石。石の下の、湧き口。
湧き口の、さらに奥。地面の下を、水が流れてくる道筋。
その道筋を、上流へたどっていった。
村の北の斜面。雪解けの水が、地面に染み込んでいく場所。
そこに、古い沼の跡があった。
もう、水はない。干上がって、上に雪が積もっている。でも、その底に、黒い泥が溜まっていた。何十年分の、腐った落ち葉と、泥。
雪解けの水が、その泥の層を、通り抜けていた。
通り抜けて、泥の中の何かを、溶かして運んでいた。
そして、泉の湧き口のあたりに——灰色の靄が、溜まっていた。
水の中に。うっすらと。煙のように。
目に見えるほど濃くはない。でも、スズリの目で見ると、はっきり分かった。
「……泥です」
僕は、言った。
「北の斜面の、古い沼の底の泥を、雪解けの水が運んできてます。泉の底に、溜まってる」
エステルが、泉を覗き込んだ。
「……それが、喉を」
「たぶん。人も、獣も、同じ水を飲んでるから」
去年まで、こんなことはなかったと、村の顔役は言っていた。
去年、雪が7月まで残った。いつもの年より、雪解けの水が、ずっと多かった。多すぎた水が、いつもは通らない沼の底を、通るようになったのだ。
寒くなった北の国の、また1つの困りごとだった。
——僕は、コナを呼んだ。
荷台の、藁の中から、コナが顔を出した。
『コナ。ここ、きれい、する?』
コナの耳が、ぴんと立った。
『きれい』
『する!』
「……アサ。バン」
2羽が、荷台から飛び降りてきた。
僕は、3体に、順番に送った。
『コナ、おねがい』
『いっしょ!』
『アサ、バン、おねがい』
『『いっしょ!』』
——コナが、泉のほとりを、掘り始めた。
石の縁のすぐ外側。泉の湧き口に、いちばん近い地面を。
速い。
5月でも凍っている帝国の土が、見る間に後ろへ飛んでいく。
そして——コナの体が、光っていた。
王都の菜園で見たときより、ずっとはっきりと。
白い毛の縁から、淡い、聖なる光が、にじみ出ている。
光が、コナの前肢から、掘った穴の底へ、落ちていく。
地面の下へ。泉の湧き口のほうへ。
——バンが、一歩、踏み出した。
足元から、虹の波紋が広がった。
その波紋に、コナの光が、乗った。
光が、波に運ばれて、広がっていく。
泉の周り。広場の石畳の下。村の家々の、床の下。
村じゅうの地面の下へ、波のように。
——アサが、跳んだ。
泉の上に、虹色のドームを張った。
泉を、ぴったり覆う大きさで。
北の斜面から流れてくる、新しい泥の混じった水が、ドームの縁で、止まった。
《結界》は、雪崩を止めるだけではない。泥の混じった水も、通さない。
コナが、清める。
バンが、広げる。
アサが、守る。
——雪の兎が2羽と、雪の狐が1匹。
ロヴィの村から来た3体が、初めて、本気で組んでいた。
村の人たちが、林の手前に集まって、それを見ていた。
誰も、声を出さなかった。
——2日かかった。
1日目の夜、泉の灰色の靄が、半分になった。
2日目の昼、スズリの目で見ても、靄は、どこにもなかった。
泉の水が、澄んでいた。
見た目だけでなく、底の底まで。
『ニビ。のんで、みて』
ニビが、泉の水を舐めた。
長いこと、舐めていた。
それから、顔を上げた。
『……おいしい』
——その2日のあいだ、モチも働いていた。
泉がドームで覆われているあいだ、村の人たちは水が汲めない。
だから、モチが運んだ。
村の東の、上流の沢。そこは、沼の泥が混じらない、澄んだ水が流れている。
モチは、縄でくくりつけられた2つの水樽を背負って、沢と村を往復した。
1往復、40分。
『……みず……』
『……はこぶ……』
のそのそと、でも、1度も休まずに。
帰り道の林の中で、歩けない狼を見つけると、モチは立ち止まった。
痩せすぎて、立てなくなった子たちだ。
モチは、水樽を下ろそうと、その場に伏せた。
僕が、その背中に、狼を乗せた。
1頭。2頭。3頭。
400kgの熊の、白い背中に、痩せた狼が3頭、並んで乗った。
モチは、立ち上がった。
ゆっくり。乗せたものを、落とさない歩き方で。
たくましく、優しい熊が、林から村の焚き火まで、狼を運んだ。
——その後ろを、子どもたちがついて歩いていた。
昨日の夜、木の陰から見ていた子たちだ。
今日は、隠れていなかった。
白い熊のすぐ後ろを、ぞろぞろと。5人、6人、それから、もっと増えた。
1人の男の子が、モチの尻尾に、そっと手を伸ばした。
触る直前で、引っ込めた。
また伸ばした。
今度は、触った。
モチは、振り返らなかった。
男の子は、自分の手を見て、それから、隣の子に何か伝えた。
たぶん、「ふわふわだ」と言ったのだと思う。
——村の人たちの咳が、止まった。
2日目の夕方には、広場で咳をしている人は、1人もいなかった。
林の獣たちも、同じだった。
数を、確かめた。
国境の村に集まっていたのは、370頭のうち、212頭。
そのうち、病んでいたのは、118頭。
エステルとコナのおかげで、118頭、全頭が回復した。
エステルは、2日で118頭の喉に手を当てた。最後の1頭を終えたとき、雪の上に仰向けに倒れて、しばらく起き上がらなかった。
「……わたくし、これで、狼が怖くなくなったと、言ってもいいでしょうか」
「いいと思います」
「……では、言います。怖くありません」
「はい」
「嘘です。まだ、少し怖いです」
僕は、笑った。
——残りの158頭のことを、ニビに聞いた。
『ほかの、みんな、どこ?』
ニビは、北のほうを向いた。
『もり』
『きた、もり』
『むれ、みんな』
『……ぜんぶ、いきてる』
——158頭は、群れごとに分かれて、北の森へ散っていったのだ。
縄張りを取り戻した群れもある。別の群れに入れてもらった子もいる。
ぜんぶ、生きている。
370頭。
212頭と、158頭。
全部だ。
——食べものの問題が、残っていた。
212頭は、この林にいても、食べるものがない。村の家畜を狙うようになったら、また人と獣が争うことになる。
僕は、スズリに頼んだ。
『おねがい』
『いっしょ!』
見る先を、遠くへ向けた。
南西へ。20km。
深い谷があった。
木々の中に、鹿の群れがいた。何十頭も。雪の少ない谷の底で、冬を越していた。
去年の冬、ロヴィの村で、氷牙狼の群れに教えたのと同じだ。
鹿は、寒さを避けて、南へ下りる。狼は、それを知らない。
——でも、212頭だ。鹿の群れひとつでは、とても足りない。
見る先を、谷の斜面へ移した。
落ち葉の積もった林の中で、黒い背中が、いくつも動いていた。鼻先で雪を押しのけて、土を掘り返している。木の根や、どんぐりを探しているのだ。
イノシシだった。
1つの群れではない。斜面のあちこちに、いくつも。
イノシシは、1度に4頭も5頭も子を産む。それを、毎年。日本でも、山で増えすぎて、畑を荒らすとよくニュースになっていた。
谷底の雪の下には、野ネズミの通り道が、網の目のように走っていた。野ネズミは、ひと春のうちに、何度も子を産む。
鹿だけを、追いかけなくていい。
この谷なら、212頭が食べても、どれか1つが、いなくなってしまうことはない。
「……いた」
「フブキ」
片目の大きな狼が、僕の横に来た。
『おねがい』
これは、頼みごとだ。
フブキは、林の獣たちの前に立った。
低く、喉を鳴らした。
《群れ導き》。
212頭が、いっせいに顔を上げた。
——ただ、谷までは20kmある。
病み上がりの体には、長い道のりだ。モチが背中に乗せて運んだ3頭のように、熱は下がっても、まだ足元のおぼつかない子たちがいた。
数えると、22頭。
その22頭には、林に残ってもらうことにした。
『ここ、まつ』
『あし、つよく、なったら、いく』
足の戻った子から、ニビが、何日かに分けて谷へ連れていく。
フブキが、南西へ歩き出した。
190頭が、その後ろについていった。
ニビが、群れの最後尾についた。
——村の猟師たちとは、取り決めをした。
谷の東半分は、村の猟師の狩り場。西半分は、狼たちの狩り場。互いに、相手の側へ入らない。
猟師たちは、渋い顔をするかと思ったら、喜んだ。谷のイノシシは、獲っても獲っても減らなくて、春になると麓の畑を荒らしに下りてくるのだそうだ。
「狼が、少し食ってくれるなら、助かる」
猟師たちのまとめ役の男が、そう言った。
オルガが、その取り決めを、帝国の書式で書きつけた。
オルガは、2日目の昼に、砦から村へ来ていた。和平会議を1日止めて。
——夕方、フブキとニビが戻ってきた。
群れを谷へ届けて、2頭だけで。
2頭とも、口に、大きなものを咥えていた。
フブキは、若い鹿を1頭。ニビは、丸々と太ったイノシシを1頭。
首をぐっと高く上げて、ようやく足先が雪から浮くくらいの大きさだった。少しでも頭が下がったら、引きずってしまう。2頭とも、顎に力を込めて、まっすぐ歩いてきた。
フブキは、林の手前で止まった。
林に残っている22頭の前に、鹿を、そっと置いた。
狼たちが、鼻を寄せた。
ニビは、林を抜けて、僕のところまで来た。
僕の足元に、イノシシを、どさりと置いた。
それから、村の人たちのほうへ、鼻先を向けた。
『ひとの、ぶん』
「……村の皆さんに、だそうです」
僕がそう言うと、猟師たちのまとめ役の男が、イノシシとニビを、何度も見比べたあと、勢いよく頭を下げた。
それから、顔を、くしゃくしゃにした。
「……肉だ」
この冬、村の男たちは、ずっと咳をしていた。咳をしながらでは、雪の斜面を登れない。息をひそめて獲物に近づくこともできない。獲れるのはウサギや鳥がやっとで、大物は、もう長いこと1頭も獲れていなかったのだそうだ。
「肉だぞ! 大物だ!」
広場から、人が駆けてきた。女の人たちが、大鍋を抱えて出てきた。子どもたちが、イノシシのまわりを跳ねまわった。
モチの尻尾を触ったあの男の子が、今度はニビの尻尾に手を伸ばして、ふいっとよけられていた。
ニビは、よけたあとで、尻尾を1度だけ、男の子の手の届くところへ戻した。
夜は、広場でイノシシの鍋になるらしい。
林の手前では、残っていた狼たちが、鹿を囲んでいた。
僕は、ニビの首に、両腕を回した。
「すごいな、ニビ。重かっただろ」
ごわごわの冬毛の下に、まだ少し、あばらが触れた。自分だって、お腹いっぱい食べたいはずなのに。
耳の後ろを、両手で、わしわしと撫でた。
ニビは、されるがままになっていた。目を細めて、大きな頭を、僕の胸に預けてきた。灰色の尻尾が、雪の上を、ばさ、ばさ、と掃いた。
それから、林の手前まで歩いた。
フブキは、鹿を囲む狼たちから少し離れて座り、それを見ていた。自分は、ひと口も食べずに。
隣にしゃがんで、見えるほうの目の側から、ゆっくり手を伸ばした。
額から、首の後ろへ。何度も、何度も撫でた。
「お疲れさま、フブキ。……よくやったな」
フブキは、喉の奥で、ぐるる、と低く鳴らした。
それから、僕の手のひらに、額をぐいぐいと押しつけてきた。
群れの長だった大きな狼が、仔犬みたいに。
そのとき、泉のそばで、ギンが立ち上がった。
体長2.2m。村の粉屋の大秤で、トトのやり方を真似して量ったら、260kgになっていた。
ギンは、何もしなかった。
ただ、泉のそばに立って、谷から戻ってきた2頭と、林に残っていた病み上がりの狼たちのほうを見た。
——狼たちが、いっせいに、伏せた。
林に残っていた、22頭の狼が。
雪の上に、腹をつけて、頭を下げて。
ニビも、伏せた。
フブキも、伏せた。
村の人たちが、息を呑んだ。
オルガが、手に持っていた書類を、雪の上に落とした。
ギンは、狼たちを、しばらく見ていた。
それから、僕のほうへ歩いてきて、僕の膝に、顎をのせた。
体重260kgのギンの頭が、どすんと。
『ユウマ』
「……うん」
『はら、へった』
——狼たちが、顔を上げた。
村の人たちが、息を吐いた。
オルガが、書類を拾った。
僕は、ギンの頭を撫でながら、声を上げて笑っていた。




