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45/82

#45 頬袋の中は、見えません

帝国から、手紙が来た。


戦が終わってから、最初の親書である。


封蝋が黒い。紙が分厚い。北の国の紙は、寒さに負けないように厚く作るのだと、アーリアが教えてくれた。


議場の卓を、王と大臣たちが囲んでいた。


僕も呼ばれていた。帝国の獣の話が出るかもしれないから、という理由で。


「ニナ殿。読み上げてくれるか」


王が言った。


ニナが、立ち上がった。


16歳。栗色の髪を短く切った、帝国の元獣導士。王国に保護されてから2ヶ月、今は王宮の一室で暮らしている。この国で帝国の文字を読める人間は、ほとんどいない。


足元に、狼のラウが座っていた。


ニナは、帝国の文字を読むとき、人差し指で行をなぞる。癖なのだと思う。なぞる指が、少し震えていた。自分の国から来た手紙を、自分を保護している国の王の前で読み上げる。16歳には、重い仕事だ。


ラウが、ニナの靴に鼻をつけていた。耳を立てて、ニナの顔を見上げていた。


ニナは、手紙を読み上げた。


「『……ヴォルガード帝国は、ヴェリシア王国との和平を望む。ついては、この月のうちに、宰相オルガ・ベルンを使者として遣わしたく——』」


議場が、少しざわついた。


和平の打診だ。


ニナは最後まで読んで、手紙を卓の上に置いた。


——次の瞬間、消えた。


「……え?」


ニナが、卓の上を見た。


僕も見た。


大臣たちも見た。


卓の上には、何もなかった。


「国書が」


「国書が消えた!」


議場が、大騒ぎになった。


大臣が卓の下に潜り、書記官が袖を振り、衛兵が扉を閉めた。王が「落ち着け!」と叫んで、自分がいちばん落ち着いていなかった。


僕は、肩の上のスズリに送った。


『おねがい』


『いっしょ!』


——世界が透けた。


卓の下。椅子の下。大臣の袖の中。書記官の鞄の中。天井の梁の上。議場の外の廊下。王宮じゅう。


ない。


どこにもない。


——いや。


1箇所だけ、見えない場所があった。


梁の上に、白くない、ふわふわした塊がある。


その塊の、頬のところだけが。


《千里眼》で見ても、ただの暗がりにしか見えなかった。


「……クルミ」


梁の上で、魔栗鼠——いや、パフリスが、頬をぱんぱんに膨らませていた。


《異空間収納》。


千里眼でも、その中だけは見えないらしい。


『クルミ。それ、だして』


『いや』


『だいじな、かみ』


『ぼくの』


——ここから、長くなった。


まず、干し果物で釣った。


ドーラから、干し杏を1袋もらってきて、梁の下に置いた。クルミは降りてきて、1袋全部食べた。


食べて、梁の上に戻った。


国書は、出てこなかった。


次に、トトが交渉した。


「クルミ! それは大事な手紙なんだ! 出してくれたら、おれの帽子の羽根、あげる!」


クルミは、トトの頭に飛び乗った。


トトの帽子が、消えた。


「あーっ!」


次に、ニナが試した。


梁の下に立って、帝国の言葉で、何か話しかけた。優しい声だった。たぶん、帝国で獣に話しかけるときの言い方なのだと思う。


クルミは首を傾げて、ニナの肩に飛び降りた。


ニナの髪留めが、消えた。


「……あ」


ニナの短い髪が、ぱらりと額に落ちた。


ラウが、梁の上を見上げて、低く唸った。唸っただけで、何もしなかった。この狼は、ニナに叱られること以外、何も怖くないという顔をしているが、クルミのことは少し怖いらしい。


最後に、王が頼んだ。


梁の下に立って、両手を広げて。一国の王が、栗鼠に。


「クルミよ。それは、国書だぞ」


クルミは、王の顔を、しばらく見ていた。


それから、王の胸元に飛び移った。


王の老眼鏡が、消えた。


「……」


王は、両手を広げたまま、固まっていた。


議場の誰も、何も言わなかった。


——僕は、しゃがんで考えた。


『ぼくの』。


この子は、そう言った。


頬袋の中に入れたものは、この子にとって、全部「ぼくの」なのだ。


そして僕らは、それを「出して」と言い続けている。この子にとっては、「ぼくのを、とる」と言っているのと同じだ。


頼めば頼むほど、取られると思う。


——だから、僕は、頼むのをやめた。


議場の隅に、椅子を1つ持っていった。


座った。


梁の上のクルミに、1度だけ送った。


『おねがい』


それきり、何も送らなかった。


横を向いた。視線は床。膝の上に手を置いて、動かない。


去年の夏、厨房の裏でアズキにしたのと、同じように。


「……綿貫殿?」


「待ちます」


「待つ?」


「どのくらいかかるかは、分かりません」


——大臣たちは、最初、立って見ていた。


10分で、座った。


30分で、何人かが自分の仕事に戻った。


王だけが、ずっと立っていた。老眼鏡がないので、議場の書類が1枚も読めないからだ。


——1時間。


梁の上で、ふわふわした塊が動いた。


柱を伝って、降りてきた。


床を走って、椅子の脚を登って、僕の膝に乗った。


温かい。


クルミは、僕の膝の上で、ぷいと、そっぽを向いた。


窓のほうを。


10秒くらい、そうしていた。


それから——。


小さく息を吸い込むと、ぱんぱんに膨らんだ頬を小さな手でぎゅっと挟む。


次の瞬間、ぽわん、という気の抜けた音とともに、頬袋の中身を、全部、出した。


僕の膝の上に。そして、膝から溢れて、床の上に。


ぼとぼとぼとぼとぼと、と。


止める間もなく、あっという間に「クルミの宝もの」でできた海がひろがった。——そのなかに。


国書。


匙。


匙。匙。匙。匙。匙。


靴下の、片方。


トトの帽子。


ニナの髪留め。


王の老眼鏡。


——と、もう1つ、老眼鏡。


「……余の」


王が、床から2つ目の眼鏡を拾い上げた。


「秋から、なかった、予備の……」


匙を、トトが数えた。


「41本!」


膝の上のクルミが、頬を揉んでいる。


ぱんぱんだった頬が、ぺたんと萎んでいる。


どこに入っていたのだろう。この、手のひらに乗るくらいの体の、どこに。


僕は、へこんだ頬を指でつついてみた。


柔らかかった。中には何も入っていなかった。


議場じゅうの人間が、床に広がった海を見下ろしていた。


僕は、膝の上の国書を拾い上げて、言った。


「この子の頬袋、倉庫より入ってますね」


誰も笑わなかった。


笑っていいのかどうか、分からない顔をしていた。


——国書には、クルミの歯形がついていた。


角のところに、小さな半月形の穴が2つ。


「……読めますか」


「読めます」


ニナが、もう1度読み上げた。今度は、手紙を両手で握りしめたまま。


帝国は、この月のうちに、宰相オルガ・ベルンを使者として送る。和平について、話がしたい。


読み終えて、ニナは、手紙の角の歯形を見た。


それから、少しだけ笑った。


保護されてから、この子が笑うのを、僕は初めて見た。


「……帝国の宰相の手紙に、栗鼠の歯形がついています」


ニナは言った。


「宰相閣下が見たら、きっと、とても怒ります」


「怒りますか」


「はい。とても」


そう言って、また少し笑った。足元で、ラウが尻尾を1度だけ振った。


——議場が、静かになった。


戦をした相手が、話をしに来る。


僕は、370頭のことを考えていた。


あの日、北へ歩いていった子たちは、今どうしているだろう。


——膝の上で、クルミが丸くなって寝ていた。


頬袋は、ぺたんこになっていた。


この子は、まだ、出し入れを気分で決めている。


今日出してくれたのは、たぶん、僕が1時間座っていたからだ。明日も出してくれるかどうかは、分からない。


僕は、クルミの背中を指で撫でた。


ふわふわした毛の奥に、小さな背骨があった。


「……ありがとう」


小さく言った。


念話は、送らなかった。


まだ通じない言葉だと、知っていたからだ。


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