↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
57/84

#57 雪崩の手前で

国境を越えたのは、5月の半ばだった。


王国側では、もう雪は消えている。


帝国側は、違った。


国境の稜線を1つ越えただけで、道の両側に、雪が戻ってきた。北へ行くほど、白が深くなる。5月なのに、山の斜面は、まだ真冬の顔をしていた。


「こちらは、6月まで雪が残ります」


ニナが言った。


「去年は、7月まで残りました」


——少人数の一行となった。


アーリアは、会議のために砦に残った。騎竜団の3騎も、国境の手前で待つ。竜は、戦の道具として見られる。帝国の空を、王国の竜が飛ぶわけにはいかない。


だから、国境を越えたのは、僕と、リーゼと、エステルと、ニナ。帝国の護衛が5人。


獣は、うちの子が15体。念話で同時に話せる、ぎりぎりの数だ。


馬は、8頭いた。帝国の護衛の軍馬が5頭、ニナの乗る馬が1頭、荷馬車を引くクリと、もう1頭の荷馬。


荷馬車の荷台には、薬と、干し草と、エステルと、モチが乗っていた。


モチは、寝ていた。


国境を越えてから、ずっと寝ていた。


「……あれは、何のために連れてきた」


帝国の護衛の隊長が、荷台の白い山を見て言った。


「力仕事のためです」


「寝ているが」


「いざというときに、起きます」


隊長は、疑わしそうな顔をした。


——昼過ぎ、道が、切り立った斜面の下にさしかかった。


右手が、崖のような急斜面。左手が、深い谷。そのあいだを、荷馬車1台がやっと通れる道が、細く延びている。


斜面の上には、雪が、分厚く積もっていた。


春の陽を浴びて、表面が、少し緩んでいた。


「ここは、急いで抜けます」


隊長が言った。


「この季節は、雪崩が——」


——フクが、足を踏み鳴らした。


僕の上着の胸の中で。


ダン。


ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。


止まらない。後ろ肢で、僕の胸を、太鼓みたいに叩いている。


上着の襟元から顔を出して、全身の毛を逆立てて、斜面の上を見上げている。


『こわい!』


『うえ!』


『こわい!』


「止まって!」


僕は、叫んだ。


「全員、止まってください!」


隊長が振り返った。


「なに?」


「上です。雪が来ます」


「何を根拠に——」


「スズリ!」


肩の上に、送った。


『おねがい』


『いっしょ!』


——斜面が、透けた。


雪の層の、奥のほうまで。


表面の、緩んだ雪。その下の、固い古い雪。さらにその下の、凍った地面。


その、古い雪の層の中を。


ひびが、走っていた。


横に、長く。斜面の端から端まで。


見ている間にも、そのひびが、ぴし、ぴし、と伸びていく。


「……来ます」


僕の声が、自分でも分かるくらい、かすれていた。


「今、ひびが入ってます。斜面の、上から3分の1くらいのところ。横に、全部」


隊長の顔色が変わった。


でも、もう、逃げる時間はなかった。


道の前も後ろも、同じ斜面の下だ。走っても、抜けきれない。


——頭の中に、声が落ちてきた。


『『いっしょ!』』


アサとバンだった。


僕のすぐ横の、荷台の縁から。


『おねがい!』


——アサが、跳んだ。


荷台を蹴って、高く。


5月の、青い空に向かって。


空中で、身を翻す。


その軌跡から、虹が広がった。


7色のドームが、一行の上に、膨らんでいく。


半径、3m。


足りない。


——バンが、荷台から飛び降りた。


雪の上に、着地する。


一歩、踏み出す。


足元から、虹の波紋が広がる。


ドームが、膨らむ。


6m。


二歩。


波紋。


12m。


三歩。


四歩。


五歩。


バンが一歩ずつ踏み出すたびに、虹の輪が雪の上を走って、ドームが、ひとまわり、またひとまわりと、膨らんでいく。


——半径、30m。


一行の、全部が、虹の中にいた。


人も。馬も。荷馬車も。


——轟音が、来た。


地面が、揺れた。


斜面の上から、白い壁が、落ちてきた。


雪の、壁だった。


ただ、白い。視界の上半分が、全部、白い。


その白が、ドームの上に、落ちた。


——ドームは、割れなかった。


雪崩が、虹の丸みに沿って、滑っていった。


僕らの頭の上を。


右の斜面から、ドームの上を越えて、左の谷へ。


轟音が、谷の底へ落ちていく。


どこまでも、落ちていく。


——静かになった。


雪煙が、ゆっくり晴れていく。


虹のドームの外は、真っ白だった。


道の左の谷が、雪で、半分埋まっていた。


僕は、周りを見た。


リーゼが、剣の柄を握ったまま、立っていた。


エステルが、荷台の上で、両手を組んでいた。


ニナが、馬の首にしがみついていた。


帝国の護衛が5人。


馬が8頭。


——全員、無傷だった。


雪の1片も、ドームの中には落ちていなかった。


——帝国の護衛の1人が、槍を取り落とした。


ぽすっ、と雪の上で音がした。


続けて、もう1人。もう1人。


隊長は、槍を持ったまま、口を開けて、頭の上の虹を見上げていた。


ニナが、馬から滑り降りて、雪の上に、座り込んだ。


「……いまの」


誰も、答えなかった。


——アサとバンが、雪の上を転げ回っていた。


『たのしい!』


『たのしい!』


白い雪兎が2羽、白い雪の上で、ころころと。後ろ肢をばたばたさせて。耳を振り回して。


僕は、それを見ていて、膝から力が抜けた。


雪の上に、座り込んだ。


笑っていた。


たぶん、半分泣いていた。


——ドームが、ゆっくり薄れていった。


薄れた先を見て、隊長が、うめいた。


道が、なかった。


ドームの縁から先、道の上に、雪崩の一部が乗っていた。腰の高さまで。荷馬車どころか、人が歩くのも難しい。


「……掘るしか、ないか」


隊長が言った。


「半日は、かかるな」


——荷台の上で、白い山が、動いた。


むくり、と。


モチだった。


国境を越えてから、ずっと寝ていたモチが、起き上がっていた。


小さな目で、道の上の雪の山を見た。


『……しろいの……』


「うん」


『……おす……』


——モチは、荷台から降りた。


のそのそと、雪の山の前まで歩いていった。


肩を、雪に当てた。


400kgの体重を、前へ、かけた。


雪が、動いた。


腰の高さの雪の壁が、白い熊の肩に押されて、道の左へ、谷のほうへ、ずるずると押し出されていく。


1歩。


また1歩。


モチが進むたびに、道が、現れていく。


荷馬車が通れる幅で。


一度も休まずに。


モチは、道の上の雪を、30mぶん、全部、谷へ押し出した。


押し出し終えると、振り返って、僕のほうを見た。


『……おした……』


「……うん。ありがとう」


念話ではなく、声で言った。


モチは、のそのそと荷台へ戻って、また寝た。


帝国の隊長が、槍を雪の上に置いて、両手で顔をこすっていた。


「……いざというときに、起きる」


「はい」


「本当に、起きた」


「はい」


——出発しようとしたとき、1頭の軍馬が、動かなかった。


隊長の馬だった。大きな黒い牡馬。


脚が、震えていた。耳を後ろに倒して、首を低くして。


隊長が手綱を引いても、1歩も出ない。


僕は、その馬の前に回って、しゃがんだ。


鼻先が触れるまで、2分。


『こわい』


『まだ』


——まだ、怖い。


雪崩は終わった。でも、この子の恐怖は、まだ終わっていない。


人間もそうだ。怖いことが終わったあとで、膝が震えだす。


「隊長さん。この子を、モチの隣に立たせてもいいですか」


「……熊の隣に?」


「はい」


隊長は、疑わしそうな顔をしたが、黙って手綱を渡した。


僕は、黒い馬を、荷台の横まで引いていった。


モチの、白い背中の横に。


モチは、寝ていた。


寝息が、10秒に1回、ゆっくり、ゆっくり、鳴っていた。


黒い馬は、最初、首を振った。


熊の匂いだ。


でも、その熊は、寝ている。


ゆっくりと、大きな背中が、上がって、下がって。上がって、下がって。


5分。


馬の耳が、前に戻った。


首が、少しずつ上がった。


震えが、止まった。


『……こわい、ない』


「うん」


——道の先に、村が見えてきたのは、夕方だった。


国境の村。


小さな村だった。石積みの家が20軒ほど。煙突から、細い煙が上がっている。


その村の、外れの林に。


獣の影が、たくさん、あった。


木々のあいだに。雪の上に。


じっと動かずに、こちらを見ている、影が。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。