#54 1年目の4月
4月になった。
王都の雪は、すっかり消えた。中庭の花壇に、緑の芽が並んでいる。獣舎の子たちは冬毛が抜けて、どの子も一回り細く見える。櫛を通すと、1回ごとに、抜け毛の塊が取れる。毎朝、トトと2人で、桶に3杯ぶん。
アズキの赤茶の毛。モチの白い毛。ギンの銀白の毛。
獣舎の前の地面が、いろんな色の毛で、ふかふかになっていた。小鳥が、それを咥えて、巣の材料に持っていく。
春だった。
——そして、その日が来た。
4月の、あの日。
1年前の、あの朝から、1年。
僕は、朝から、獣舎の掃除をしていた。
いつもどおり。糞の桶を運んで、水桶を替えて、藁を敷き直して。
いつもどおりにしていないと、何かが崩れそうな気がした。
——あの交差点には、行けない。
当たり前だ。ここは、あの交差点から、どれくらい離れているのかも分からない場所なのだから。
花を買いに行くこともできない。花屋のおばさんに「白でお願いします」と言うこともできない。
だから、僕は、ヴィルマに頼んだ。
「宝物庫の花束に、会いに行ってもいいですか」
ヴィルマは、僕の顔を見た。
何も聞かなかった。質問で返さなかった。この人にしては、珍しいことだった。
「宝物庫を開けるには、王族の立ち会いが要ります」
「はい」
「今月の立ち会いは、まだ決まっていません」
——そのとき、書庫の奥から、声がした。
「わたくしが、参ります」
アーリアだった。
古文書の束を抱えて、書庫の棚のあいだから出てきた。
「ちょうど、宝物庫の目録を書き写す用がありまして」
「……ありがとうございます」
アーリアは、小さく首を振った。
——宝物庫までは、書庫から回廊を2つ抜ける。
アーリアは、僕の半歩前を歩いた。鍵の束を、両手で胸の前に持っていた。
「目録の、書き写しですか」
「はい。古い帳面が、傷んできましたので」
アーリアは、それきり黙った。
僕も、黙っていた。
回廊の窓から、中庭の花壇が見えた。緑の芽が、並んでいる。庭師が、その横で土を返していた。
そういえば、今日は、アーリアの声をあまり聞いていない、と思った。
いつもなら、この人は、回廊を歩きながら、古文書の話を3つくらいする。写本の癖の話とか、綴りの違いの話とか。
今日は、それがなかった。
僕も、話す気分ではなかったので、ちょうどよかった。
その後ろを、アズキが、尻尾を振りながらついてきていた。ススキが、3歩後ろにいた。
——東棟の階段の下で、アズキが、急に走り出した。
僕が止める間もなく。
階段を駆け上がって、廊下を曲がって、宝物庫の、いちばん外側の扉の前で、止まった。
座った。
前肢を揃えて、扉のほうを向いて。
秋の夜に、この子が獣舎を抜け出してきたときと、同じ座り方だった。
『ここ』
『ここ、におい』
「……うん。知ってる」
僕は、アズキの頭に手を置いた。
赤茶の短い毛が、手のひらの下で、温かかった。
——アーリアが鍵を開けた。
1枚目の扉。2枚目の扉。3枚目の扉。
いちばん奥の、台の上に。
白い花束があった。
トルコキキョウと、名前を知らない小さいのが何種類か。ラッピングのビニールと、花屋のシール。
召喚から、9ヶ月。
——1枚も、枯れていなかった。
僕は、ほっとした。
ほっとして、そのことが、少しだけ後ろめたかった。
僕は、台の前に、しゃがんだ。
あの交差点で、そうしたのと同じように。
膝が、鳴った。
花束の、白い花びらを見た。
ビニールの中で、花は、去年の7月の、あの夕方のままだった。
——扉のそばに、アーリアが立っていた。
僕は、それを忘れていた。
本当に、忘れていた。
「灯」
小さく、声に出していた。
「1年、経ったよ」
——あの日の翌朝のことを、思い出していた。
隣の家の、2階の、灯の部屋の窓。
朝になると、いつもカーテンが開く。僕が家を出るころに、ちょうど。水色の、お気に入りのカーテン。小学生のころから、ずっと同じやつだ。
あの日の翌朝、そのカーテンが、開かなかった。
その次の朝も。
その次の朝も。
僕は、毎朝、家を出るときに、その窓を見上げた。
見上げて、閉じたままのカーテンを見て、それから、自転車に乗った。
1ヶ月くらい、そうしていた。
ある朝、窓を見上げるのを、忘れた。
忘れたことに気づいたのは、学校に着いてからだった。
僕は、教室の席で、少しだけ吐きそうになった。
——あの窓は、今も、閉じたままなのだろうか。
——後ろで、何かが、石の床に落ちる音がした。
かしゃん、と。
僕は、振り返った。
アーリアの手燭だった。
床の上で、蝋燭が転がって、火が消えていた。
アーリアは、扉のそばに立ったまま、動かなかった。
「アーリア様?」
「……なんでも、ありません」
声が、細かった。
顔が、真っ白だった。
蝋燭の火が消えて、宝物庫の中は、廊下から差し込む光だけになっていた。その薄暗い中でも分かるくらい、白かった。
「大丈夫ですか」
「はい」
「顔、真っ白ですよ」
「……はい」
——寒いのだ、と思った。
宝物庫の中は、石が厚くて、陽が入らない。4月でも、冬のように冷える。僕も、しゃがんでいるあいだに、指先が冷たくなっていた。
僕は、上着を脱いだ。
アーリアの肩に、かけた。
「寒いですよね、ここ。すみません、長居して」
アーリアは、上着の襟を、両手で掴んだ。
掴んで、そのまま、うつむいた。
「……ありがとう、ございます」
「いえ」
僕は、床の手燭を拾って、アーリアに渡した。
アーリアは、それを受け取った。
手が、冷たかった。
やっぱり、寒かったのだと思う。
——宝物庫を出た。
アーリアが、3枚の扉に、1枚ずつ鍵をかけた。鍵を回す手が、ゆっくりだった。
「では、わたくしは、これで」
「はい。ありがとうございました」
アーリアは、礼をして、廊下を歩いていった。
上着を、肩にかけたまま。
返してもらうのを、忘れていた。まあ、明日でいい。
——僕も、帰ろうとした。
アズキが、動かなかった。
扉の前に座ったまま。前肢を揃えて。
「アズキ。帰ろう」
『……まだ』
「まだ?」
『まだ』
——僕は、アズキの顔を見た。
アズキは、扉を見ていた。
尻尾を、振っていなかった。
いつもは3秒も同じ姿勢でいられない犬が、扉の前で、じっとしていた。
秋の夜も、そうだった。
僕が泣いているあいだ、この子は、1度も動かなかった。
『まだ』
「……うん」
僕は、アズキの隣に座った。
石の床が、冷たかった。
上着がないので、少し寒かった。
アズキが、僕の膝に、頭を乗せた。
温かかった。人間より、2度くらい高い。毛の下に、心臓の音がある。
廊下の先で、ススキが、いつもの3歩の距離に座っていた。
その後ろから、足音もなく、もう1つ、大きな影が来た。
ギンだった。
獣舎から、1人で来たらしい。この子は、僕の居場所を、なぜかいつも知っている。
ギンは、ススキの横を通り過ぎて、僕の反対側に、どすんと伏せた。225kgの体が、廊下の幅の半分を塞いだ。
銀白の毛が、僕の腕に触れた。
ギンは何も言わなかった。
アズキも、何も言わなかった。
僕は、右手でアズキの頭を、左手でギンの背中を撫でながら、閉じた扉を見ていた。
2つの体温が、両側から、じんわり染みてきた。
もう少しだけ。
もう少しだけ、ここにいよう。
アズキが、そう言うのだから。
——廊下の窓から、4月の光が、斜めに差し込んでいた。
僕は、アーリアがどんな顔で廊下を歩いていったのかを、見ていない。
扉のほうを、見ていたからだ。




