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50/84

#50 王都は、なぜか運がいい

春先の王都で、小さな噂が、いくつも立っていた。


王宮の菜園の大根が、去年の倍の大きさになった。


中庭に、水たまりができない。雪解けの季節なのに、雨の翌朝でも、石畳がすぐに乾く。


王宮に近い下町の井戸が、澄んでいる。去年の秋まで少し濁っていた井戸が、底の石が数えられるくらいに。


エステルの施療院では、この冬の咳の患者が、例年の3分の1で済んだ。


——誰も、理由を知らなかった。


「運がいいのでしょう」


侍女たちはそう言った。庭師もそう言った。井戸端の女の人たちも、そう言っていた。


王都は、なぜか、運がいい。


——理由を探し始めたのは、エステルとヴィルマだった。


施療院の患者が減ったのは、嬉しい。でも、理由が分からないうちは、まだ安心できない。エステルはそういう人だ。


ヴィルマは、理由の分からないことが、存在するだけで落ち着かない人だ。


2人は書庫の卓に王都の地図を広げて、印をつけていった。


咳の患者が減った施療院。澄んだ井戸。大根が大きく育った畑。水はけのよくなった中庭。


印は、ばらばらに散っているように見えた。


最初は。


——僕は、その地図を見せられても読めない。


でも、トトは読める。


トトが、地図を覗き込んで、首を傾げた。


「……ここ、コナが掘ったとこだ」


「え?」


「ここも。ここも。菜園のここも。中庭の、この敷石の隙間も。おれ、全部、埋め戻したもん」


トトは、指で1つずつ印をなぞっていった。


「ここ、3回埋めた。ここは2回。井戸の横は、先週」


——印は、コナが夜中に掘って回った場所と、重なっていた。


エステルとヴィルマが、同時に顔を上げた。


「スズリ」


僕は、肩の上に送った。


『おねがい』


『いっしょ!』


——書庫の床が透けて、地面の下が見えた。


土。石。木の根。古い水路の跡。


その中を——細い光が、走っていた。


うっすらと、白く。


聖なる、としか言いようのない光だった。まっすぐではない。木の根のように、枝分かれしながら、土の中を、細い道のように延びている。


その道の出発点は、全部、コナが掘った穴の跡だった。


「……光ってます」


「光?」


「地面の下が。コナが掘ったところから、光の道が延びてます。井戸の下にも。菜園の下にも」


——《浄化》。


鑑定のときに、そう見えた。


僕は、闇とか悪とかをはらう力なのだと、ぼんやり思っていた。


違った。


この光は、病のもとを、消している。


土の乱れを、整えている。


咳のもとになる病原体が、井戸に染み込まないように。菜園の土が痩せないように。雨水が、ちゃんと地面の下へ抜けていくように。


コナは、それを、夜中にひとりでやっていた。


——獣舎の隅に、コナがいた。


藁の中で、鼻先だけ出して、丸くなっていた。


『コナ。なんで、ほる?』


鼻先が、ぴくりと動いた。


『きれい』


『する』


——きれいに、する。


掘るのは、遊びではなかった。


この子は、清めていたのだ。


獣舎の床も。菜園も。中庭の敷石の隙間も。自分がいる場所を、自分の知っているやり方で、きれいにしていた。


そして僕らは、それを「穴掘り大好き」と記録帳に書いて、トトが毎回埋め戻していた。


「……コナ」


『ほる?』


「うん。掘って、いいよ」


——頼みごとが、1つ舞い込んできた。


ドーラだった。


「坊主。漬物蔵に、カビが出た」


「カビ?」


「毎年、春先に出るんだよ。壁の下のほうに、青いのが。去年は樽を3つ捨てた」


ドーラは、腕を組んで、渋い顔をしていた。


「カビは、雪が溶けるのと一緒に来るんだ。湿気と、ぬるい風と一緒にね」


天気の話だった。


僕は、コナを抱いて、漬物蔵へ行った。


薄暗い石の蔵に、樽が20並んでいる。壁の下のほう、床に近いところに、青緑の斑点が、点々と広がっていた。


『コナ。おねがい』


『いっしょ!』


コナが、僕の腕から飛び降りた。


壁際の土間に、前肢を当てる。


掘った。


速い。土間の土が、見る間に後ろへ飛んでいく。


——コナの体が、うっすら光っていた。


冬毛は、もう春の毛に生え変わりかけて、白に薄い灰色が混じっている。その毛の縁が、白く、ほんのりと。


光が、コナの前肢から、掘った穴の底へ落ちていく。


穴の底から、土の中を、壁の下へ、走っていく。


壁の青緑の斑点が——薄くなった。


1つずつ。端から。


見ている間に、消えた。


石の壁が、カビの生える前の、灰色に戻っていた。


蔵の中の、湿った、つんとする匂いが、消えていた。


——ドーラは、しばらく、壁を見ていた。


それから、無言で蔵を出ていって、無言で戻ってきた。


手に、干し魚を1匹、まるごと持っていた。


大きい。コナの体と同じくらいある。


ドーラは、それを、コナの前に置いた。


「うちの子らの中で、あんたがいちばん偉い」


コナは、干し魚を見て、ドーラを見て、それから干し魚を咥えて、引きずりながら獣舎へ帰っていった。


途中で3回転んだ。3回とも、魚は離さなかった。


——ただ、穴は、穴である。


その翌日、侍女が1人、中庭でコナの穴に足を取られて、転んだ。


怪我はなかった。でも、洗濯物の籠がひっくり返った。


「……やっぱり、埋め戻そう」


僕が言うと、トトが「えー」と言った。


「でも、埋めたら、光の道が消えちゃうんじゃない? そしたら、コナ、また掘らなきゃいけなくなるよ」


トトは、そこで、口を閉じた。


書庫で、地図の印を1つずつなぞったときのことを、思い出したらしかった。


「……兄ちゃん。おれ、同じとこ、何回も埋めた。3回埋めたとこも、あった。コナも、同じとこ、何回も掘ってた」


トトの声が、小さくなった。


「あれ……おれが埋めたせいで、コナの光の道、消しちゃってたのかな。だから、コナ、また掘りに行ってたのかな」


「確かめてみよう」


トトが、昨日コナが掘った穴を、1つ埋め戻した。


スズリの《千里眼》で、地面の下を見た。


——光の道は、そのまま走っていた。


土をかぶせたあとも、何も変わらずに。


コナが清めた土は、埋めても、清いままなのだ。


「……消えてない」


トトが、ほうっと息を吐いた。


——でも、それなら。


どうして、コナは、同じところを何度も掘っていたのだろう。


「トト。コナが掘ってるの、いつ見つけてた?」


「朝。獣舎の見回りのとき。……あ」


トトが、目を丸くした。


「おれ、見つけたら、すぐ『こら!』って、コナを抱っこして、穴から離してた。それで、すぐ埋めてた」


僕も、同じだった。掘っているコナを見かけたら、「また掘ってる」と笑って、抱き上げていた。困った趣味だと思っていたから。


——コナは、途中で止められていたのだ。


清めきる前に、抱き上げられて、穴を埋められて。


だから、次の夜、また同じところへ行って、掘り直していた。3回埋めたところは、3回も、途中で止めてしまっていたのだ。


誰にも見つからずに、最後まで掘れた夜。その夜に、ようやく、光の道が通っていたのだ。


——足元に、いつのまにか、コナが来ていた。


埋めたばかりの穴の上を、ふんふんと嗅いでいる。


『コナ。きれい、まだ?』


『……まだ』


『ほる』


「……ごめんね、コナ」


トトが、コナの前にしゃがんで、言った。


「今度から、おれ、コナが『おわり』って顔するまで、待つ。待ってから、埋める」


コナは、トトの指先の匂いを、ふんふんと嗅いだ。


それから、隣の敷石の隙間を、また掘り始めた。


「……よし!」


トトが、袖をまくり上げた。


細い腕だった。12歳の、獣舎番の腕だ。


トトは、その腕に、ぐっと力を入れて、叫んだ。


「おれは、ムキムキになる!」


——こうして、コナの穴の埋め戻しは、改めてトトの仕事になった。


コナの穴は、たいてい、狐1匹ぶんの大きさだ。深さ30cmくらい。トトがくわで10回も土を寄せれば埋まる。


でも、ときどき、大きな穴の日がある。


古い井戸の跡を清めた日。詰まった排水溝を清めた日。そういう日は、コナの穴は、人が立って入れるくらい大きく、深くなる。


大穴の日は、トト1人では無理だ。


だから、手伝いが来る。


氷牙狼の4頭。ハギ、ミゾレ、アラレ、ヒョウ。それに、ボロと、クヌギと、ナラ。


狼と犬たちは、穴の縁に並んで、後ろ肢で土を蹴り込む。ざっ、ざっ、ざっ、と。7頭ぶんの土が、穴の中へ飛んでいく。クヌギはアズキの真似をして尻尾を振りながら蹴り、ナラはクヌギの1拍あとに蹴る。


そして最後に、モチが来る。


いつも通り、獣舎で寝ていたはずのモチが——。


『……うめ……る……』


のそのそと、穴の縁まで歩いてくる。


前肢の、ひとかき。


それだけで、樽1杯ぶんの土が、穴の中へ落ちていく。


ふたかき。みかき。


穴が、埋まる。


モチは、埋まった穴の上に、どすんと座る。


400kgで、踏み固める。


——そして、そのまま寝る。


「モチー! どいてー! 次の穴ー!」


トトが、白い背中を押している。びくともしない。


『……ねて……る……』


僕は、少し離れたところで、それを見ていた。


3歩後ろに、ススキがいた。


ススキは、埋め戻しの輪に入らない。


この子の持ち場は、僕の背後だからだ。


僕も、それでいいと思っている。


——夕方、トトが、獣舎の前で、腕を曲げて見せに来た。


「兄ちゃん、見て! ちょっと太くなった!」


1日で太くなるはずがない。


「……うん。太くなった」


僕がそう言うと、トトは、とても嬉しそうな顔をした。


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