#52 帝国から使者が来ました
帝国の宰相は、にこりともしない人だった。
オルガ・ベルン。60代の女の人だ。
背が高く、白髪をきっちりと結い上げ、灰色の外套の襟を喉元まで留めている。馬車から降りるとき、差し出された侍従の手を取らなかった。自分で降りて、自分で裾を払った。
王宮の正門で、王が出迎えた。
オルガは、深く礼をした。完璧な角度だった。
そして、顔を上げて、にこりともしなかった。
——交渉の場には、僕も呼ばれた。
隅の椅子だ。獣の話が出たら答える役、ということになっている。肩にスズリ、膝にハネ、足元にアズキ。アズキは議場のじゅうたんの匂いを嗅ぐのに忙しい。
ニナが、通訳に立った。
オルガは王国の言葉も話せる。でも、正式な交渉の言葉は、互いの国の言葉で行う決まりなのだそうだ。ニナが、それを間でつなぐ。
「帝国は、和平を望みます」
オルガは、帝国の言葉で言った。ニナが、それを訳した。
「ついては、条件がございます」
「条件」
王が、繰り返した。
「食料です」
——議場が、静かになった。
オルガは、手元の書類を1枚もめくらずに、数字を並べた。
「この20年で、帝国の北半分の麦の収穫は、4割になりました。次の冬を越せそうにない村が、北に83あります。子どもから先に、痩せていきます」
ニナの訳す声が、少し震えた。
「南へ出たのは、侵略です。それは認めます。そのうえで申し上げる。帝国は、飢えから逃げようとした。——この冬に向けて麦が届かなければ、北の民は、また南を見るでしょう。私には、それを止める力がございません」
王国側の大臣が、机を叩いた。
「だから攻めてよいと言うのか。こちらは7人死んだのだぞ」
「存じております」
オルガは、表情を変えなかった。
「そして1月3日の決戦では、両軍とも、死者が出ませんでした。そちらの少年のおかげで」
帳面の数字を読み上げるのと、同じ声だった。
——議場の目が、いっせいに僕のほうを向いた。
僕は、膝の上のハネを、少しだけ強く撫でた。
「宰相殿」
王の声だった。
大きな声ではなかった。いつもの、太くて、身振りの大きい声ではなかった。低くて、静かで、それなのに、議場の隅の僕のところまで、まっすぐ届いた。
「今の言葉を、もう1度、言うてみよ」
オルガが、王を見た。
「……『そちらの少年のおかげで』と」
「そうだ。まるで、よそごとのようにな」
王は、椅子から立ち上がらなかった。背もたれにも寄りかからなかった。ただ、卓の上で、太い指を組んだ。
「余の国の兵が、7人死んだ。7人とも、名前を言える。家族の名もだ。——宰相殿。そなたの国は、果たす気のない約束で、370頭の獣を、この国の雪原に並べた。それを止めなかったのは、誰だ。よしとしたのは、誰だ」
オルガの指が、書類の上で、止まった。
「死者が出なかったのは、帝国が何かをしたからではない。この子が、雪原の真ん中で、370頭のすべてに、たった1人で、本当のことを届けたからだ。そのために、この子は3日、熱で寝込んだ。この子の神獣は、その前の戦で脚を砕かれ、2ヶ月、3本の脚で歩いた。この子の飛竜は、同じ戦で翼を裂かれ、2ヶ月、空を飛べなかった。——どちらも、そなたの国が仕掛けた戦でのことだ」
議場の誰も、動かなかった。
「そのうえで、麦をよこせ、と。よこさねば、民がまた南を見る、と」
王は、組んでいた指をほどいて、卓の上に、両の手のひらを置いた。
「——ヴェリシアは、脅しには、麦ひと粒出さぬ」
——議場が、しんとした。
誰かの椅子が、小さく鳴った。
僕は、膝の上のハネを撫でる手が、止まっていた。
背中が、ぞわりとした。
この人は、夜中に焼き菓子を盗み食いする人だ。寝間着で、口の端に木の実のかけらをつけて、「内密に」と、僕に頼んだ人だ。
3日前まで、帝国の宰相に何を言えばいいのか分からなくて、眠れなかった人だ。
その人が、今、一国を背負って、座っていた。
——これが、王様なのだ。
膝の上で、ハネが、僕の指を心配そうに舐めた。僕の手が、少し震えていたらしい。
「……だが」
王は、少しだけ声を緩めた。
「民を飢えさせる王の苦しさは、余にも分からんではない。助けを乞う者を、ヴェリシアは見捨てぬ。——順番を、違えるな、と言うておる」
オルガは、長いこと、黙っていた。
それから、手元の書類を、ゆっくり閉じた。
立ち上がった。
そして、深く、礼をした。
さっき正門でしたのより、ずっと深い礼だった。
「……失礼を、申し上げました」
王国の言葉だった。ニナを通さずに。
「帝国は、条件を申し上げる立場にございません。先の戦は、帝国の過ちです。そのうえで——」
オルガは、頭を下げたまま、続けた。
「凍える息は、人の力では止められません。帝国は、もう、どうすることもできずにおります。どうか、お助けください」
王は、しばらく、オルガの白い頭を見ていた。
「顔を上げられよ、宰相殿」
オルガが、顔を上げた。
「その言葉を、そなたの国に、そのまま持ち帰られよ。話は、それからだ」
——交渉は、そこから、仕切り直しになった。
僕には、分からない話ばかりだった。麦の取れ高も、国境の砦の数も、通商の関税も。
でも、1つだけ、聞きたいことがあった。
休憩の前に、僕は手を挙げた。
「あの」
オルガが、僕を見た。
灰色の、硬い目だった。
「1つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
オルガは、王国の言葉で答えた。
「1月に、北へ帰っていった獣たちがいます。370頭。あの子たちは、今、どうしていますか」
——オルガは、初めて、間を置いた。
3秒くらい。
「……国境の村の近くに、獣が集まっている、と報告を受けております。帰る場所がないのでしょう。痩せて、咳をしている、とも」
麦の収穫の数字と、同じ読み上げ方だった。
「宰相殿」
王が、また言った。今度は、短く。
「その獣たちを騙して連れてきたのは、どこの国だ」
オルガの唇が、1度だけ、動いて、止まった。
「……帝国です」
「報告を受けた、で済ませるのか」
オルガは、目を伏せた。
長い沈黙のあとで、小さく言った。
「……申し訳、ございません。私は、あの獣たちの様子を、自分の目で確かめておりません」
僕は、椅子の上で、手を握った。
咳。
獣が、咳をしている。
「陛下」
僕は、王のほうを向いた。
「北へ、行かせてください」
議場が、ざわついた。
王は、長いこと僕を見ていた。
それから、首を横に振りはしなかった。縦にも振らなかった。
「……今は、答えられん」
「はい」
「和平が決まらぬうちは、国境の向こうへそなたを出せぬ。分かってくれ」
「はい」
分かっている。分かっているけれど、握った手は、なかなか開かなかった。
——休憩の鐘が鳴って、大臣たちが席を立った。
オルガだけが、座ったままだった。
その足元へ、アズキが、とことこ歩いていった。
「あ、アズキ、だめ」
遅かった。アズキは、オルガの靴の匂いを、ふんふんと嗅いでいた。北の国の革の匂い。長旅の、馬車の埃の匂い。それから、たぶん、この人の家の匂い。
オルガは、足を引かなかった。
足元の犬を、じっと見下ろしていた。
「……犬ですね」
「すみません。すぐ連れて行きます」
「かまいません」
アズキが、顔を上げた。尻尾を振った。オルガの膝に、前肢をかけようとした。
「アズキ!」
僕が首輪を掴んだのと、オルガの手が、ほんの少し持ち上がったのが、同時だった。
その手は、アズキの頭に届く前に、止まった。
止まって、膝の上に戻った。
「……よく、手入れされた犬です」
オルガは、それだけ言って、窓のほうを向いた。
僕は、アズキを抱えて、壁際まで下がった。
アズキは、腕の中で首をひねって、ずっとオルガのほうを見ていた。
『あのひと』
『いい、におい』
「……そう?」
『いぬの、におい』
——犬の匂い。
この人の服には、犬の匂いがついているらしい。
——休憩のあいだに、もう1つ、小さな騒ぎがあった。
使者の馬が、王宮の厩に入ろうとしない。
帝国から連れてきた、大柄な葦毛の馬が4頭。厩の入口で、4頭そろって前脚を突っ張り、耳を後ろに倒して、首を振っている。馬丁たちが引いても押しても、1歩も入らない。
「長旅で気が立っているのでしょう」
帝国の従者が言った。
僕は、厩の入口にしゃがんだ。
先頭の葦毛の鼻先が、僕の手の甲に触れるまで、待った。4分だった。
念話が届いた。この子とは契約していない。それでも、鼻先が触れるくらい近くにいれば、声だけは届くことがある。去年の冬、ケルンの宿の牝馬がそうだったように。
『こわい』
『におい』
『こわい、におい』
——匂い。
僕は、厩の中を覗いた。
入口の隣の、いちばん広い仕切り。
そこで、フブキが寝ていた。
片目のない、大きな氷牙狼。昼寝の場所に、厩の藁がいちばん気に入っているらしく、最近はここで寝ている。
北の国の馬にとって、氷牙狼の匂いは、いちばん怖い匂いだ。
生まれたときから、そう教わってきたはずだ。
『フブキ』
片目が、開いた。
『……』
『あっち、ねる? じゅうしゃ』
『……』
フブキは、しばらく僕を見ていた。
それから、のそりと立ち上がって、藁を払って、厩を出ていった。
葦毛の4頭の横を通るとき、フブキは、1度も馬のほうを見なかった。見ないように、顔を北へ向けて、ゆっくり歩いていった。
馬たちは、耳を倒したまま、それを見送った。
フブキの姿が獣舎の陰に消えて、5分。
先頭の葦毛が、自分から厩に入った。
残りの3頭が、続いた。
帝国の従者が、口を開けていた。
「……今の狼は」
「うちの子です」
「……氷牙狼が、言うことを聞くのですか」
「頼んだら、聞いてくれました」
従者は、それ以上、何も聞かなかった。
——その夜。
交渉は、1日目を終えた。
僕は、獣舎の見回りのあと、ギンを連れて中庭を通った。
中庭の石のベンチに、誰かが座っていた。
灰色の外套。白髪。
オルガだった。
1人で。月の明かりの下で。書類も持たずに、ただ、座っていた。
僕は、声をかけるべきかどうか、迷った。
迷っているあいだに、オルガが、こちらに気づいた。
立ち上がりかけて——僕の横のギンを見て、動きを止めた。
体長2.0m、225kg。月の光を浴びて、銀白の毛が青く光っていた。
神獣である。星5つの。戦場の丘の上に、ずっといた獣だ。
ギンは、オルガのほうへは、1歩も行かなかった。
僕の横に、静かに座っていた。
唸りもしない。尻尾も振らない。じっと動かずに、オルガを見ていた。
「……テイマー殿」
オルガの声だった。
議場とは、違う声だった。低くて、少しかすれていた。
「昼間は、失礼をいたしました」
「……いえ」
「孫が、おります」
オルガは、ベンチに座り直した。僕のほうではなく、ギンのほうを見ていた。
「7つになります。犬を1頭、飼っております。孫が生まれた年に、うちに来た犬です。……孫は、毎晩、その犬を抱いて寝ます」
「……はい」
「その犬が、この冬、寒さで、すっかり弱ってしまって」
オルガは、そこで、言葉を切った。
しばらく、黙っていた。
「今日、あなたと、その獣が並んで歩いてくるのを見て、孫と、あの子の犬を思い出しました」
月の下で、オルガの横顔が、少しだけ歪んだ。
「そして、考えました。——もし誰かが、あの子の犬に、南へ行けば暖かい、群れも連れて行ってやる、と言って、戦場に並べたら」
オルガは、膝の上の、自分の両手を見下ろした。
「私は、その者を、決して許さないでしょう」
「……」
「帝国は、それを、370頭にいたしました。私は、それを止めませんでした。国のためだと、帳面の上の数字として、よしとしました」
オルガは、ギンを見た。
それから、膝の上で、両手を固く組んだ。
「……触れてもよいか、とは、申しません。私には、その資格がございません」
ギンは、動かなかった。
僕も、何も言えなかった。
オルガは、立ち上がった。僕に、軽く礼をして、回廊のほうへ歩いていった。
背筋は、まっすぐだった。
でも、昼間より、歩くのが、少しだけ遅かった。
——ギンが、僕の手の甲に、鼻をつけた。
『ユウマ』
「うん」
『あのひと、さむい』
「……うん」
僕は、ギンの首の、いちばん毛の深いところに、手を入れた。
温かかった。
——僕は、昼間の議場のことを、思い出していた。
「ヴェリシアは、脅しには、麦ひと粒出さぬ」
僕を、この世界に呼んだ人の声だ。
呼ばれた日、僕は、この人を怒鳴りたかった。怒鳴れなかったのは、この人が本気で参っているのが、分かってしまったからだ。
今日、分かったことが、もう1つある。
僕を呼んだのが、この人の国で、よかった。
——そう思ったのは、たぶん、初めてだった。




