#57 雪崩の手前で
国境を越えたのは、5月の半ばだった。
王国側では、もう雪は消えている。
帝国側は、違った。
国境の稜線を1つ越えただけで、道の両側に、雪が戻ってきた。北へ行くほど、白が深くなる。5月なのに、山の斜面は、まだ真冬の顔をしていた。
「こちらは、6月まで雪が残ります」
ニナが言った。
「去年は、7月まで残りました」
——少人数の一行となった。
アーリアは、会議のために砦に残った。騎竜団の3騎も、国境の手前で待つ。竜は、戦の道具として見られる。帝国の空を、王国の竜が飛ぶわけにはいかない。
だから、国境を越えたのは、僕と、リーゼと、エステルと、ニナ。帝国の護衛が5人。
獣は、うちの子が15体。念話で同時に話せる、ぎりぎりの数だ。
馬は、8頭いた。帝国の護衛の軍馬が5頭、ニナの乗る馬が1頭、荷馬車を引くクリと、もう1頭の荷馬。
荷馬車の荷台には、薬と、干し草と、エステルと、モチが乗っていた。
モチは、寝ていた。
国境を越えてから、ずっと寝ていた。
「……あれは、何のために連れてきた」
帝国の護衛の隊長が、荷台の白い山を見て言った。
「力仕事のためです」
「寝ているが」
「いざというときに、起きます」
隊長は、疑わしそうな顔をした。
——昼過ぎ、道が、切り立った斜面の下にさしかかった。
右手が、崖のような急斜面。左手が、深い谷。そのあいだを、荷馬車1台がやっと通れる道が、細く延びている。
斜面の上には、雪が、分厚く積もっていた。
春の陽を浴びて、表面が、少し緩んでいた。
「ここは、急いで抜けます」
隊長が言った。
「この季節は、雪崩が——」
——フクが、足を踏み鳴らした。
僕の上着の胸の中で。
ダン。
ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。
止まらない。後ろ肢で、僕の胸を、太鼓みたいに叩いている。
上着の襟元から顔を出して、全身の毛を逆立てて、斜面の上を見上げている。
『こわい!』
『うえ!』
『こわい!』
「止まって!」
僕は、叫んだ。
「全員、止まってください!」
隊長が振り返った。
「なに?」
「上です。雪が来ます」
「何を根拠に——」
「スズリ!」
肩の上に、送った。
『おねがい』
『いっしょ!』
——斜面が、透けた。
雪の層の、奥のほうまで。
表面の、緩んだ雪。その下の、固い古い雪。さらにその下の、凍った地面。
その、古い雪の層の中を。
ひびが、走っていた。
横に、長く。斜面の端から端まで。
見ている間にも、そのひびが、ぴし、ぴし、と伸びていく。
「……来ます」
僕の声が、自分でも分かるくらい、かすれていた。
「今、ひびが入ってます。斜面の、上から3分の1くらいのところ。横に、全部」
隊長の顔色が変わった。
でも、もう、逃げる時間はなかった。
道の前も後ろも、同じ斜面の下だ。走っても、抜けきれない。
——頭の中に、声が落ちてきた。
『『いっしょ!』』
アサとバンだった。
僕のすぐ横の、荷台の縁から。
『おねがい!』
——アサが、跳んだ。
荷台を蹴って、高く。
5月の、青い空に向かって。
空中で、身を翻す。
その軌跡から、虹が広がった。
7色のドームが、一行の上に、膨らんでいく。
半径、3m。
足りない。
——バンが、荷台から飛び降りた。
雪の上に、着地する。
一歩、踏み出す。
足元から、虹の波紋が広がる。
ドームが、膨らむ。
6m。
二歩。
波紋。
12m。
三歩。
四歩。
五歩。
バンが一歩ずつ踏み出すたびに、虹の輪が雪の上を走って、ドームが、ひとまわり、またひとまわりと、膨らんでいく。
——半径、30m。
一行の、全部が、虹の中にいた。
人も。馬も。荷馬車も。
——轟音が、来た。
地面が、揺れた。
斜面の上から、白い壁が、落ちてきた。
雪の、壁だった。
ただ、白い。視界の上半分が、全部、白い。
その白が、ドームの上に、落ちた。
——ドームは、割れなかった。
雪崩が、虹の丸みに沿って、滑っていった。
僕らの頭の上を。
右の斜面から、ドームの上を越えて、左の谷へ。
轟音が、谷の底へ落ちていく。
どこまでも、落ちていく。
——静かになった。
雪煙が、ゆっくり晴れていく。
虹のドームの外は、真っ白だった。
道の左の谷が、雪で、半分埋まっていた。
僕は、周りを見た。
リーゼが、剣の柄を握ったまま、立っていた。
エステルが、荷台の上で、両手を組んでいた。
ニナが、馬の首にしがみついていた。
帝国の護衛が5人。
馬が8頭。
——全員、無傷だった。
雪の1片も、ドームの中には落ちていなかった。
——帝国の護衛の1人が、槍を取り落とした。
ぽすっ、と雪の上で音がした。
続けて、もう1人。もう1人。
隊長は、槍を持ったまま、口を開けて、頭の上の虹を見上げていた。
ニナが、馬から滑り降りて、雪の上に、座り込んだ。
「……いまの」
誰も、答えなかった。
——アサとバンが、雪の上を転げ回っていた。
『たのしい!』
『たのしい!』
白い雪兎が2羽、白い雪の上で、ころころと。後ろ肢をばたばたさせて。耳を振り回して。
僕は、それを見ていて、膝から力が抜けた。
雪の上に、座り込んだ。
笑っていた。
たぶん、半分泣いていた。
——ドームが、ゆっくり薄れていった。
薄れた先を見て、隊長が、うめいた。
道が、なかった。
ドームの縁から先、道の上に、雪崩の一部が乗っていた。腰の高さまで。荷馬車どころか、人が歩くのも難しい。
「……掘るしか、ないか」
隊長が言った。
「半日は、かかるな」
——荷台の上で、白い山が、動いた。
むくり、と。
モチだった。
国境を越えてから、ずっと寝ていたモチが、起き上がっていた。
小さな目で、道の上の雪の山を見た。
『……しろいの……』
「うん」
『……おす……』
——モチは、荷台から降りた。
のそのそと、雪の山の前まで歩いていった。
肩を、雪に当てた。
400kgの体重を、前へ、かけた。
雪が、動いた。
腰の高さの雪の壁が、白い熊の肩に押されて、道の左へ、谷のほうへ、ずるずると押し出されていく。
1歩。
また1歩。
モチが進むたびに、道が、現れていく。
荷馬車が通れる幅で。
一度も休まずに。
モチは、道の上の雪を、30mぶん、全部、谷へ押し出した。
押し出し終えると、振り返って、僕のほうを見た。
『……おした……』
「……うん。ありがとう」
念話ではなく、声で言った。
モチは、のそのそと荷台へ戻って、また寝た。
帝国の隊長が、槍を雪の上に置いて、両手で顔をこすっていた。
「……いざというときに、起きる」
「はい」
「本当に、起きた」
「はい」
——出発しようとしたとき、1頭の軍馬が、動かなかった。
隊長の馬だった。大きな黒い牡馬。
脚が、震えていた。耳を後ろに倒して、首を低くして。
隊長が手綱を引いても、1歩も出ない。
僕は、その馬の前に回って、しゃがんだ。
鼻先が触れるまで、2分。
『こわい』
『まだ』
——まだ、怖い。
雪崩は終わった。でも、この子の恐怖は、まだ終わっていない。
人間もそうだ。怖いことが終わったあとで、膝が震えだす。
「隊長さん。この子を、モチの隣に立たせてもいいですか」
「……熊の隣に?」
「はい」
隊長は、疑わしそうな顔をしたが、黙って手綱を渡した。
僕は、黒い馬を、荷台の横まで引いていった。
モチの、白い背中の横に。
モチは、寝ていた。
寝息が、10秒に1回、ゆっくり、ゆっくり、鳴っていた。
黒い馬は、最初、首を振った。
熊の匂いだ。
でも、その熊は、寝ている。
ゆっくりと、大きな背中が、上がって、下がって。上がって、下がって。
5分。
馬の耳が、前に戻った。
首が、少しずつ上がった。
震えが、止まった。
『……こわい、ない』
「うん」
——道の先に、村が見えてきたのは、夕方だった。
国境の村。
小さな村だった。石積みの家が20軒ほど。煙突から、細い煙が上がっている。
その村の、外れの林に。
獣の影が、たくさん、あった。
木々のあいだに。雪の上に。
じっと動かずに、こちらを見ている、影が。




