#48 虹色のドーム
3月になった。
王宮の屋根の雪が、緩み始めていた。
昼間は、雫が落ちる。軒下に、ぽたぽたと、途切れずに。夜になると、その雫がそのまま凍って、つららになる。朝、また溶ける。
春が近いのだと、ドーラが言った。
「雪が泣き出したら、春は3週間後だよ」
ドーラは天気の話ばかりする。そして、たいてい当たる。
——その日の昼、僕は厨房の裏にいた。
いつもの場所だ。去年の夏、アズキに初めて会った、生ゴミの木箱の陰。
今は木箱の代わりに、洗い場がある。トトと侍女が3人、大きなたらいで、獣舎の餌桶を洗っていた。
僕は、そのそばで、アズキの毛を梳いていた。
冬毛が抜け始めている。櫛を1回通すごとに、赤茶の毛玉が1つ取れる。取っても取っても取れる。アズキは、梳かれている間じゅう、目を細めて尻尾を振っていた。
足元に、フクがいた。
アサとバンも、その隣にいた。
この3羽は、いつも一緒にいる。ロヴィ村で出会った日から、ずっとだ。フクがどこかへ行けば、アサとバンがついていく。フクが寝れば、2羽もその両隣で寝る。
——フクが、地面を叩いた。
ダン。
後ろ肢で。
ダン、ダン。
「フク?」
フクは、怖いだけのときは、もう地面を叩かない。念話で『こわい』と言う。
だから、これは——違う。
フクは、上を見ていた。
耳を伏せて、全身の毛を逆立てて、屋根の上を。
ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——。
止まらない。
『こわい』
『うえ』
『こわい!』
——僕は、顔を上げた。
厨房の屋根。
その軒の上に、雪が、分厚く張り出していた。
昼の陽で緩んだ雪が、屋根の傾きに沿って、ゆっくりずれていた。その縁に、つららが、束になって下がっている。腕くらいの太さのものが、何本も。
ずれている。
今、この瞬間も。
真下に、たらい。
トトと、侍女が3人。
「トト!」
僕が叫んだのと、雪が屋根を離れたのが、同時だった。
——頭の中に、声が落ちてきた。
『『いっしょ!』』
アサとバンだった。
僕に、頼まれるより先に。
『おねがい!』
僕は、叫ぶように返した。
——アサが、跳んだ。
高く。
雪兎の、強靭な後ろ肢が、地面を蹴った。白い体が、真上に跳ね上がった。僕の背丈を越えて、軒の高さまで。
空中で、身を翻した。
その軌跡から——虹が、広がった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
アサが描いた弧に沿って、7つの色が、ドームの形に膨らんだ。
たらいの上に。
トトと、侍女たちの上にも。
——雪の塊が、落ちてきた。
ドームの上に。
ぶつかった。
どさっ、という重い音がして、雪の塊が、ドームの上で、砕けた。
砕けて、虹の丸みに沿って、左右に流れ落ちた。
つららの束が、続いて落ちてきた。
ドームの上で、かしゃかしゃと、ガラスの割れるような音を立てて、弾かれた。
ドームの中には、1欠片も、落ちてこなかった。
半径、3m。
たらいを中心に、トトも、侍女たちも、その中にいた。
——全員、無傷だった。
侍女の1人が、たらいの縁を掴んだまま、腰を抜かしていた。
トトは、頭の上の虹を見上げて、口を開けていた。
「……にじ」
——バンが、一歩、踏み出した。
アサの隣で。
雪兎の、頑強な後ろ肢が、地面を踏んだ。
その足元から、虹色の輪が、広がった。
水面に石を落としたときの、波紋のように。
輪が、ドームの縁にぶつかった。
ドームが、膨らんだ。
2倍に。
半径3mが、6mに。洗い場の端から端まで、厨房の裏口まで、虹の天井が覆った。
《波紋》。
仲間の力を、速く、広く、伝える力。
——アサが、地面に降りてきた。
着地して、そのまま、僕の足元に転がってきた。
転がって、ひっくり返って、また転がって、跳ねて、また転がった。
白い腹を見せて。後ろ肢をばたばたさせて。
そして、頭の中に、声が来た。
『たのしい!』
——僕は、止まった。
たのしい。
今まで、うちの子たちから、1度も聞いたことのない言葉だった。
『たのしい!』
アサが、もう1度言った。
足元で、転げ回りながら。
僕は、しゃがんだ。
アサの白い腹に、手を置いた。
速い。心臓が、指先に跳ね返ってくるくらい、速く打っている。兎の心拍は、もともと人間よりずっと速い。でも、今のは、それよりもっと速かった。
『……たのしかった?』
『たのしい!』
「……そっか」
僕は、笑っていた。
笑いながら、少し泣きそうになっていた。
初めての言葉が、「たのしい」だった。
——トトが、ドームの中から這い出してきた。
「兄ちゃん! 今の! 今の見た!?」
「見た」
「アサが! 跳んで! 虹が! 雪がばーんって!」
「うん」
「すげえ!!」
侍女たちは、まだ腰を抜かしていた。
ドーラが、厨房の裏口から出てきて、虹のドームと、砕けた雪の山と、腰を抜かした侍女と、転げ回る兎を順番に見た。
そして、おたまを落とした。
——その日の午後、兎たちに聞いた。
獣舎の隅で、3羽は、また並んで寝ていた。フクが真ん中。アサとバンが両隣。
『アサ。バン。なんで、フクと、いっしょ?』
アサが、片目を開けた。
『フク、さき』
『さき?』
『こわい、さき』
——ああ、そうか。
危ないことを、いつもいちばん先に知るのが、フクだ。
《胸騒ぎ》。災いが来る前に、分かる。
アサは、フクの隣にいれば、いちばん先に跳べる。
バンは、アサの隣にいれば、いちばん先に広げられる。
この3羽は、仲がいいから一緒にいたのではなかった。
いや、仲もいいのだと思う。
でも、それだけではない。
組むために、くっついていたのだ。
ロヴィ村で、アサとバンがフクについてきたあの日から、ずっと。
——頼みごとを、1つした。
雪解けは、まだ3週間続く。そのあいだ、厨房の屋根からは、毎日雪とつららが落ちてくる。
厨房の裏口から中庭まで、侍女たちは毎日、何十回も往復する。
『アサ。バン。おねがい』
『『いっしょ!』』
『ほそく、ながく』
僕は、頭の中で、形を思い描いた。
丸いドームではなく、細長い、トンネルのような形。
厨房の裏口から、中庭まで。
アサが跳んだ。
バンが踏んだ。
——虹が、伸びた。
細長く。屋根の軒下に沿って。裏口から、中庭の入口まで、30mほど。
虹色の、アーチの屋根ができた。
屋根の上から、ちょうど雪が落ちてきた。アーチの上で砕けて、左右に流れた。
その下を、侍女が1人、恐る恐る歩いてみた。
何も落ちてこなかった。
侍女は、アーチの端まで歩いて、振り返って、それから、手を叩いて笑った。
——その日のうちに、侍女たちはそれを「虹の廊下」と呼び始めた。
厨房の下働きの少年が、用もないのに何往復もした。洗濯係の女の人が、わざわざ遠回りして通りに来た。ドーラが「仕事しな!」と怒鳴って、それから自分も1度、おたまを持ったまま端から端まで歩いた。
歩き終えて、アーチを見上げて、ドーラは言った。
「……春の虹は、いい年の前触れだよ」
天気の話だった。たぶん、当たると思う。
虹の内側から見上げると、屋根の上の空が、7色の薄い膜ごしに透けて見えた。雪の雫が、アーチの上を転がり落ちるたびに、その膜がかすかに震えて、小さな波紋が広がった。
アサとバンは、その下を、何度も跳ねて往復していた。
——雪解けのあいだ、侍女たちは毎日、その虹の下を通った。
アサとバンは、朝になると自分から厨房の裏へ行って、フクの両隣に座った。
跳ぶ前に、必ず僕のほうを見る。
『『いっしょ!』』
『おねがい』
そして、跳ぶ。
着地すると、転げ回る。
『たのしい!』
——3日後、帝国から2通目の手紙が来た。
使者の到着日が、決まった。
宰相オルガ・ベルン。
3月の、半ば過ぎ。




