#51 夜の厨房に、犯人がいます
焼き菓子が、消える。
ドーラの焼き菓子である。
蜂蜜と、干し杏と、木の実を練り込んで、窯で焼いた、手のひらくらいの丸いやつ。王宮の厨房の名物で、客人が来たときに出す。
それが、夜ごと、消えていた。
「1晩に、3つだよ」
ドーラは、厨房の卓を拳で叩いた。
「3つ。毎晩、きっちり3つ。棚の奥にしまっても消える。蓋をしても消える。鍵のかかる戸棚に入れたら、鍵が開いて消える」
「鍵が?」
「開いてんだよ!」
——僕は、まず、クルミを疑った。
当然である。
でも、クルミの頬袋の一覧には、焼き菓子の行がなかった。
『おねがい』
『いっしょ!』
一覧を、上から下まで見た。匙41本。どんぐり96個。小石14個。焼き菓子は、なし。
「クルミじゃないです」
「じゃあ誰だい」
ドーラは、腕を組んで、獣舎のほうを睨んだ。
「うちの子らの誰かなら、あたしは怒らないよ。怒らないけど、3つは多い。太る」
——犯人探しになった。
僕は、書庫の、スミの一家に頼んだ。
煙道の横の羊毛の箱。スミと、スズリと、子どもたちが5匹。
『おねがい』
スミが、箱の縁から顔を出した。
『いっしょ!』
——《先読み》。
スミの目を借りて、厨房の夜を見る。
見る、というより、分かる、に近かった。
この先、今夜、厨房で何が起きるか。少しだけ。
真夜中を過ぎたころ。裏口の、扉。
「真夜中過ぎに、裏口から来ます」
僕が言うと、ドーラが目を細めた。
「裏口ね」
——その夜、厨房に潜んだ。
潜んだのは、僕と、シモと、スミの一家だ。
潜む前に、1匹ずつ頼んだ。
『シモ、おねがい』
『いっしょ!』
『トメ、おねがい』
『いっしょ!』
『チン、おねがい』
『いっしょ!』
『フデ、おねがい』
『いっしょ!』
4つの返事が、ぴったり同じ速さで返ってきた。この子たちは、返事の仕方まで行儀がいい。
シモが、先に入った。
《気配遮断》。
シモが入った瞬間、厨房の中の空気が、少しだけ静かになった気がした。音が消えたのではない。僕らがいる、という気配が、消えたのだ。
トメが、続いた。
《忍び足》。
床板の上を、音もなく。僕の足音まで、なぜか消えた。
僕らは、窯の横の、薪置き場の陰にしゃがんだ。
チンが、僕の膝の上に座った。
座って、動かない。耳だけを、ぴんと立てて。
《聞き耳》。
ブンは、そのチンの背中に乗っていた。薪の色に溶け込んで、茶色くなっていた。
フデは、棚の上。
ハネは、僕の首の横で、丸くなっていた。
——真夜中を過ぎた。
厨房は、暗い。窯の火は落ちて、灰の中に、赤い点が2つ3つ残っているだけだ。
チンの耳が、ぴくりと動いた。
僕の膝の上で、小さな体が、固くなった。
『……きこえる』
——裏口の、扉だ。
きい、と、細い音がした。
僕の耳には、ほとんど聞こえなかった。チンの耳を借りて、初めて聞こえた。
足音。
2つ。
1つは、重い。人間の、大人の、大きな足音。
もう1つは、軽い。4本の足。爪が、石の床に、かちかちと当たる音。
大きな影が、入ってきた。
手燭も持たずに。暗がりの中を、慣れた足取りで。
戸棚の前で、止まった。
鍵を、開けた。
——鍵を持っている。
僕は、息を止めた。
影が、戸棚の中を、ごそごそと探った。
探って、首を傾げた。
焼き菓子は、今夜、戸棚にはない。ドーラが、別の場所に隠したのだ。
影は、しばらく戸棚の前で困っていた。
それから、厨房の中を、うろうろし始めた。
——フデが、棚の上で、ぴょこんと顔を上げた。
《探り当て》。
ドーラの隠し場所は、フデには、最初から見えていた。粉の袋の、裏。
影が、ちょうど、その粉の袋の前に来た。
袋を、どけた。
焼き菓子の籠が、出てきた。
影が、嬉しそうに、1つ手に取った。
——そこで、ドーラが、灯りを点けた。
厨房の奥の扉から。手燭を高く掲げて。
「そこまでだよ!」
灯りが、影を照らした。
赤褐色の髭。
大きな腹。
寝間着の上に外套を1枚。
口に、焼き菓子を、半分くわえている。
——王だった。
足元に、バウがいた。
老犬は、裏口のほうを向いて、背筋を伸ばして座っていた。
見張り役のつもりらしかった。
耳は聞こえない。だから、ドーラが後ろから来たのに、まったく気づいていなかった。
「……陛下」
ドーラの声が、低かった。
「医者に、止められているはずですね」
王は、焼き菓子をくわえたまま、固まっていた。
「甘いものは、控えるようにと。去年の暮れに」
「……むぐ」
「3つ。毎晩。きっちり3つ」
「……むぐぐ」
王は、焼き菓子を口から離して、背筋を伸ばした。
威厳を取り戻そうとしたらしい。寝間着で。口の端に、木の実のかけらをつけて。
「……ドーラ。これは、その」
「その、何です」
「……」
王は、僕のほうを見た。
薪置き場の陰から、僕が立ち上がったのに、気づいたのだ。
「綿貫殿」
「はい」
「……このことは、どうか、内密に」
僕は、答えた。
「言いませんよ」
——言ってから、気づいた。
秋に、エステルに言ったのと、同じ言葉だった。
あのときは、エステルが、かすれた声で「このことは、どうか」と言ったのだった。
今は、王が、木の実のかけらを口の端につけて、同じことを言っている。
僕は、笑いをこらえるので、精一杯だった。
——ドーラは、腕を組んだまま、王を見ていた。
「陛下。なんで、夜中に食べるんです」
「……腹が、減るのだ」
「夕飯を、あれだけ召し上がって」
「……」
僕は、しゃがんで、バウの正面に回った。
目が合う。尻尾が、2回、床を打つ。
『バウ。あのひと、なんで、よる、くる?』
バウは、少し考えるように、首を傾げた。
『……ねない』
——眠らない。
『ねない?』
『……ねない』
『……まえ、も』
——僕は、立ち上がった。
「陛下。眠れてないんですか」
王が、ぎくりとした。
「……バウが、そう言ったのか」
「はい。前の夜も、眠ってないって」
王は、しばらく黙っていた。
それから、大きな肩を、少し落とした。
「……3日後に、帝国の宰相が来る」
「はい」
「戦をした相手だ。何を言ってくるか分からん。何を言えばよいのかも、分からん。考えていると、目が冴えて、眠れん。眠れんと、腹が減る」
王は、手の中の焼き菓子を見下ろした。
「情けない話だ」
——ドーラが、ため息をついた。
長い、長いため息だった。
それから、焼き菓子の籠を、王の前に置いた。
「……1つだけですよ」
「うむ」
「今夜で終わりにしてください」
「うむ」
王は、焼き菓子を1つ取って、両手で持って、ゆっくり食べた。
——僕の首の横で、ハネが、もぞもぞと動いた。
ハネは、いちばん甘えん坊だ。誰にでも擦り寄る。
僕の首から降りて、卓の上を歩いて、王の手に、擦り寄った。
白い体を、太い指に、すりすりと。
『ハネ。おねがい』
僕は、送った。
『いっしょ!』
——《はげまし》。
そばにいる仲間の力を、一段上げる力。
王の肩から、何かが、ふっと抜けたように見えた。
王は、焼き菓子を食べ終えて、大きな欠伸をした。
「……む」
もう1度、欠伸をした。
「……眠い」
「寝てください」
「うむ……」
王は、バウを連れて、裏口から出ていった。足取りが、来たときより、ずっと重かった。
《はげまし》で、副交感神経を高めてくれたらしい。
——翌朝、侍従から聞いた。
王は、その夜、朝までぐっすり眠ったそうだ。
いびきが、廊下の端まで聞こえていたらしい。
ドーラは、翌日から、焼き菓子の籠を棚の上ではなく、窯の横に置くようになった。
1つだけ、端のほうに、寄せて。




