#46 瞬間移動の行き先は、僕の頭の上
ソラの目は、いつも、どこかを見ている。
前から気になってはいた。
獣舎の梁の上にいるとき。僕の頭の上にいるとき。朝ご飯のパンを、頭の上でもそもそ食べているとき。
大きな黒い目が、僕が見ているのとは違うところを見ている。窓でもない。壁でもない。そのずっと向こうの、どこかを。
幻獣だと分かってから、それが余計に気になった。
《瞬間移動》。
そう、視界の端に浮かんだのだ。
——ある朝、獣舎の柵の上にいたソラに、聞いてみた。
『ソラ。なに、みてる?』
『みえる』
『なにが?』
『あそこ』
——あそこ。
どこだろう。
僕は、肩の上のスズリではなく、柵の上のソラに送った。
『おねがい』
ソラが、首を傾げた。
大きな目が、1度だけ瞬きをした。
『いっしょ!』
——目が、重なった。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
獣舎の中が見えている。柵と、藁と、モチの白い背中。それは僕の目で見ている景色だ。
その上に、別の景色が、薄い絵のように重なっていた。
1枚ではない。何枚も。
獣舎の屋根の上から見下ろした、中庭。
書庫の窓の縁から見た、棚の列。
厨房の煙突の上から見た、王宮の屋根の連なり。
中庭の噴水の縁から見上げた、空。
それが全部、透きとおった絵になって、ゆらゆらと、僕の目の前に浮かんでいる。
「……これ」
ソラが、行ったことのある場所だ。
この子が、今までに降り立ったことのある場所が、全部、絵になって重なっている。
——僕は、思い出した。
ソラは、毎日のように滑空の練習をしていた。
獣舎の屋根の端で助走をつけて、飛び出して、中庭を横切って、どこかに着地する。着地して、また屋根に登って、また飛ぶ。
飛距離を伸ばしたいのだと思っていた。トトもそう思っていた。記録帳にも、そう書いてある。「飛距離を伸ばす特訓中」。
違ったのだ。
あれは、飛ぶ練習ではなかった。
跳ぶ練習だった。
この絵のどれかへ、一瞬で跳ぶための。
まだ1度も、成功していないだけで。
——僕は、しゃがんだまま考えた。
『ソラ。とびたい?』
『とぶ!』
「そうか」
どの絵を選べばいいのだろう。
遠い絵は、たぶん難しい。この子はまだ、1度も跳べていないのだから。
いちばん近い絵がいい。
僕は、重なった絵をひとつずつ見ていった。屋根の上。遠い。書庫の窓。もっと遠い。噴水の縁。
——いちばん近いのは、変な絵だった。
黒くて、もじゃもじゃした、小さな丘。
丘のてっぺんから、下を見下ろしている絵だ。丘の向こうに、藁の積もった床が見えている。
近い。すごく近い。たぶん、10mくらいだ。
『ソラ。あそこ』
僕は、その絵を指さすつもりで、そっと送った。
『いっしょ、いこう』
『いっしょ!』
——ソラの姿が、ふっと消えた。
柵の上から。
音もなく。羽ばたきもなく。滑空の助走もなく。
ただ、そこにいたものが、いなくなった。
「え」
僕は、柵の上を見た。
いない。
藁の中を見た。
いない。
梁の上を見た。
いない。
——頭の上に、何かが乗っていた。
体長18cm。重さは、ほとんど分からない。爪の先が、頭皮にちくりと当たる。
『たかい!』
——僕の頭の上だった。
黒くて、もじゃもじゃした、小さな丘。
僕の頭だった。
「……ソラ」
『たかい!』
この子がいちばんたくさん降り立った場所。
いちばんよく知っている場所。
それは屋根でも、煙突でも、噴水でもなかった。
僕の頭の上だったのだ。
——僕は、笑った。
笑って、しゃがみこんで、それから、少し泣いた。
なぜ泣いたのかは、自分でもよく分からない。
たぶん、嬉しかったのだと思う。
1度も成功しなかった練習が、今、初めて成功したこと。
初めて跳んだ先が、僕の頭の上だったこと。
『たかい!』
「うん。高いね」
『たかい!』
「うん」
頭の上で、ソラが小さく跳ねていた。
跳ねるたびに、爪の先がちくちくする。
僕は、それを1度も「痛い」とは思わなかった。
——トトが、柵の向こうで、口を開けていた。
「……兄ちゃん。今、ソラ、消えた」
「うん」
「消えて、兄ちゃんの頭に、出た」
「うん」
「……しゅんかんいどうだ!」
トトは記録帳を開いて、「飛距離を伸ばす特訓中」の行に、ぐりぐりと線を引いた。
——そのあと、ソラは10回跳んだ。
10回とも、行き先は僕の頭の上だった。
僕が柵から離れて右へ歩いていくと、ソラは柵の上から消えて、僕の頭の上に出る。左へ歩いても、消えて、頭の上に出る。しゃがんでも、消えて、頭の上に出る。
僕がどこにいても、僕の頭の上は、この子の「行ったことのある場所」なのだ。
ただ、柵から10mより遠くへ行くと、ソラは跳ばなかった。柵の上で首を傾げて、それから、普通に走ってきた。
トトが、途中から数えるのをやめて、腹を抱えて笑っていた。
11回目で、ソラは、僕の頭の上で、ぐったりと伸びた。
『……ねむい』
跳ぶのは、疲れるらしい。
僕は、頭の上のソラを両手で下ろして、上着の胸に入れた。温かくて、小さくて、心臓がとくとくと速かった。すぐに、寝息に変わった。
幻獣の力は、僕の体には、ほとんど負担がない。
でも、この子自身は、ちゃんと疲れる。
それを、覚えておこうと思った。
——距離を測った。
跳べるのは、柵から、ちょうど10mまで。
運べるのは、ソラ自身だけ。僕の帽子を持たせて跳ばせてみたら、帽子だけが柵の上に残った。
「10mか」
「10mでもすごいよ!」
「うん。すごい」
——その話は、夕方には騎竜団の詰所まで届いていた。
オズワルドが、獣舎に来た。
大股で。兜を脇に抱えて。
「ユウマ殿。聞いたぞ。消えて、別の場所に現れるそうだな」
「10mだけですけど」
「10mでも、だ」
オズワルドは、真顔だった。
騎竜団長の顔だった。
「伸びるのだろう。そのうち、100mになり、1kmになる。敵の陣の真ん中に、いきなり兵を——いや、兵でなくともいい、火種ひとつでも送り込めれば」
「……」
「その力、戦で使えば——」
「オズワルドさん」
僕は、言った。
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「この子たちの力は、お手伝いに使います」
獣舎の中が、しんとした。
オズワルドが、口を閉じた。
僕は、続けた。
「この子たちは、戦を知りません。知らないまま、ここにいます。スズリはバウを見つけてくれました。ソラは僕の頭に跳んできました。それで、いいんです」
——頭の上で、ソラが、じっとしていた。
オズワルドは、しばらく僕を見ていた。
それから、兜を脇に抱え直した。
「……そうか」
「すみません」
「謝るな」
大きな声だった。いつもの、断定口調だった。
「騎竜団の飛竜も、最初は戦を知らなかった。……それを教えたのは、我々だ」
——扉のところに、王が立っていた。
いつから聞いていたのかは分からない。王は、この頃、よく獣舎に来る。バウを連れて。
王は、僕を見て、ゆっくり頷いた。
「綿貫殿の言うとおりにしよう」
王は言った。
「幻獣の力は、戦には使わぬ。国の、約束事とする」
オズワルドが、背筋を伸ばして「はっ」と答えた。
——その夜。
寝台に横になると、頭の上に、ソラが跳んできた。
梁の上から、ではない。
獣舎の柵の上から、10m。
ふっ、と。
『たかい!』
「……寝るときくらい、枕にいてよ」
『たかい!』
僕の頭は、この子にとって、いちばん高い場所らしい。
寝台の上で、いちばん低いところにあるのに。




