#53 冬告げの狼
3月の終わり。交渉は、5日で一区切りがついた。
何も決まらなかった、というほうが近い。
ただ、「次は国境で、正式な会議を開く」ということだけが決まった。日取りは、帝国に持ち帰ってから知らせる。
使者団は、翌朝、北へ発つことになった。
——その日の朝から、フブキが、落ち着かなかった。
獣舎の前で、北を向いて、立っていた。
フブキは、日に1度、北を見る。それは、いつものことだ。朝か夕方に、ほんの少しのあいだ、北のほうへ顔を向ける。それだけで、また寝る。
でも、この日は、違った。
朝から、昼まで。
ずっと、北の山のほうを向いて。耳を立てて。鼻をひくつかせて。1歩も動かずに。
足元の雪が、フブキの形に溶けていた。
「フブキ?」
『……』
僕は、隣にしゃがんだ。
フブキの体は、大きい。座っている僕の目線より、肩が高い。灰色に近い白い毛が、北からの風で、さわさわと揺れていた。
『なに、みてる?』
『……くる』
『くる?』
『しろい』
『おおきい』
——白くて、大きいものが、来る。
僕は、北を見た。
空は晴れていた。雲ひとつない。3月の終わりの、薄い青空だ。
何も来ていない。
でも、フブキは、見ている。
《冬告げ》。
鑑定のとき、そう見えた。吹雪や寒波を、2日前に知る力。
『フブキ。かして』
この子は幻獣ではない。特殊個体だけれど、格は魔獣だ。だから、いっしょに使うのではなく、借りることになる。貸しているあいだ、この子は北を見られなくなる。
フブキは、僕を見た。
片目で。
『……いいよ』
——冷たいものが、首の後ろから入ってきた。
体の芯が、しんと冷えた。
そして、分かった。
分かった、としか言えない。見えたのでも、聞こえたのでもない。
北の、ずっと北の空の、もっと上のほうで、冷たい空気の塊が、ゆっくり南へ下りてきている。
それが、2日後に、北の峠にかかる。
昼ごろに。
季節外れの、大吹雪になる。
——僕は、10分きっかりで返した。
こめかみの奥が、少しだけ痛んだ。魔獣のスキルの、いつもの代償だ。
フブキは、また北を見始めた。
僕は、その横顔を見ていた。
日に1度、北を見る。
この子が砦の門まで歩いてきたときから、ずっとそうだった。何を見ているのか、聞いても『……』しか返ってこなかった。
見張っていたのだ。
冬が、いつ来るのかを。
ロヴィの雪原で、40頭の群れを率いていたころから、ずっと。この子は群れの長として、毎日、冬の来る方角を見ていた。群れを離れて、僕のところへ来てからも、その癖だけは、やめなかった。
今は、群れのかわりに、僕らのために見ている。
僕は、フブキの首の後ろの、いちばん毛の厚いところに、手を置いた。
分厚い毛の奥が、温かかった。
——僕は、王のところへ走った。
「峠に、吹雪が来ます。2日後の昼です」
王は、地図を広げさせた。
使者団の帰り道。王都から北へ、街道を2日。そこで、北の峠にかかる。峠の手前に、石造りの大きな宿場がある。
「使者団は、明日の朝に発つ予定だ」
「明日の朝に発ったら、峠の手前の街道で、ちょうど吹雪に捕まります」
オルガが呼ばれた。
僕の話を聞いて、オルガは、しばらく黙っていた。
「……根拠は」
「うちの狼が、そう言っています」
オルガは、僕の顔を見た。
半年前なら、きっと、笑われていたと思う。
でも、この人は、370頭が北へ帰っていったのを知っている。あの日、帝国の軍の中に、この人の部下がいたはずだ。
「どうすればよいのです」
「今日の午後に、発ってください」
僕は、地図の上の宿場を指さした。
「今日の午後に発てば、吹雪の前に、この宿場に入れます。石造りなら、吹雪は越せます。吹雪が明けたら、すぐに峠を越えてください」
オルガは、地図を見て、窓の外の青空を見て、それから、もう1度僕を見た。
「……1日遅れで済む、ということですね」
「はい」
「分かりました」
オルガは、振り返って、帝国の従者たちに言った。
「荷をまとめなさい。今日、発ちます」
——僕も、ついていくことになった。
宿場まで。王の名代の護衛として、リーゼと騎竜団が2騎。それに、ギンとフブキと、ヒバリ。
ヒバリは、吹雪の中は飛べない。でも、吹雪の前後なら、空から見張れる。
——予定どおり、吹雪は来た。
2日目の昼。
宿場の石の壁が、唸った。
窓の外が、白一色になった。1m先が見えない。風が、屋根の上を、獣の群れみたいに走っていく。
使者団は、宿場の中にいた。人も、馬も、全員。
「……本当に、来た」
帝国の従者の1人が、窓に張りついて、呟いた。
——夕方、厩で騒ぎが起きた。
葦毛の1頭が、吹雪の音に怯えて、仕切りの柵を蹴り破った。
そのまま、厩の戸を体で押し開けて、外へ飛び出していった。
北へ。
峠のほうへ。
「馬が!」
帝国の馬丁が、叫んだ。
吹雪の中に、葦毛の姿は、もう見えなかった。
——ギンが、立ち上がった。
僕が何か言うより先に。
ギンは、宿場の戸口から、吹雪の中へ、出ていった。
「ギン!」
僕は、戸口まで走った。
そして、見た。
吹雪が、ギンを、避けていた。
ギンが1歩進むごとに、白い渦が、ギンの左右に分かれていく。雪が、ギンの体に触れる手前で、向きを変える。
ギンの前に、道が開いていた。
雪の降っていない、1本の細い道が。
吹雪の中を、峠のほうへ。
誰も、何も言わなかった。帝国の従者も、リーゼも、僕も。
——10分後。
吹雪の中の道を、ギンが戻ってきた。
後ろに、葦毛がついていた。
首を垂れて、ギンの尻尾の後ろ、ぴったり1馬身の距離を守って。雪の降っていない細い道を、1歩ずつ。
葦毛は、厩に入ると、自分の仕切りに戻って、震えながら立ち止まった。
帝国の馬丁が、その首に抱きついて、泣いていた。
——同じころ、フブキも動いていた。
宿場の裏手の林に、野生の狼の群れがいた。吹雪を避けて、宿場の風下へ寄ってきていたのだ。15頭ほど。
このままでは、馬たちが怖がる。狼たちも、人間の近くでは落ち着かない。
『フブキ、おねがい』
僕は、送った。
これは、借りるのではない。頼みごとだ。
フブキは、裏口から出て、林の縁に立った。
吹雪の中で、1度だけ、低く、喉を鳴らした。
《群れ導き》。
林の中の15頭が、いっせいに顔を上げた。
そして、フブキのほうを1度見て、それから、宿場から離れる方へ、風下の谷へ、静かに移っていった。
どの狼の群れも、従う。
フブキは、群れの気配が谷の向こうに消えるまで、林の縁に立っていた。
——吹雪の雲が、1度だけ、切れた。
真夜中近く。ほんの数分だけ。
僕は、宿場の外に出ていた。ヒバリの様子を見るためだ。
ヒバリは、厩の裏の、風を避けた石壁の陰に伏せていた。
その首が、急に、持ち上がった。
上を、見上げていた。
雲の切れ間の、ずっと上を。
『おおきいの』
『みなみ』
——僕も、見上げた。
雲の切れ間に、星が見えていた。
その星が、1列、消えた。
端から端まで。何か巨大なものが、星の前を横切っていった。
雲よりも高いところを。
北から、南へ。
音は、しなかった。
影は、すぐに雲の向こうへ入って、見えなくなった。
『……おおきいの』
ヒバリが、もう1度言った。
「……うん」
僕は、しばらく、雲の切れ間を見上げていた。
雲は、すぐに閉じた。
——吹雪は、翌日の夕方にやんだ。
使者団は、次の朝早く、峠を越えていった。
誰も、欠けていなかった。人も、馬も。
別れ際、オルガが、馬車の窓から、僕を見た。
何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、口の端が動いた気がした。
笑った、のだと思う。たぶん。
——10日後、王都に、帝国からの手紙が届いた。
オルガの筆跡で。
ニナが読み上げた。
「『……峠の手前での、ご配慮に、深く感謝いたします。先の戦は、帝国の過ちでありました。皇帝陛下は、国内が落ち着きしだい、自ら貴国に赴き、謝罪し、償う所存であります。ついては、5月、ヴァルデン砦にて、正式な和平会議を開きたく——』」
5月。
僕が、北へ行ける。




