#56 北へ、2度目の旅
5月の朝、王宮の中庭は、また動物園になった。
去年の冬の初めに、北へ出発した朝と同じだ。
いや、同じではない。去年より、ひどい。
——幻獣が、ついてくるからだ。
和平会議のために、国境のヴァルデン砦へ向かう。
一行は、僕と、王の名代のアーリアと、リーゼと、エステルと、ニナ。騎竜団から、ヒバリを含めて3騎。ヒバリには今回、乗り手をつけずに、ほかの2騎と並んで飛んでもらう。リーゼは、僕の護衛として、荷馬車の御者台に座った。そして、うちの子たちが、ざっと20体。
「これ、外交なのか?」
リーゼが呻いた。
去年の冬にも、同じことを言っていた気がする。
——出発の支度をしているあいだに、ソラが消えた。
荷馬車の幌の上にいたはずが、ふっと消えて、10m先の、行列の先頭の騎竜の鞍の上に出た。
騎竜団の団員が「うわっ」と叫んだ。
ソラは、また消えて、10m戻って、僕の頭の上に出た。
また消えて、行列の最後尾の荷馬の背中に出た。
消えて、頭の上。
消えて、先頭。
消えて、頭の上。
『たかい!』
「……楽しそうだね」
《瞬間移動》は、この2ヶ月で少し伸びた。まだ10mずつだけれど、続けて何度も跳べるようになった。行列の先頭から最後尾まで、10mずつ、ぽんぽんと。
リーゼの頭の上にも、1度出た。
リーゼは、頭の上のソラを見上げもせずに言った。
「……降りろ」
ソラは降りなかった。
——クルミは、弁当係になった。
一行ぶんの弁当を、ドーラが朝から作ってくれた。パンと干し肉と、茹でた卵と、蜂蜜漬けの杏。20人ぶんと、獣たちのぶん。
それを、全部、クルミが頬袋にしまった。
「重くない?」
『……』
クルミは、平気な顔をしていた。頬は、いつもどおりの膨らみのままだった。20人ぶんの弁当は、お気に入りの手前の棚ではなく、もっと奥にしまったらしい。
問題は、昼に出すときだった。
『おねがい。だして』
『いっしょ!』
一覧が浮かぶ。〈パン 24〉〈干し肉 30〉〈卵 20〉〈杏(蜂蜜漬け) 1壺〉〈匙 41〉。
「……匙は、いらない」
パンを選ぶ。出てくる。干し肉を選ぶ。出てくる。
杏の壺を選んだところで、クルミが止まった。
『……あと』
「あと?」
『ぼくの、あと』
——杏は、自分が先に食べてから、らしい。
結局、杏の壺は、クルミが3つ食べてから出てきた。モチがそれを見ていて、壺ごと抱えようとして、エステルに止められた。
——ギンは、行列の横を歩いた。
体長は、もう2mを超えた。重さは、冬の終わりに量った225kgより、たぶん、もっとある。去年の冬、北へ行ったときは、僕の上着の内ポケットに入っていた子だ。
今は、荷馬車の馬と、肩を並べて歩いている。
最初の1時間、馬たちは落ち着かなかった。耳を後ろに倒して、ギンのほうを横目で見て、足並みを乱した。神獣の匂いは、狼の匂いより、ずっと強いらしい。
2時間後には、耳が前に戻った。
3時間後には、クリが、ギンの肩に鼻をつけて、匂いを嗅いでいた。
ギンは、されるままになっていた。
荷台の上では、モチが寝ていた。出発して5分で寝た。荷馬車が揺れるたびに、400kgの白い山が、ゆっさゆっさと揺れた。車軸が、ずっときしんでいた。
——子イタチたちは、全員のポケットに入った。
フデはアーリアの外套のポケット。ハネはエステルの袖の中。トメはニナのフード。チンは荷馬車の御者台。ブンは、僕のフードに入ったはずだった。
峠の手前で、ブンが、いなくなった。
「ブン?」
フードの中は、空だった。
『ブン、どこ?』
『……』
念話は届いている。でも、この子は、場所の言葉をまだあまり知らない。
一行が止まって、全員でブンを探した。荷馬車の下。騎竜の鞍の下。道端の草むら。
いない。
スズリに『おねがい』すればよかったのだと気づいたのは、ずっと後だった。そのときの僕は、焦りすぎて、肩の上のスズリのことさえ、頭から抜けていた。
——荷馬車の幌の上に、チンが座っていた。
御者台から、いつのまにか、幌の上に移っていた。
座って、動かない。1点を、じっと見て。
僕は、チンの見ている先を見た。
幌の、生成りの布。
その布の上に、生成り色の、細長い膨らみが1つあった。
ブンだった。
幌と、まったく同じ色になって、幌の上で寝ていた。
《毛がわり》。
「……見つけにくすぎる」
チンは、ブンが見つかるまで、ずっとそこで待っていたらしい。
2匹で、1つの文鎮なのだ。
——峠道の途中で、クリが止まった。
荷馬車を引いている、栗毛の牝馬だ。ヴァルデン砦の厩にいた子で、この旅では、自分の生まれた砦へ帰ることになる。
その子が、急に、脚を止めた。
「どうした」
御者のリーゼが、手綱を引いた。クリは動かない。
僕は、荷馬車から降りて、クリの前に回った。
鼻先が、僕の手の甲に触れる。
『あし』
『……ここ』
クリは、右の前脚を、少しだけ浮かせていた。
僕はしゃがんで、蹄を持ち上げた。
蹄の裏の、溝のところに、尖った小石が1つ、挟まっていた。
峠道の、割れた石だ。
小刀の先で、そっと掻き出した。
小石が、ころりと落ちた。
『……あし、いい』
クリは、蹄を2回地面に打って、それから、自分から歩き出した。
「……お前のそれ、ほんとに便利だな」
リーゼが、手綱を持ち直して言った。
——その夜は、峠の宿場に泊まった。
宿の食堂で、アーリアが、旅の記録をつけていた。
王の名代として、毎日の出来事を書き留めて、王都へ送る。それも、この人の仕事だった。
僕は、向かいの席で、スープを飲んでいた。
——ふと、気づいた。
アーリアは、右手で、筆を持っていた。
去年の冬、北へ行ったときは、左手だった。行儀が悪いと叱られても、どうしても左が動く、と言っていた。
「右で書くようになったんですね」
僕が言うと、アーリアは、筆を止めた。
1拍だけ。
それから、顔を上げて、微笑んだ。
「ええ。行儀よくしようと思いまして」
「すごいですね。左利きって、直すの大変なのに」
「練習いたしました」
「そうなんですね」
僕は、感心して、スープの続きを飲んだ。
アーリアは、また、右手で書き始めた。
——食堂の暖炉の前では、ニナが、ラウの毛を梳いていた。
梳きながら、小さな声で、歌を口ずさんでいた。
帝国の歌のようだった。低い、ゆっくりした節回し。子守唄のようにも聞こえた。
「ニナさん、それ、なんの歌ですか」
ニナは、手を止めて、少し恥ずかしそうにした。
「帝国の、古い歌です。北のほうの村では、子どもに歌って聞かせます」
ニナは、少し考えてから、言った。
「……『北の竜には、海の向こうに友がいる』」
「竜?」
「はい。北の山に、大きな竜が1頭いて、その竜には、海の向こうに友だちがいる。竜は時々、友だちに会いに、海を渡る。……そういう歌です」
北の山の、大きな竜。
僕は、冬に見た、あの岩棚を思い出していた。
角の1本折れた、800年生きた古竜。
『めんどう』と言った、あの声。
「……あの人に、友だちなんているのかなあ」
僕が言うと、ニナは首を傾げた。
「あの人?」
「いえ。なんでもないです」
ニナは、また、ラウの毛を梳き始めた。
歌の続きを、小さく口ずさみながら。
——3日目の昼、ヴァルデン砦に着いた。
石の城壁が二重。北を向いた稜堡が3つ。去年の冬、ここで、僕は3日寝込んだ。
クリが、厩の前で、嬉しそうに鼻を鳴らした。
——和平会議は、翌日から始まった。
帝国の代表は、オルガ。王国の代表は、アーリア。
帝国は、頭を下げて、この冬を越すための助けを求めた。
王国は、まず、国境の安全を求めた。二度と同じことが起きないという、目に見える形を。
2日やって、その形が、まだ決まらなかった。
2日目の夕方、僕は、アーリアに頼んだ。
「国境の向こうの村へ、行かせてください」
370頭が、いる村だ。
アーリアは、少しのあいだ、僕の顔を見ていた。
それから、オルガのほうを向いた。
「帝国の宰相閣下。ヴェリシアのテイマーが、貴国の国境の村へ入ることを、許していただけますか」
オルガは、アーリアを見て、僕を見た。
「……護衛を、つけます」
それが、答えだった。




