#45 頬袋の中は、見えません
帝国から、手紙が来た。
戦が終わってから、最初の親書である。
封蝋が黒い。紙が分厚い。北の国の紙は、寒さに負けないように厚く作るのだと、アーリアが教えてくれた。
議場の卓を、王と大臣たちが囲んでいた。
僕も呼ばれていた。帝国の獣の話が出るかもしれないから、という理由で。
「ニナ殿。読み上げてくれるか」
王が言った。
ニナが、立ち上がった。
16歳。栗色の髪を短く切った、帝国の元獣導士。王国に保護されてから2ヶ月、今は王宮の一室で暮らしている。この国で帝国の文字を読める人間は、ほとんどいない。
足元に、狼のラウが座っていた。
ニナは、帝国の文字を読むとき、人差し指で行をなぞる。癖なのだと思う。なぞる指が、少し震えていた。自分の国から来た手紙を、自分を保護している国の王の前で読み上げる。16歳には、重い仕事だ。
ラウが、ニナの靴に鼻をつけていた。耳を立てて、ニナの顔を見上げていた。
ニナは、手紙を読み上げた。
「『……ヴォルガード帝国は、ヴェリシア王国との和平を望む。ついては、この月のうちに、宰相オルガ・ベルンを使者として遣わしたく——』」
議場が、少しざわついた。
和平の打診だ。
ニナは最後まで読んで、手紙を卓の上に置いた。
——次の瞬間、消えた。
「……え?」
ニナが、卓の上を見た。
僕も見た。
大臣たちも見た。
卓の上には、何もなかった。
「国書が」
「国書が消えた!」
議場が、大騒ぎになった。
大臣が卓の下に潜り、書記官が袖を振り、衛兵が扉を閉めた。王が「落ち着け!」と叫んで、自分がいちばん落ち着いていなかった。
僕は、肩の上のスズリに送った。
『おねがい』
『いっしょ!』
——世界が透けた。
卓の下。椅子の下。大臣の袖の中。書記官の鞄の中。天井の梁の上。議場の外の廊下。王宮じゅう。
ない。
どこにもない。
——いや。
1箇所だけ、見えない場所があった。
梁の上に、白くない、ふわふわした塊がある。
その塊の、頬のところだけが。
《千里眼》で見ても、ただの暗がりにしか見えなかった。
「……クルミ」
梁の上で、魔栗鼠——いや、パフリスが、頬をぱんぱんに膨らませていた。
《異空間収納》。
千里眼でも、その中だけは見えないらしい。
『クルミ。それ、だして』
『いや』
『だいじな、かみ』
『ぼくの』
——ここから、長くなった。
まず、干し果物で釣った。
ドーラから、干し杏を1袋もらってきて、梁の下に置いた。クルミは降りてきて、1袋全部食べた。
食べて、梁の上に戻った。
国書は、出てこなかった。
次に、トトが交渉した。
「クルミ! それは大事な手紙なんだ! 出してくれたら、おれの帽子の羽根、あげる!」
クルミは、トトの頭に飛び乗った。
トトの帽子が、消えた。
「あーっ!」
次に、ニナが試した。
梁の下に立って、帝国の言葉で、何か話しかけた。優しい声だった。たぶん、帝国で獣に話しかけるときの言い方なのだと思う。
クルミは首を傾げて、ニナの肩に飛び降りた。
ニナの髪留めが、消えた。
「……あ」
ニナの短い髪が、ぱらりと額に落ちた。
ラウが、梁の上を見上げて、低く唸った。唸っただけで、何もしなかった。この狼は、ニナに叱られること以外、何も怖くないという顔をしているが、クルミのことは少し怖いらしい。
最後に、王が頼んだ。
梁の下に立って、両手を広げて。一国の王が、栗鼠に。
「クルミよ。それは、国書だぞ」
クルミは、王の顔を、しばらく見ていた。
それから、王の胸元に飛び移った。
王の老眼鏡が、消えた。
「……」
王は、両手を広げたまま、固まっていた。
議場の誰も、何も言わなかった。
——僕は、しゃがんで考えた。
『ぼくの』。
この子は、そう言った。
頬袋の中に入れたものは、この子にとって、全部「ぼくの」なのだ。
そして僕らは、それを「出して」と言い続けている。この子にとっては、「ぼくのを、とる」と言っているのと同じだ。
頼めば頼むほど、取られると思う。
——だから、僕は、頼むのをやめた。
議場の隅に、椅子を1つ持っていった。
座った。
梁の上のクルミに、1度だけ送った。
『おねがい』
それきり、何も送らなかった。
横を向いた。視線は床。膝の上に手を置いて、動かない。
去年の夏、厨房の裏でアズキにしたのと、同じように。
「……綿貫殿?」
「待ちます」
「待つ?」
「どのくらいかかるかは、分かりません」
——大臣たちは、最初、立って見ていた。
10分で、座った。
30分で、何人かが自分の仕事に戻った。
王だけが、ずっと立っていた。老眼鏡がないので、議場の書類が1枚も読めないからだ。
——1時間。
梁の上で、ふわふわした塊が動いた。
柱を伝って、降りてきた。
床を走って、椅子の脚を登って、僕の膝に乗った。
温かい。
クルミは、僕の膝の上で、ぷいと、そっぽを向いた。
窓のほうを。
10秒くらい、そうしていた。
それから——。
小さく息を吸い込むと、ぱんぱんに膨らんだ頬を小さな手でぎゅっと挟む。
次の瞬間、ぽわん、という気の抜けた音とともに、頬袋の中身を、全部、出した。
僕の膝の上に。そして、膝から溢れて、床の上に。
ぼとぼとぼとぼとぼと、と。
止める間もなく、あっという間に「クルミの宝もの」でできた海がひろがった。——そのなかに。
国書。
匙。
匙。匙。匙。匙。匙。
靴下の、片方。
トトの帽子。
ニナの髪留め。
王の老眼鏡。
——と、もう1つ、老眼鏡。
「……余の」
王が、床から2つ目の眼鏡を拾い上げた。
「秋から、なかった、予備の……」
匙を、トトが数えた。
「41本!」
膝の上のクルミが、頬を揉んでいる。
ぱんぱんだった頬が、ぺたんと萎んでいる。
どこに入っていたのだろう。この、手のひらに乗るくらいの体の、どこに。
僕は、へこんだ頬を指でつついてみた。
柔らかかった。中には何も入っていなかった。
議場じゅうの人間が、床に広がった海を見下ろしていた。
僕は、膝の上の国書を拾い上げて、言った。
「この子の頬袋、倉庫より入ってますね」
誰も笑わなかった。
笑っていいのかどうか、分からない顔をしていた。
——国書には、クルミの歯形がついていた。
角のところに、小さな半月形の穴が2つ。
「……読めますか」
「読めます」
ニナが、もう1度読み上げた。今度は、手紙を両手で握りしめたまま。
帝国は、この月のうちに、宰相オルガ・ベルンを使者として送る。和平について、話がしたい。
読み終えて、ニナは、手紙の角の歯形を見た。
それから、少しだけ笑った。
保護されてから、この子が笑うのを、僕は初めて見た。
「……帝国の宰相の手紙に、栗鼠の歯形がついています」
ニナは言った。
「宰相閣下が見たら、きっと、とても怒ります」
「怒りますか」
「はい。とても」
そう言って、また少し笑った。足元で、ラウが尻尾を1度だけ振った。
——議場が、静かになった。
戦をした相手が、話をしに来る。
僕は、370頭のことを考えていた。
あの日、北へ歩いていった子たちは、今どうしているだろう。
——膝の上で、クルミが丸くなって寝ていた。
頬袋は、ぺたんこになっていた。
この子は、まだ、出し入れを気分で決めている。
今日出してくれたのは、たぶん、僕が1時間座っていたからだ。明日も出してくれるかどうかは、分からない。
僕は、クルミの背中を指で撫でた。
ふわふわした毛の奥に、小さな背骨があった。
「……ありがとう」
小さく言った。
念話は、送らなかった。
まだ通じない言葉だと、知っていたからだ。




