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#55 わたくしの、ふたつめの名前

わたくしの肩には、まだ、あの方の上着がかかっていた。


宝物庫からの帰り道。東棟の長い廊下を、わたくしは1人で歩いていた。


重い上着だった。


毛織りの、厚い生地。獣舎で着るためのものなのだと思う。袖口がほつれて、肘のところが擦れて、白い毛と、赤茶の毛と、銀色の毛が、あちこちについていた。


獣舎の匂いがした。


干し草と、陽に当たった犬の毛と、それから、あの方の匂い。


わたくしは、上着の襟を、両手で掴んでいた。


掴んでいないと、手が震えてしまいそうだった。


——「灯」。


あの方は、そう言った。


花束の前にしゃがんで、小さな声で。


扉のそばに、わたくしがいることを忘れて。


「灯、1年、経ったよ」


——その名前を聞いた瞬間、手燭が、手から落ちた。


胸の奥の、ずっと奥のほうで、何かが、ことりと音を立てた。


鍵のかかった箱の蓋が、少しだけずれたような——。


わたくしは、あの方の顔を見られなかった。


あの方は、わたくしの顔を見て、「寒いですよね」と言って、上着をかけてくださった。


寒くは、なかった。


——その夜、わたくしは、また、あの夢を見た。


石でできた、平らな道。


四角い箱が、たくさん、川のように並んで流れている。うるさくて、光っていて、恐ろしい速さで。


わたくしは、その道を渡ろうとしている。


いつもは、ここで、目が覚める。


——今夜は、覚めなかった。


足が、道の上に出た。


光。


音。


ずっと遠くで、誰かが、呼んでいる。


「あかり」


——。


わたしの名前だった。


わたしは、月島灯だった。


17歳だった。左利きだった。雷が駄目で、鳴り出すと、必ず隣の家に電話をかけた。猫舌だった。指を折って数え、鼻歌も少し伸ばす癖が抜けなかった。


隣の家に、男の子がいた。


ゆうくん。


幼稚園からずっと、隣の家で、隣のクラスだった男の子。


あの子は、延々と動物の話をした。犬の耳の角度の話。猫のひげの話。鳥の渡りの話。誰も最後まで聞いてくれないと、あの子は思っていた。


わたしは、全部、聞いていた。


聞くのが、好きだった。


あの子が早口になって、目がきらきらして、時間も何もかも忘れて喋っているのを見ているのが、好きだった。


犬に会ったら、しゃがんで、手の甲を差し出す。


それは、あの子が教えてくれた。小学3年の、帰り道に。


わたしは「うん、わかった」と言った。


それから8年、1度も忘れなかった。


——1年半、言えなかった。


好きだと。


あの子も、たぶん、同じだった。分かっていた。お互いに。


分かっていて、言わなかった。今の形が、壊れるのが怖くて。


4月の朝。


いつもの交差点で。


——光と、音と。


それから、何もなくなった。


——あの白い花は。


わたしのために、買われたものだった。


あの子が、あの交差点に置きに来た花だった。


そして、あの方が——あの子が、父上に言った言葉。


「ずっと心に想う人がいます」


わたくしが、扉の陰で聞いた言葉。


わたくしが、断られた理由。


それは、わたしだった。


——わたしは、泣いた。


1度だけ。


枕に顔を押しつけて、声を殺して。


お母さんの顔を、思い出したから。お父さんの顔も。玄関ホールで、毎朝「いってらっしゃい」と言ってくれた声も。


あの人たちは、今、どうしているのだろう。


1年。


娘がいなくなって、1年。


わたしの部屋の、水色のカーテンは、今も掛かったままなのだろうか。


——泣き終わったころ、窓の外が、白み始めていた。


わたくしは、寝台の上に座っていた。


記憶は、そこにあった。


月島灯の17年が、全部。


でも、それは、読み終えた誰かの日記のようだった。


1ページずつ、はっきり思い出せる。書かれていることは、全部分かる。そのとき、その人が何を感じたのかも、分かる。


けれど、それを読んでいるのは、わたくしだった。


アーリア・エル・ヴェリシア。


ヴェリシア王国の、第三王女。


17年、この国で生きてきた、わたくしだった。


——そして、わたくしは、気づいた。


わたくしが、あの方に心ひかれたのは、いつだったか。


思い出す前だった。


初めて書庫でお会いした日、わたくしは、責められる覚悟をして、あの方の前に立った。


王家の落ち度で、家族も、生まれた国も、何もかもを置いて、ここへ呼ばれた方だ。怒りをぶつけられても、仕方がないと思っていた。


あの方は、1度も、誰のことも責めなかった。


北の砦の記録室で、わたくしが「王家の落ち度で呼ばれた方を」と言いかけたとき、あの方は、こう言った。


「もう、そこはいいです」


許す、とさえ言わなかった。はじめから、責める気がなかったのだと思う。


帰る方法が見つかるまでの半年、あの方は、帰れるかどうかも分からないまま、この国で暮らしていた。不安がないはずがない。それなのに、それを誰にも見せなかった。見せないまま、毎朝、獣舎の桶を運び、病んだ獣を診て、この国で自分にできることを、1つずつ見つけていった。


そして、あの方は、誰に対しても、同じだった。


父にも。わたくしにも。厨房のドーラにも。書庫番の老人にも。洗濯場の侍女にも。同じように頭を下げて、同じように「ありがとうございます」と言う。「様」はやめてほしいと言ったのも、あの方だった。自分には身分がないから、と。


獣に向けるのと同じ、やわらかい声で、人とも話すのだ。


それらを見てきたのは、アーリアだった。


灯ではなかった。


「……これは」


わたくしは、自分の胸に、手を当てた。


「わたくしの、気持ちです」


灯の気持ちではない。


灯は、ゆうくんを好きだった。それは、日記の中の、本当のこと。


でも、わたくしがユウマさんを想うのは、あの方がこの国に来てから、わたくしが自分の目で見てきたものの結果だ。


——だから。


言わない。


わたくしは、そう決めた。


理由を、数えようとした。


左手の指を、1本、折りかけて——やめた。


この数え方が、誰のものだったのか、もう知っているから。


指を、ほどいた。


代わりに、心の中で、並べた。


1つ目。


わたくしは、1度、断られている。


あの方が想っているのは、灯だ。わたくしは、アーリアだ。記憶があっても、わたくしは、灯として愛されたいのではない。灯の名前で振り向いてもらっても、それはわたくしを見てもらったことにはならない。


2つ目。


わたくしは、王女である。


2人の姉は、国のために、遠い国へ嫁いだ。上の姉は泣かなかった。下の姉は、1晩だけ泣いて、翌朝、笑って馬車に乗った。わたくしは、それを見て育った。わたくしにも、その覚悟がある。


3つ目——。


そこで、わたくしは、思い出してしまった。


何度も、何度も、自分の声で読み上げてきた、一文を。


「召喚は、向こうの世界で、強い想いが結び付いた場所を、座標に使う」


——あの交差点。


あの方が、花を持って、訪れた場所。


わたしが、言えないまま、終わった場所。


あそこに結び付いていた想いは、あの方のものだけだったのだろうか。


——指先が、冷たくなった。


わたしの想いも、あそこにあったのではないか。


言えなかった「好き」が。1年半、ためて、ためすぎて、行き場をなくしたまま、あの交差点に残っていたのではないか。


だとしたら。


あの方を、この世界へ引っ張ったのは。


お母様からも、陽菜ちゃんからも、引き離したのは。


わたしが、あの人を、呼んでしまったのかもしれない。


——確かめる方法は、ない。


ヴィルマに聞けば、何か分かるかもしれない。けれど、聞けば、全部を話さなければならなくなる。


だから、これは、わたくしの推測のままにしておく。


ただ、1つだけは、はっきりしている。


わたくしが灯だと知れば、あの方は、わたくしのために、残ってしまう。


あの方は、そういう人だ。


帰るか、残るか。あの方は今、それを悩んでいる。お母様と陽菜ちゃんのいる場所へ帰るか、あの子たちのいるこの場所に残るか。


その天秤に、わたくしが乗ってはいけない。


これ以上の重りに、なってはいけない。


わたくしは、膝の上で、両手を強く組んだ。


爪が、手の甲に食い込むくらい、強く。


帰るか残るかは、あの方自身の理由で、選んでほしい。


——朝の中庭に、出た。


花壇の芽に、朝露が光っていた。


中庭の真ん中に、銀白の大きな狼が、伏せていた。


ギンだった。


わたくしを見て、顔を上げた。


わたくしは、その前に、しゃがんだ。


裾を片手で押さえて、膝を折って、目の高さを下げて。


右手を軽く握って、手の甲を、差し出した。


誰に教わったのかを、今は、知っている。


ギンは、首を伸ばして、わたくしの手の甲の匂いを嗅いだ。


長いこと、嗅いでいた。


それから、わたくしの膝に、顎をのせた。


重かった。温かかった。


「……ギン」


わたくしは、その耳の付け根を、そっと撫でた。


「内緒にしてね」


ギンは、人の言葉が分からない。


分からないはずなのに、動かなかった。


わたくしの膝に顎をのせたまま、目を閉じて、じっとしていた。


——その日から、わたくしは、右手で筆を持つことにした。


鼻歌が出そうになったら、唇を結ぶことにした。


指は、折らない。


雷の夜は、1人で耐える。


——夜。


わたくしは、帳面の端に、1行だけ、字を書いた。


この世界の誰にも読めない、四角くて、丸い、懐かしい字で。


左手で。


「お花、ありがとう」


書いて、しばらく、それを見ていた。


それから、帳面の端を小さく破り取って、蝋燭の火に近づけた。


紙は、すぐに燃えた。


黒くなって、丸まって、灰になって、消えた。


——この字を読める人は、この世界に、1人しかいない。


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