↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/85

#52 帝国から使者が来ました

帝国の宰相は、にこりともしない人だった。


オルガ・ベルン。60代の女の人だ。


背が高く、白髪をきっちりと結い上げ、灰色の外套の襟を喉元まで留めている。馬車から降りるとき、差し出された侍従の手を取らなかった。自分で降りて、自分で裾を払った。


王宮の正門で、王が出迎えた。


オルガは、深く礼をした。完璧な角度だった。


そして、顔を上げて、にこりともしなかった。


——交渉の場には、僕も呼ばれた。


隅の椅子だ。獣の話が出たら答える役、ということになっている。肩にスズリ、膝にハネ、足元にアズキ。アズキは議場のじゅうたんの匂いを嗅ぐのに忙しい。


ニナが、通訳に立った。


オルガは王国の言葉も話せる。でも、正式な交渉の言葉は、互いの国の言葉で行う決まりなのだそうだ。ニナが、それを間でつなぐ。


「帝国は、和平を望みます」


オルガは、帝国の言葉で言った。ニナが、それを訳した。


「ついては、条件がございます」


「条件」


王が、繰り返した。


「食料です」


——議場が、静かになった。


オルガは、手元の書類を1枚もめくらずに、数字を並べた。


「この20年で、帝国の北半分の麦の収穫は、4割になりました。次の冬を越せそうにない村が、北に83あります。子どもから先に、痩せていきます」


ニナの訳す声が、少し震えた。


「南へ出たのは、侵略です。それは認めます。そのうえで申し上げる。帝国は、飢えから逃げようとした。——この冬に向けて麦が届かなければ、北の民は、また南を見るでしょう。私には、それを止める力がございません」


王国側の大臣が、机を叩いた。


「だから攻めてよいと言うのか。こちらは7人死んだのだぞ」


「存じております」


オルガは、表情を変えなかった。


「そして1月3日の決戦では、両軍とも、死者が出ませんでした。そちらの少年のおかげで」


帳面の数字を読み上げるのと、同じ声だった。


——議場の目が、いっせいに僕のほうを向いた。


僕は、膝の上のハネを、少しだけ強く撫でた。


「宰相殿」


王の声だった。


大きな声ではなかった。いつもの、太くて、身振りの大きい声ではなかった。低くて、静かで、それなのに、議場の隅の僕のところまで、まっすぐ届いた。


「今の言葉を、もう1度、言うてみよ」


オルガが、王を見た。


「……『そちらの少年のおかげで』と」


「そうだ。まるで、よそごとのようにな」


王は、椅子から立ち上がらなかった。背もたれにも寄りかからなかった。ただ、卓の上で、太い指を組んだ。


「余の国の兵が、7人死んだ。7人とも、名前を言える。家族の名もだ。——宰相殿。そなたの国は、果たす気のない約束で、370頭の獣を、この国の雪原に並べた。それを止めなかったのは、誰だ。よしとしたのは、誰だ」


オルガの指が、書類の上で、止まった。


「死者が出なかったのは、帝国が何かをしたからではない。この子が、雪原の真ん中で、370頭のすべてに、たった1人で、本当のことを届けたからだ。そのために、この子は3日、熱で寝込んだ。この子の神獣は、その前の戦で脚を砕かれ、2ヶ月、3本の脚で歩いた。この子の飛竜は、同じ戦で翼を裂かれ、2ヶ月、空を飛べなかった。——どちらも、そなたの国が仕掛けた戦でのことだ」


議場の誰も、動かなかった。


「そのうえで、麦をよこせ、と。よこさねば、民がまた南を見る、と」


王は、組んでいた指をほどいて、卓の上に、両の手のひらを置いた。


「——ヴェリシアは、脅しには、麦ひと粒出さぬ」


——議場が、しんとした。


誰かの椅子が、小さく鳴った。


僕は、膝の上のハネを撫でる手が、止まっていた。


背中が、ぞわりとした。


この人は、夜中に焼き菓子を盗み食いする人だ。寝間着で、口の端に木の実のかけらをつけて、「内密に」と、僕に頼んだ人だ。


3日前まで、帝国の宰相に何を言えばいいのか分からなくて、眠れなかった人だ。


その人が、今、一国を背負って、座っていた。


——これが、王様なのだ。


膝の上で、ハネが、僕の指を心配そうに舐めた。僕の手が、少し震えていたらしい。


「……だが」


王は、少しだけ声を緩めた。


「民を飢えさせる王の苦しさは、余にも分からんではない。助けを乞う者を、ヴェリシアは見捨てぬ。——順番を、違えるな、と言うておる」


オルガは、長いこと、黙っていた。


それから、手元の書類を、ゆっくり閉じた。


立ち上がった。


そして、深く、礼をした。


さっき正門でしたのより、ずっと深い礼だった。


「……失礼を、申し上げました」


王国の言葉だった。ニナを通さずに。


「帝国は、条件を申し上げる立場にございません。先の戦は、帝国の過ちです。そのうえで——」


オルガは、頭を下げたまま、続けた。


「凍える息は、人の力では止められません。帝国は、もう、どうすることもできずにおります。どうか、お助けください」


王は、しばらく、オルガの白い頭を見ていた。


「顔を上げられよ、宰相殿」


オルガが、顔を上げた。


「その言葉を、そなたの国に、そのまま持ち帰られよ。話は、それからだ」


——交渉は、そこから、仕切り直しになった。


僕には、分からない話ばかりだった。麦の取れ高も、国境の砦の数も、通商の関税も。


でも、1つだけ、聞きたいことがあった。


休憩の前に、僕は手を挙げた。


「あの」


オルガが、僕を見た。


灰色の、硬い目だった。


「1つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


オルガは、王国の言葉で答えた。


「1月に、北へ帰っていった獣たちがいます。370頭。あの子たちは、今、どうしていますか」


——オルガは、初めて、間を置いた。


3秒くらい。


「……国境の村の近くに、獣が集まっている、と報告を受けております。帰る場所がないのでしょう。痩せて、咳をしている、とも」


麦の収穫の数字と、同じ読み上げ方だった。


「宰相殿」


王が、また言った。今度は、短く。


「その獣たちを騙して連れてきたのは、どこの国だ」


オルガの唇が、1度だけ、動いて、止まった。


「……帝国です」


「報告を受けた、で済ませるのか」


オルガは、目を伏せた。


長い沈黙のあとで、小さく言った。


「……申し訳、ございません。私は、あの獣たちの様子を、自分の目で確かめておりません」


僕は、椅子の上で、手を握った。


咳。


獣が、咳をしている。


「陛下」


僕は、王のほうを向いた。


「北へ、行かせてください」


議場が、ざわついた。


王は、長いこと僕を見ていた。


それから、首を横に振りはしなかった。縦にも振らなかった。


「……今は、答えられん」


「はい」


「和平が決まらぬうちは、国境の向こうへそなたを出せぬ。分かってくれ」


「はい」


分かっている。分かっているけれど、握った手は、なかなか開かなかった。


——休憩の鐘が鳴って、大臣たちが席を立った。


オルガだけが、座ったままだった。


その足元へ、アズキが、とことこ歩いていった。


「あ、アズキ、だめ」


遅かった。アズキは、オルガの靴の匂いを、ふんふんと嗅いでいた。北の国の革の匂い。長旅の、馬車の埃の匂い。それから、たぶん、この人の家の匂い。


オルガは、足を引かなかった。


足元の犬を、じっと見下ろしていた。


「……犬ですね」


「すみません。すぐ連れて行きます」


「かまいません」


アズキが、顔を上げた。尻尾を振った。オルガの膝に、前肢をかけようとした。


「アズキ!」


僕が首輪を掴んだのと、オルガの手が、ほんの少し持ち上がったのが、同時だった。


その手は、アズキの頭に届く前に、止まった。


止まって、膝の上に戻った。


「……よく、手入れされた犬です」


オルガは、それだけ言って、窓のほうを向いた。


僕は、アズキを抱えて、壁際まで下がった。


アズキは、腕の中で首をひねって、ずっとオルガのほうを見ていた。


『あのひと』


『いい、におい』


「……そう?」


『いぬの、におい』


——犬の匂い。


この人の服には、犬の匂いがついているらしい。


——休憩のあいだに、もう1つ、小さな騒ぎがあった。


使者の馬が、王宮の厩に入ろうとしない。


帝国から連れてきた、大柄な葦毛の馬が4頭。厩の入口で、4頭そろって前脚を突っ張り、耳を後ろに倒して、首を振っている。馬丁たちが引いても押しても、1歩も入らない。


「長旅で気が立っているのでしょう」


帝国の従者が言った。


僕は、厩の入口にしゃがんだ。


先頭の葦毛の鼻先が、僕の手の甲に触れるまで、待った。4分だった。


念話が届いた。この子とは契約していない。それでも、鼻先が触れるくらい近くにいれば、声だけは届くことがある。去年の冬、ケルンの宿の牝馬がそうだったように。


『こわい』


『におい』


『こわい、におい』


——匂い。


僕は、厩の中を覗いた。


入口の隣の、いちばん広い仕切り。


そこで、フブキが寝ていた。


片目のない、大きな氷牙狼。昼寝の場所に、厩の藁がいちばん気に入っているらしく、最近はここで寝ている。


北の国の馬にとって、氷牙狼の匂いは、いちばん怖い匂いだ。


生まれたときから、そう教わってきたはずだ。


『フブキ』


片目が、開いた。


『……』


『あっち、ねる? じゅうしゃ』


『……』


フブキは、しばらく僕を見ていた。


それから、のそりと立ち上がって、藁を払って、厩を出ていった。


葦毛の4頭の横を通るとき、フブキは、1度も馬のほうを見なかった。見ないように、顔を北へ向けて、ゆっくり歩いていった。


馬たちは、耳を倒したまま、それを見送った。


フブキの姿が獣舎の陰に消えて、5分。


先頭の葦毛が、自分から厩に入った。


残りの3頭が、続いた。


帝国の従者が、口を開けていた。


「……今の狼は」


「うちの子です」


「……氷牙狼が、言うことを聞くのですか」


「頼んだら、聞いてくれました」


従者は、それ以上、何も聞かなかった。


——その夜。


交渉は、1日目を終えた。


僕は、獣舎の見回りのあと、ギンを連れて中庭を通った。


中庭の石のベンチに、誰かが座っていた。


灰色の外套。白髪。


オルガだった。


1人で。月の明かりの下で。書類も持たずに、ただ、座っていた。


僕は、声をかけるべきかどうか、迷った。


迷っているあいだに、オルガが、こちらに気づいた。


立ち上がりかけて——僕の横のギンを見て、動きを止めた。


体長2.0m、225kg。月の光を浴びて、銀白の毛が青く光っていた。


神獣である。星5つの。戦場の丘の上に、ずっといた獣だ。


ギンは、オルガのほうへは、1歩も行かなかった。


僕の横に、静かに座っていた。


唸りもしない。尻尾も振らない。じっと動かずに、オルガを見ていた。


「……テイマー殿」


オルガの声だった。


議場とは、違う声だった。低くて、少しかすれていた。


「昼間は、失礼をいたしました」


「……いえ」


「孫が、おります」


オルガは、ベンチに座り直した。僕のほうではなく、ギンのほうを見ていた。


「7つになります。犬を1頭、飼っております。孫が生まれた年に、うちに来た犬です。……孫は、毎晩、その犬を抱いて寝ます」


「……はい」


「その犬が、この冬、寒さで、すっかり弱ってしまって」


オルガは、そこで、言葉を切った。


しばらく、黙っていた。


「今日、あなたと、その獣が並んで歩いてくるのを見て、孫と、あの子の犬を思い出しました」


月の下で、オルガの横顔が、少しだけ歪んだ。


「そして、考えました。——もし誰かが、あの子の犬に、南へ行けば暖かい、群れも連れて行ってやる、と言って、戦場に並べたら」


オルガは、膝の上の、自分の両手を見下ろした。


「私は、その者を、決して許さないでしょう」


「……」


「帝国は、それを、370頭にいたしました。私は、それを止めませんでした。国のためだと、帳面の上の数字として、よしとしました」


オルガは、ギンを見た。


それから、膝の上で、両手を固く組んだ。


「……触れてもよいか、とは、申しません。私には、その資格がございません」


ギンは、動かなかった。


僕も、何も言えなかった。


オルガは、立ち上がった。僕に、軽く礼をして、回廊のほうへ歩いていった。


背筋は、まっすぐだった。


でも、昼間より、歩くのが、少しだけ遅かった。


——ギンが、僕の手の甲に、鼻をつけた。


『ユウマ』


「うん」


『あのひと、さむい』


「……うん」


僕は、ギンの首の、いちばん毛の深いところに、手を入れた。


温かかった。


——僕は、昼間の議場のことを、思い出していた。


「ヴェリシアは、脅しには、麦ひと粒出さぬ」


僕を、この世界に呼んだ人の声だ。


呼ばれた日、僕は、この人を怒鳴りたかった。怒鳴れなかったのは、この人が本気で参っているのが、分かってしまったからだ。


今日、分かったことが、もう1つある。


僕を呼んだのが、この人の国で、よかった。


——そう思ったのは、たぶん、初めてだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。