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48/84

#48 虹色のドーム

3月になった。


王宮の屋根の雪が、緩み始めていた。


昼間は、雫が落ちる。軒下に、ぽたぽたと、途切れずに。夜になると、その雫がそのまま凍って、つららになる。朝、また溶ける。


春が近いのだと、ドーラが言った。


「雪が泣き出したら、春は3週間後だよ」


ドーラは天気の話ばかりする。そして、たいてい当たる。


——その日の昼、僕は厨房の裏にいた。


いつもの場所だ。去年の夏、アズキに初めて会った、生ゴミの木箱の陰。


今は木箱の代わりに、洗い場がある。トトと侍女が3人、大きなたらいで、獣舎の餌桶を洗っていた。


僕は、そのそばで、アズキの毛を梳いていた。


冬毛が抜け始めている。櫛を1回通すごとに、赤茶の毛玉が1つ取れる。取っても取っても取れる。アズキは、梳かれている間じゅう、目を細めて尻尾を振っていた。


足元に、フクがいた。


アサとバンも、その隣にいた。


この3羽は、いつも一緒にいる。ロヴィ村で出会った日から、ずっとだ。フクがどこかへ行けば、アサとバンがついていく。フクが寝れば、2羽もその両隣で寝る。


——フクが、地面を叩いた。


ダン。


後ろ肢で。


ダン、ダン。


「フク?」


フクは、怖いだけのときは、もう地面を叩かない。念話で『こわい』と言う。


だから、これは——違う。


フクは、上を見ていた。


耳を伏せて、全身の毛を逆立てて、屋根の上を。


ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。


止まらない。


『こわい』


『うえ』


『こわい!』


——僕は、顔を上げた。


厨房の屋根。


その軒の上に、雪が、分厚く張り出していた。


昼の陽で緩んだ雪が、屋根の傾きに沿って、ゆっくりずれていた。その縁に、つららが、束になって下がっている。腕くらいの太さのものが、何本も。


ずれている。


今、この瞬間も。


真下に、たらい。


トトと、侍女が3人。


「トト!」


僕が叫んだのと、雪が屋根を離れたのが、同時だった。


——頭の中に、声が落ちてきた。


『『いっしょ!』』


アサとバンだった。


僕に、頼まれるより先に。


『おねがい!』


僕は、叫ぶように返した。


——アサが、跳んだ。


高く。


雪兎の、強靭な後ろ肢が、地面を蹴った。白い体が、真上に跳ね上がった。僕の背丈を越えて、軒の高さまで。


空中で、身を翻した。


その軌跡から——虹が、広がった。


赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。


アサが描いた弧に沿って、7つの色が、ドームの形に膨らんだ。


たらいの上に。


トトと、侍女たちの上にも。


——雪の塊が、落ちてきた。


ドームの上に。


ぶつかった。


どさっ、という重い音がして、雪の塊が、ドームの上で、砕けた。


砕けて、虹の丸みに沿って、左右に流れ落ちた。


つららの束が、続いて落ちてきた。


ドームの上で、かしゃかしゃと、ガラスの割れるような音を立てて、弾かれた。


ドームの中には、1欠片も、落ちてこなかった。


半径、3m。


たらいを中心に、トトも、侍女たちも、その中にいた。


——全員、無傷だった。


侍女の1人が、たらいの縁を掴んだまま、腰を抜かしていた。


トトは、頭の上の虹を見上げて、口を開けていた。


「……にじ」


——バンが、一歩、踏み出した。


アサの隣で。


雪兎の、頑強な後ろ肢が、地面を踏んだ。


その足元から、虹色の輪が、広がった。


水面に石を落としたときの、波紋のように。


輪が、ドームの縁にぶつかった。


ドームが、膨らんだ。


2倍に。


半径3mが、6mに。洗い場の端から端まで、厨房の裏口まで、虹の天井が覆った。


《波紋》。


仲間の力を、速く、広く、伝える力。


——アサが、地面に降りてきた。


着地して、そのまま、僕の足元に転がってきた。


転がって、ひっくり返って、また転がって、跳ねて、また転がった。


白い腹を見せて。後ろ肢をばたばたさせて。


そして、頭の中に、声が来た。


『たのしい!』


——僕は、止まった。


たのしい。


今まで、うちの子たちから、1度も聞いたことのない言葉だった。


『たのしい!』


アサが、もう1度言った。


足元で、転げ回りながら。


僕は、しゃがんだ。


アサの白い腹に、手を置いた。


速い。心臓が、指先に跳ね返ってくるくらい、速く打っている。兎の心拍は、もともと人間よりずっと速い。でも、今のは、それよりもっと速かった。


『……たのしかった?』


『たのしい!』


「……そっか」


僕は、笑っていた。


笑いながら、少し泣きそうになっていた。


初めての言葉が、「たのしい」だった。


——トトが、ドームの中から這い出してきた。


「兄ちゃん! 今の! 今の見た!?」


「見た」


「アサが! 跳んで! 虹が! 雪がばーんって!」


「うん」


「すげえ!!」


侍女たちは、まだ腰を抜かしていた。


ドーラが、厨房の裏口から出てきて、虹のドームと、砕けた雪の山と、腰を抜かした侍女と、転げ回る兎を順番に見た。


そして、おたまを落とした。


——その日の午後、兎たちに聞いた。


獣舎の隅で、3羽は、また並んで寝ていた。フクが真ん中。アサとバンが両隣。


『アサ。バン。なんで、フクと、いっしょ?』


アサが、片目を開けた。


『フク、さき』


『さき?』


『こわい、さき』


——ああ、そうか。


危ないことを、いつもいちばん先に知るのが、フクだ。


《胸騒ぎ》。災いが来る前に、分かる。


アサは、フクの隣にいれば、いちばん先に跳べる。


バンは、アサの隣にいれば、いちばん先に広げられる。


この3羽は、仲がいいから一緒にいたのではなかった。


いや、仲もいいのだと思う。


でも、それだけではない。


組むために、くっついていたのだ。


ロヴィ村で、アサとバンがフクについてきたあの日から、ずっと。


——頼みごとを、1つした。


雪解けは、まだ3週間続く。そのあいだ、厨房の屋根からは、毎日雪とつららが落ちてくる。


厨房の裏口から中庭まで、侍女たちは毎日、何十回も往復する。


『アサ。バン。おねがい』


『『いっしょ!』』


『ほそく、ながく』


僕は、頭の中で、形を思い描いた。


丸いドームではなく、細長い、トンネルのような形。


厨房の裏口から、中庭まで。


アサが跳んだ。


バンが踏んだ。


——虹が、伸びた。


細長く。屋根の軒下に沿って。裏口から、中庭の入口まで、30mほど。


虹色の、アーチの屋根ができた。


屋根の上から、ちょうど雪が落ちてきた。アーチの上で砕けて、左右に流れた。


その下を、侍女が1人、恐る恐る歩いてみた。


何も落ちてこなかった。


侍女は、アーチの端まで歩いて、振り返って、それから、手を叩いて笑った。


——その日のうちに、侍女たちはそれを「虹の廊下」と呼び始めた。


厨房の下働きの少年が、用もないのに何往復もした。洗濯係の女の人が、わざわざ遠回りして通りに来た。ドーラが「仕事しな!」と怒鳴って、それから自分も1度、おたまを持ったまま端から端まで歩いた。


歩き終えて、アーチを見上げて、ドーラは言った。


「……春の虹は、いい年の前触れだよ」


天気の話だった。たぶん、当たると思う。


虹の内側から見上げると、屋根の上の空が、7色の薄い膜ごしに透けて見えた。雪の雫が、アーチの上を転がり落ちるたびに、その膜がかすかに震えて、小さな波紋が広がった。


アサとバンは、その下を、何度も跳ねて往復していた。


——雪解けのあいだ、侍女たちは毎日、その虹の下を通った。


アサとバンは、朝になると自分から厨房の裏へ行って、フクの両隣に座った。


跳ぶ前に、必ず僕のほうを見る。


『『いっしょ!』』


『おねがい』


そして、跳ぶ。


着地すると、転げ回る。


『たのしい!』


——3日後、帝国から2通目の手紙が来た。


使者の到着日が、決まった。


宰相オルガ・ベルン。


3月の、半ば過ぎ。


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