#50 王都は、なぜか運がいい
春先の王都で、小さな噂が、いくつも立っていた。
王宮の菜園の大根が、去年の倍の大きさになった。
中庭に、水たまりができない。雪解けの季節なのに、雨の翌朝でも、石畳がすぐに乾く。
王宮に近い下町の井戸が、澄んでいる。去年の秋まで少し濁っていた井戸が、底の石が数えられるくらいに。
エステルの施療院では、この冬の咳の患者が、例年の3分の1で済んだ。
——誰も、理由を知らなかった。
「運がいいのでしょう」
侍女たちはそう言った。庭師もそう言った。井戸端の女の人たちも、そう言っていた。
王都は、なぜか、運がいい。
——理由を探し始めたのは、エステルとヴィルマだった。
施療院の患者が減ったのは、嬉しい。でも、理由が分からないうちは、まだ安心できない。エステルはそういう人だ。
ヴィルマは、理由の分からないことが、存在するだけで落ち着かない人だ。
2人は書庫の卓に王都の地図を広げて、印をつけていった。
咳の患者が減った施療院。澄んだ井戸。大根が大きく育った畑。水はけのよくなった中庭。
印は、ばらばらに散っているように見えた。
最初は。
——僕は、その地図を見せられても読めない。
でも、トトは読める。
トトが、地図を覗き込んで、首を傾げた。
「……ここ、コナが掘ったとこだ」
「え?」
「ここも。ここも。菜園のここも。中庭の、この敷石の隙間も。おれ、全部、埋め戻したもん」
トトは、指で1つずつ印をなぞっていった。
「ここ、3回埋めた。ここは2回。井戸の横は、先週」
——印は、コナが夜中に掘って回った場所と、重なっていた。
エステルとヴィルマが、同時に顔を上げた。
「スズリ」
僕は、肩の上に送った。
『おねがい』
『いっしょ!』
——書庫の床が透けて、地面の下が見えた。
土。石。木の根。古い水路の跡。
その中を——細い光が、走っていた。
うっすらと、白く。
聖なる、としか言いようのない光だった。まっすぐではない。木の根のように、枝分かれしながら、土の中を、細い道のように延びている。
その道の出発点は、全部、コナが掘った穴の跡だった。
「……光ってます」
「光?」
「地面の下が。コナが掘ったところから、光の道が延びてます。井戸の下にも。菜園の下にも」
——《浄化》。
鑑定のときに、そう見えた。
僕は、闇とか悪とかをはらう力なのだと、ぼんやり思っていた。
違った。
この光は、病のもとを、消している。
土の乱れを、整えている。
咳のもとになる病原体が、井戸に染み込まないように。菜園の土が痩せないように。雨水が、ちゃんと地面の下へ抜けていくように。
コナは、それを、夜中にひとりでやっていた。
——獣舎の隅に、コナがいた。
藁の中で、鼻先だけ出して、丸くなっていた。
『コナ。なんで、ほる?』
鼻先が、ぴくりと動いた。
『きれい』
『する』
——きれいに、する。
掘るのは、遊びではなかった。
この子は、清めていたのだ。
獣舎の床も。菜園も。中庭の敷石の隙間も。自分がいる場所を、自分の知っているやり方で、きれいにしていた。
そして僕らは、それを「穴掘り大好き」と記録帳に書いて、トトが毎回埋め戻していた。
「……コナ」
『ほる?』
「うん。掘って、いいよ」
——頼みごとが、1つ舞い込んできた。
ドーラだった。
「坊主。漬物蔵に、カビが出た」
「カビ?」
「毎年、春先に出るんだよ。壁の下のほうに、青いのが。去年は樽を3つ捨てた」
ドーラは、腕を組んで、渋い顔をしていた。
「カビは、雪が溶けるのと一緒に来るんだ。湿気と、ぬるい風と一緒にね」
天気の話だった。
僕は、コナを抱いて、漬物蔵へ行った。
薄暗い石の蔵に、樽が20並んでいる。壁の下のほう、床に近いところに、青緑の斑点が、点々と広がっていた。
『コナ。おねがい』
『いっしょ!』
コナが、僕の腕から飛び降りた。
壁際の土間に、前肢を当てる。
掘った。
速い。土間の土が、見る間に後ろへ飛んでいく。
——コナの体が、うっすら光っていた。
冬毛は、もう春の毛に生え変わりかけて、白に薄い灰色が混じっている。その毛の縁が、白く、ほんのりと。
光が、コナの前肢から、掘った穴の底へ落ちていく。
穴の底から、土の中を、壁の下へ、走っていく。
壁の青緑の斑点が——薄くなった。
1つずつ。端から。
見ている間に、消えた。
石の壁が、カビの生える前の、灰色に戻っていた。
蔵の中の、湿った、つんとする匂いが、消えていた。
——ドーラは、しばらく、壁を見ていた。
それから、無言で蔵を出ていって、無言で戻ってきた。
手に、干し魚を1匹、まるごと持っていた。
大きい。コナの体と同じくらいある。
ドーラは、それを、コナの前に置いた。
「うちの子らの中で、あんたがいちばん偉い」
コナは、干し魚を見て、ドーラを見て、それから干し魚を咥えて、引きずりながら獣舎へ帰っていった。
途中で3回転んだ。3回とも、魚は離さなかった。
——ただ、穴は、穴である。
その翌日、侍女が1人、中庭でコナの穴に足を取られて、転んだ。
怪我はなかった。でも、洗濯物の籠がひっくり返った。
「……やっぱり、埋め戻そう」
僕が言うと、トトが「えー」と言った。
「でも、埋めたら、光の道が消えちゃうんじゃない? そしたら、コナ、また掘らなきゃいけなくなるよ」
トトは、そこで、口を閉じた。
書庫で、地図の印を1つずつなぞったときのことを、思い出したらしかった。
「……兄ちゃん。おれ、同じとこ、何回も埋めた。3回埋めたとこも、あった。コナも、同じとこ、何回も掘ってた」
トトの声が、小さくなった。
「あれ……おれが埋めたせいで、コナの光の道、消しちゃってたのかな。だから、コナ、また掘りに行ってたのかな」
「確かめてみよう」
トトが、昨日コナが掘った穴を、1つ埋め戻した。
スズリの《千里眼》で、地面の下を見た。
——光の道は、そのまま走っていた。
土をかぶせたあとも、何も変わらずに。
コナが清めた土は、埋めても、清いままなのだ。
「……消えてない」
トトが、ほうっと息を吐いた。
——でも、それなら。
どうして、コナは、同じところを何度も掘っていたのだろう。
「トト。コナが掘ってるの、いつ見つけてた?」
「朝。獣舎の見回りのとき。……あ」
トトが、目を丸くした。
「おれ、見つけたら、すぐ『こら!』って、コナを抱っこして、穴から離してた。それで、すぐ埋めてた」
僕も、同じだった。掘っているコナを見かけたら、「また掘ってる」と笑って、抱き上げていた。困った趣味だと思っていたから。
——コナは、途中で止められていたのだ。
清めきる前に、抱き上げられて、穴を埋められて。
だから、次の夜、また同じところへ行って、掘り直していた。3回埋めたところは、3回も、途中で止めてしまっていたのだ。
誰にも見つからずに、最後まで掘れた夜。その夜に、ようやく、光の道が通っていたのだ。
——足元に、いつのまにか、コナが来ていた。
埋めたばかりの穴の上を、ふんふんと嗅いでいる。
『コナ。きれい、まだ?』
『……まだ』
『ほる』
「……ごめんね、コナ」
トトが、コナの前にしゃがんで、言った。
「今度から、おれ、コナが『おわり』って顔するまで、待つ。待ってから、埋める」
コナは、トトの指先の匂いを、ふんふんと嗅いだ。
それから、隣の敷石の隙間を、また掘り始めた。
「……よし!」
トトが、袖をまくり上げた。
細い腕だった。12歳の、獣舎番の腕だ。
トトは、その腕に、ぐっと力を入れて、叫んだ。
「おれは、ムキムキになる!」
——こうして、コナの穴の埋め戻しは、改めてトトの仕事になった。
コナの穴は、たいてい、狐1匹ぶんの大きさだ。深さ30cmくらい。トトがくわで10回も土を寄せれば埋まる。
でも、ときどき、大きな穴の日がある。
古い井戸の跡を清めた日。詰まった排水溝を清めた日。そういう日は、コナの穴は、人が立って入れるくらい大きく、深くなる。
大穴の日は、トト1人では無理だ。
だから、手伝いが来る。
氷牙狼の4頭。ハギ、ミゾレ、アラレ、ヒョウ。それに、ボロと、クヌギと、ナラ。
狼と犬たちは、穴の縁に並んで、後ろ肢で土を蹴り込む。ざっ、ざっ、ざっ、と。7頭ぶんの土が、穴の中へ飛んでいく。クヌギはアズキの真似をして尻尾を振りながら蹴り、ナラはクヌギの1拍あとに蹴る。
そして最後に、モチが来る。
いつも通り、獣舎で寝ていたはずのモチが——。
『……うめ……る……』
のそのそと、穴の縁まで歩いてくる。
前肢の、ひとかき。
それだけで、樽1杯ぶんの土が、穴の中へ落ちていく。
ふたかき。みかき。
穴が、埋まる。
モチは、埋まった穴の上に、どすんと座る。
400kgで、踏み固める。
——そして、そのまま寝る。
「モチー! どいてー! 次の穴ー!」
トトが、白い背中を押している。びくともしない。
『……ねて……る……』
僕は、少し離れたところで、それを見ていた。
3歩後ろに、ススキがいた。
ススキは、埋め戻しの輪に入らない。
この子の持ち場は、僕の背後だからだ。
僕も、それでいいと思っている。
——夕方、トトが、獣舎の前で、腕を曲げて見せに来た。
「兄ちゃん、見て! ちょっと太くなった!」
1日で太くなるはずがない。
「……うん。太くなった」
僕がそう言うと、トトは、とても嬉しそうな顔をした。




