#49 クルミと取り引き
シャツが、消えた。
物干しに、干しておいたはずだった。
白い、半袖の、学校のシャツ。胸ポケットに、校章の刺繍がある。
7月の夕方、あの交差点に立っていたとき、僕が着ていたものだ。
この世界に来てから、ずっと、たんすの奥にしまってあった。着るとこの世界では浮くし、冬は寒い。それでも、ときどき洗って、干して、また畳んで、しまっていた。
花束以外で、僕が向こうから持ってきたものは、ほかに2つあった。
制服のズボンと、スニーカーだ。
スニーカーは、北の雪原で、底がはがれた。雪と氷の上を歩くための靴ではなかったのだ。ロヴィ村の靴屋が「これは直せない」と首を振ったので、今は、獣舎の棚の上に飾ってある。トトが「兄ちゃんの国の靴!」と言って、毎朝、埃を払ってくれている。
ズボンは、獣舎の仕事で、両膝に穴があいた。侍女が2度繕ってくれたが、3度目は無理だった。今は細く裂いて、モチの寝床の敷き布になっている。モチは、その上でいちばんよく眠る。
だから、元の形のまま手元に残っている向こうのものは、このシャツ、たった1つだった。
——それが、物干しから消えていた。
「……え」
僕は、物干しの前で、しばらく立ち尽くしていた。
洗濯挟みが2つ、空っぽのまま、縄に残っていた。
風で飛んだのではない。風の日ではなかった。飛んだなら、洗濯挟みごと飛ぶ。
血の気が、引いていくのが分かった。
「スズリ」
肩の上に、スズリがいた。
『おねがい』
『いっしょ!』
——世界が透けた。
物干しの周り。洗濯場。回廊。王宮じゅう。
ない。
どこにもない。
——いや。
1箇所だけ、見えないところがあった。
「……クルミ」
獣舎の梁の上で、ふわふわした塊が、頬をぱんぱんに膨らませていた。
——僕は、今度ばかりは、必死だった。
『クルミ! それ、だして!』
『いや』
『だいじ! ほんとに、だいじ!』
『いや』
『おねがい!』
『いや』
梁の下で、僕は両手を合わせて頼んだ。
クルミは、梁の上で、ぷいとそっぽを向いた。
「干し杏、あげるから」
1袋、梁の下に置いた。クルミは降りてきて、1袋全部食べて、梁の上に戻った。
シャツは出てこなかった。
「干し杏、2袋」
2袋とも、頬袋にしまい込んだ。
出てこなかった。
「ドーラさんの焼き菓子」
食べた。
出てこなかった。
「……クルミ。お前、もらうだけもらって、出す気ないだろ」
『……』
沈黙だった。
図星だったのだと思う。
——トトが、獣舎の入口から覗いていた。
「兄ちゃん、前みたいに、1時間座れば?」
「座った」
「座ったの?」
「さっき、1時間座った。何も起きなかった」
前と同じやり方は、効かなかった。
僕は、梁の下に座り込んで、頭を抱えた。
——あの日の朝、母が、あのシャツにアイロンをかけていた。
7月の、蒸し暑い朝だった。キッチンの横の小さな台で。
「襟くらい、自分でやりなさいよ」
母はそう言いながら、結局、襟まで全部かけてくれた。僕は、テレビの動物番組を見ながら、パンを食べていた。「ありがと」と言ったかどうかも、覚えていない。
あの日の夕方、僕はそのシャツを着て、あの交差点に立った。
そして、そのまま、ここに来た。
母がアイロンをかけたシャツは、今、この世界に1枚しかない。
脇が擦り切れて、洗いすぎて、生地が薄くなって。それでも、あのシャツは、母の手が触った思い出のものなのだ。
あのシャツがなくなったら、元の形のまま残っている向こうのものは、宝物庫の花束だけになる。
いや、花束だって、いつかは枯れる。
そうしたら、僕がここに来る前にいた場所の、手で触れられるものが、何もなくなる。
「……頼むよ」
声に出して、言った。
念話ではなく、ただの声で。
——頭の中に、声が落ちてきた。
『あのひとの』
僕は、顔を上げた。
梁の上で、クルミが、こっちを見ていた。
『あのひとの』
『だいじ』
——あのひとの、大事なもの。
『なくなる、だめ』
「……なくなる?」
僕は、梁の上のクルミを見上げた。
なくなる、だめ。
なくならないように?
——トトが、思い出した。
「あ。兄ちゃん、それかも」
「え?」
「3日前、洗濯場で、侍女さんたちが話してたんだ。兄ちゃんの白いシャツ、もう擦り切れてるって。脇が破れかけてるから、もう捨てて、新しいのを仕立てたほうがいいって」
僕は、そのとき、獣舎にいた。そんな話は、1度も聞いていない。
「そのとき、クルミ、洗濯場の屋根の上にいたよ」
——クルミは、聞いていたのだ。
人の言葉は分からない。でも、声の調子と、侍女がシャツを持ち上げて首を振る仕草で、分かったのだと思う。
このままだと、あのひとの大事なものが、なくなる。
だから、しまった。
頬袋の中に。
誰にも捨てられない場所に。
——僕は、ゆっくり立ち上がった。
「クルミ。お前、今まで盗ってきたもの……」
匙。
櫛。
靴下。
この冬、梁の上の巣から出てきたものを、1つずつ思い出した。
匙は、僕が食事で使った匙だった。いつも、僕が使ったあとで、なくなる。
櫛は、僕が獣たちの毛を梳くのに使っていた櫛だった。
靴下は、僕のものだった。
全部、僕のものだった。
王の老眼鏡とトトの帽子は、たぶん、気分だ。
でも、それ以外は。
この王宮に来たときから、ずっと。
クルミは、僕のものを、盗っていたのではなかった。
僕のものを、なくならないように、しまっていたのだ。
「盗む。反省しない」——トトの記録帳には、そう書いてある。
反省しないのは、当たり前だった。
悪いことをしている、とは、1度も思っていなかったのだから。
——僕は、梁に向かって、両手を差し出した。
クルミが、降りてきた。
僕の手の上に、乗った。
僕は、その小さな体を、両手で包んだ。
ふわふわの毛。小さな背骨。速い心臓。頬が、ぱんぱんに膨らんでいる。
何も言えなかった。
しばらく、何も言えなかった。
「……ありがとう」
声で、言った。
念話で送っても、まだ通じない言葉だから。
それから、念話で、送った。
『おねがい』
『だして』
クルミの丸い目が、僕を見上げた。
長い間があった。
それから。
『いっしょ!』
——視界の端に、文字が浮かんだ。
僕に読める字で。
縦に、ずらりと。
〈シャツ(白) 1〉
〈匙 41〉
〈櫛 1〉
〈靴下(片方) 3〉
〈どんぐり 96〉
〈木の実(種類不明) 87〉
〈干し杏 2〉
〈小石 14〉
〈……〉
〈……〉
——頬袋の中身の、一覧だった。
《異空間収納》を、いっしょに使うと、こう見えるらしい。
僕は、1行目を選んだ。
クルミが頬を揉むと、白いシャツが、ふわんと出てきた。
畳まれてはいなかったが、濡れてもいなかった。皺も、ほとんどなかった。頬袋の中は、どうやら、湿気も時間も関係ないらしい。
胸ポケットの校章が、ちゃんとあった。
脇のところは、確かに、擦り切れていた。
——僕は、シャツを胸に抱えた。
それから、一覧をもう1度見た。
〈匙 41〉
議場で、全部出したはずの匙だった。
いつのまにか、また41本に戻っていた。
「……クルミ」
『……』
「……それは、あとで、ドーラさんに返そうね」
『……いや』
「あとでね」
『……』
——アズキが、獣舎の隅で立ち上がって、厨房のほうへ歩いていった。
「待って、アズキ、今のはそういう意味じゃない」
——その日から、クルミは、僕の頼みをすんなり聞くようになった。
『おねがい』
『いっしょ!』
一覧が浮かんで、僕が選ぶと、出てくる。
トトが「兄ちゃん、おれの帽子の羽根、まだ入ってない?」と言うので見てみたら、〈羽根(帽子の) 1〉の行があった。出したら、トトは泣いて喜んだ。
侍女たちには、事情を話した。シャツは、捨てないでくださいと頼んだ。侍女の1人が、擦り切れた脇を、同じ色の糸で繕ってくれた。
繕い目は、よく見ないと分からないくらい、細かかった。
——夜、シャツを畳んで、たんすの奥にしまおうとした。
引き出しの縁に、クルミが座っていた。
畳んだシャツを、じっと見ていた。
「……見張り? じゃあ、預かってて」
僕は、シャツを、クルミの前に差し出した。
クルミは、しばらくシャツを見ていた。それから、小さな手で、自分の頬を、そっと押さえた。
シャツが、ふわんと消えた。
クルミの頬が、ほんの少しだけ、ふくらんだ。
いちばん大事なものは、いちばん手前に置いておくらしい。
クルミは、そのまま、僕の枕の横で丸くなった。ふくらんだ頬に、小さな手を添えたまま。
僕は、その背中を、指1本で撫でた。




