#58 名前のなかった狼
村の外れの林に、獣たちがいた。
木々のあいだに。雪の上に。倒木の陰に。
狼が多かった。灰色の狼、茶色の狼、黒に近い狼。そのほかに、山猫が何頭か。大きな角の山羊が何頭か。木の枝に、大鷲が3羽。
みんな、じっとしていた。
こちらを見ていた。
——痩せていた。
冬毛が抜けかけて、あばらが浮いている。脇腹が、呼吸のたびに大きくへこむ。毛並みに艶がない。
そして、あちこちから、音がした。
乾いた、短い音。
こほっ、こほっ、と。
咳だった。
獣が、咳をしていた。
「……いた」
ニナが、僕の隣で、小さく言った。
「あの子たち、です」
1月3日。ヴァルデン砦の前の雪原で、首の銀の環が砕けて、北へ歩いていった子たち。
《重奏》が保った20秒のあいだだけ、僕と繋がっていた子たち。
名前も、顔も、知らない。
でも、忘れてはいなかった。
——群れの先頭に、1頭の大きな狼がいた。
灰色で、毛が短めで、脚が長い。体高は、ススキの倍近い。うちの氷牙狼たちよりも、まだ大きい。
耳の縁が、3箇所、欠けていた。
僕は、その耳を知っていた。
去年の冬、国境の緩衝地帯で会った狼だ。
帝国の斥候だった子。『やくそく、まもって、くれる』と言った子。疑うという発想が、ひと欠片もなかった子。
その首に、もう、銀の環はなかった。
環のあった場所の毛が、少しだけ、薄くなっていた。
——大狼が、歩いてきた。
林の中から、雪の上を、まっすぐ。
帝国の護衛たちが、槍を構えかけた。
「待ってください」
僕は、手で制した。
そして、しゃがんだ。
いつもどおり。横を向いて、視線は雪の上。膝の上に腕を置いて。
大狼は、僕の前で、止まった。
鼻先を、僕の手の甲に、触れさせた。
待つ必要は、なかった。
——後頭部が、じんわり温かくなった。
テイム、成立。
45体目。
『ひと』
頭の中に、声が落ちてきた。
低い、落ち着いた声だった。
『うそ、いわない、ひと』
——僕は、動けなくなった。
うそ、いわない、ひと。
1月の、あの雪原で。僕はこの子たちに、『やくそく、うそ』と送った。
南に土地はない。群れは来ない。お前たちは北に残される。
この子にとって、それを教えてくれた人間は、僕が初めてだったのだ。
嘘を言わない人間は。
『……うん』
僕は、送った。
『うそ、いわない』
大狼が、尻尾を、ゆっくり1度だけ振った。
——僕は、聞いた。
『なまえ、は?』
『……』
沈黙だった。
長い、沈黙だった。
大狼は、首を傾げていた。
名前、という言葉の意味を、探しているようだった。
——この子には、名前がない。
帝国では、獣導長グレゴールが名前をつけたのは、ヴェルグ1頭だけだった。ほかの獣は、数で呼ばれていた。何番、何番、と。
この子も、たぶん、そうだった。
トトの記録帳にも、そう書いてある。「灰色の大狼」。名前を知らないまま終わる、と。
——僕は、大狼の首に、手を置いた。
毛は、見た目よりも硬かった。短くて、ごわごわしていて、冷たい風の匂いがした。その下の皮膚は、温かかった。
灰色だった。
ただの灰色ではない。少しだけ青みがかった、くすんだ灰色。
曇った冬の空の色。濡れた石の色。
鈍色、という色の名前を、僕は思い出した。
「……ニビ」
大狼が、耳を立てた。
「ニビ。君の、名前」
『……ニビ』
念話で、繰り返してきた。
たどたどしく。初めて口にする音を、確かめるように。
『ニビ』
「うん」
『ニビ』
「うん。ニビ」
——ニビが、尻尾を振った。
1度だけ。
大きく。
後ろで、ニナが、両手で口を押さえていた。
——林の獣たちが、少しずつ、近づいてきた。
ニビのあとについて。1頭ずつ。雪の上を、ゆっくり。
痩せた狼たちが、僕の周りに、半円を作った。
1頭が、ニナの前で、止まった。
茶色の、若い狼だった。ニナの外套の裾の匂いを、長いこと嗅いでいた。
ニナの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……ごめんね」
帝国の言葉だった。でも、何を言ったのかは、分かった。
ニナは、獣導士だった。この子たちに誓約鎖をかけたのは、ニナではない。でも、ニナは、この子たちと同じ隊にいた。南へ行けば幸せになる、と、本気で信じて、この子たちの隣を歩いていた。
「ごめんね」
茶色の狼は、ニナの手を、1度だけ舐めた。
ニナは、その場に膝をついて、泣いた。
リーゼが、ニナの隣にしゃがんで、その頭を、ぽんぽんと2回叩いた。
冬の砦で、飯を食べなかったニナを、拳で叩いたときより、ずっと柔らかく。
——僕は、ニビに聞いた。
『どこ、いたい?』
『……みず』
『みず?』
『みず、のむ』
『いたい』
——水を飲むと、痛い。
喉か、腹か。僕は、ニビの喉に手を当てた。少し、熱を持っている。
咳をしている子たちは、みんな、喉が腫れているのかもしれない。
「エステルさん」
「はい」
エステルは、もう、荷台から降りていた。
薬の箱を抱えて。
——村のほうから、人が来た。
年配の男が1人と、女が2人。村の顔役らしい。3人とも、咳をしていた。
「王国の方ですか」
帝国の言葉で。ニナが、涙を拭いて、訳してくれた。
「林の獣たちが、村に降りてくるのではないかと、心配で」
「降りてきません」
僕は言った。
「この子たちは、水が飲みたいだけです。水を飲むと、喉が痛いって言ってます」
村の顔役は、眉を寄せた。
それから、自分の喉を、手で押さえた。
「……村の者も、この冬から、みな、喉が」
僕は、エステルと顔を見合わせた。
「村の水は、どこから?」
「泉が1つだけ。村の外れの、林のすぐ手前に」
——同じ水だ。
人も、獣も、同じ泉の水を飲んでいる。
僕は、ニビに聞いた。
『みず、いつ、のむ?』
『……ひと、いない』
『そっと』
——人がいないのを、よく確かめてから、そっと飲みに行っているのだ。
村の人を、怖がらせないように。
「その泉、明日、見せてください」
——その夜から、エステルの《癒し》が始まった。
林の中に、焚き火を3つ焚いた。
その真ん中に、エステルが座った。
痩せた、帝国の、何十頭もの狼たちの真ん中に。
雪の上に膝をついて、狼の喉に、1頭ずつ、手を当てていった。
手のひらが、白く光る。
狼が、目を細める。
咳が、少しだけ、止まる。
次の1頭。
また次の1頭。
エステルの手は、震えていなかった。
僕は、その隣に座って、狼たちの喉の音を聞いていた。
《癒し》を受ける前の子は、息を吸うたびに、喉の奥で、ひゅう、と細い音がする。
受けたあとの子は、その音が消える。代わりに、深い、ゆっくりした寝息になる。
3秒に1回。狼の寝息だ。
焚き火の周りで、その寝息が、1つずつ増えていった。
1頭が寝ようと、隣の子の体に顎をのせる。のせられた子も、しばらくすると寝る。そうやって、灰色や茶色の毛の塊が、焚き火の周りに、ゆっくり広がっていった。
僕の膝の上にも、いつのまにか、若い狼が1頭、顎をのせていた。
契約していない子だ。名前も知らない。
でも、温かかった。
——林の縁の、木の陰に、子どもたちがいた。
村の子どもだった。5人か、6人。
焚き火の光の届く、ぎりぎりのところから、じっとこちらを見ていた。
狼の群れの真ん中で、銀色の髪の女の人が、狼の喉を撫でている。
子どもたちは、口を開けて、それを見ていた。
1人が、隣の子の袖を引っ張って、何かささやいた。
何と言ったのかは分からない。でも、怖がっている声ではなかった。
——ニビは、僕の左側に座っていた。
ススキは、いつもどおり、3歩後ろにいた。
2頭は、1度だけ、鼻先を寄せ合って、匂いを嗅ぎ合った。
それから、どちらも、焚き火のほうを向いて、動かなくなった。
僕は、ニビの鈍色の背中を撫でながら、名前を、もう1度呼んだ。
「ニビ」
『ニビ』
念話で、返ってきた。
この子は、名前を確かめるように、何度も繰り返していた。




