#43 書庫に住んでいたのは、幻獣でした
朝になっても、王は眠っていなかった。
私室の暖炉の前に座り込んで、膝の上にバウを抱いたまま、一晩じゅう動かなかったらしい。
大きな体を丸めて。寝間着の上に外套を引っかけたまま。
バウのほうは、よく寝ていた。モチの背中で温まって、湯で足を洗われて、蜂蜜を溶かした湯を飲んで、それからずっと、王の膝で寝ていた。
「綿貫殿」
僕が様子を見に行くと、王が顔を上げた。目が赤かった。
「こやつは、なぜ出ていったのだ」
「聞いてみます」
僕はしゃがんで、バウの正面に回った。
目が開く。尻尾が、2回、床を打つ。
『バウ。なんで、そと、いった?』
『……かり』
『かり?』
『……まえ』
——狩り。
昔。
僕は、王の顔を見た。
「陛下。あの犬舎、昔、陛下と狩りに行った場所ですか」
王の顔から、表情が抜けた。
「……若いころだ。こやつがまだ2つか3つで、余もまだ腹が出ておらなんだ。毎年、冬の初めに、あの狩り場へ——」
そこで、声が止まった。
——帝国の圧が強まり、国に緊張が走った。バウも耳が聞こえなくなって、足が弱って。ここ数年、ほとんど王の私室のまわりから出なくなって。
それでも、膝の調子がいい夜に、この子は思い出したのだ。
若いころ、王と走った場所を。
吹雪の中を、1人で、そこへ帰ろうとしたのだ。
——王は、泣いた。
大きな体を丸めて、老犬の背中に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
バウは、目を覚まして、王の手を1度だけ舐めて、また寝た。
「……15年だ」
王が、老犬の背中に顔を埋めたまま言った。
「15年、こやつと暮らして、余はこやつに、1度も聞いたことがなかった。どこへ行きたいのか、と。何を覚えておるのか、と」
「聞けないのは、陛下のせいじゃないです」
「分かっておる」
王は顔を上げた。髭が、涙で濡れていた。
「分かっておるが、悔しいのだ」
僕は、そっと部屋を出た。
扉を閉める前に、振り返った。
王は、暖炉の火を見ながら、バウの耳の付け根を、太い指で、ゆっくり揉んでいた。犬がいちばん気持ちいいと感じる場所だ。誰にも教わっていないはずなのに、この人は、そこを知っていた。
——昼には、王宮がひっくり返っていた。
「書庫の白イタチが、幻獣だった」
その一言が、半日で王宮の端から端まで走った。侍女が走り、衛兵が走り、書記官が走り、最後に鑑定士が走ってきた。
痩せた50代の男だった。
北の砦で、ギンを見て気絶した、あの鑑定士である。
「拝見します」
彼は、書庫の卓の上で、スミの夫に水晶の板をかざした。
3秒。
「……白イタチ。第2級、の、ようにも見えますが」
彼は板を見つめたまま、眉を寄せた。
「ぼやけております。輪郭が、定まらない」
「ぼやける?」
「伝承に、あります」
鑑定士は、水晶の板を持つ手を、ゆっくり下ろした。
「幻獣は、似た種族の姿に紛れる。人の鑑定では、ぼんやりとしか映らない。だから、伝承にしか残っていない——」
そこで、彼は言葉を切った。
自分がたった今、何を言ったのかに、気づいた顔だった。
伝承にしか残っていないもの。
それが今、自分の目の前の卓の上で、毛づくろいをしている。
「……では、これが」
彼は、ゆっくり後ろへ倒れた。
椅子ごと。
「鑑定士さん!?」
2度目だった。
——ヴィルマが、1日かけて調べた。
僕とスミの夫を書庫に座らせて、質問を27個した。質問には質問で返す人なので、実際には54回くらいやり取りをした。
「頭痛は」
「ありません」
「鼻血は」
「出てません」
「視野の欠けは」
「ないです。普通です」
「翌朝の熱と、筋肉の痛みは」
「どっちもないです」
「では、何か、いつもと違ったことは」
僕は、少し考えた。
「……お腹が、すごく空いてます」
ヴィルマは、それを覚え書きに書きつけた。一字一字、丁寧に。
「ほかには」
「眠いです」
それも、書きつけた。
「……それだけ、ですか」
「それだけです」
彼女は、羽根ペンを止めて、しばらく覚え書きを見つめていた。
夕方、彼女は結論を出した。
「幻獣は、貸しません」
「貸さない」
「幻獣は自分が主となって、力を使います。そこに、あなたを乗せる。しかも、あなたの望む形で」
彼女は、覚え書きの束をめくった。
「あなたの体に負担が出ないのは、そのためでしょう。あなたが力を担いでいるのではない。担いでいるのは、この子です」
それから、1度だけ目を伏せた。
「第3級は2分、という私の推定は、借りた場合の話でした」
「……はい」
「前提が、違っていました」
——その夜から3晩、ヴィルマは覚え書きを書き直した。
書庫の灯りが、3晩、朝まで消えなかった。
4日目の朝に会ったら、彼女は目の下を黒くして、たいへん悔しそうな顔をしていた。
そして、たいへん楽しそうだった。
——僕は、胸のあたりが熱かった。
『かして』『いいよ』。
この半年ちょっと、僕の力は、ずっとそうやって動いてきた。貸してもらって、返す。借りているあいだ、その子は使えない。だから毎回、少しだけ申し訳ない。
でも、この子とは、違った。
貸し借りじゃない。
いっしょに、だ。
——なぜ助けてくれたのか、聞いてみた。
スミの夫は、書庫の卓の上で、僕の指先に顎をのせていた。
『なんで、たすけて、くれた?』
『すみか』
『あったかい』
『こども、げんき』
——3つ。それだけだった。
秋の終わり、僕は書庫番から羊毛を桶に1杯と、木箱を1つもらった。暖炉の煙道の横に置いた。
スミは3日かけて、5匹の子どもを1匹ずつ咥えて運び込んだ。
この子は、あのとき、箱の奥にいたのだ。
そして、それからずっと——4ヶ月、この書庫から、《千里眼》で僕を見ていた。
獣舎で糞を運ぶ僕を。モチの下敷きになって悲鳴を上げる僕を。ドーラに皿を3枚押しつけられる僕を。リーゼに中庭を40周走らされて、翌日、手すりに掴まって階段をずり降りる僕を。
北へ出ていく僕を。痩せて帰ってくる僕を。
「……見てたのか」
『みてた』
「ずっと?」
『ずっと』
——僕は、少しだけ、恥ずかしくなった。
——書庫番の老人が、おそるおそる近づいてきた。
「あの、テイマー殿」
「はい」
「その、そちらが、なんでも見えるというのなら」
老人は、帽子を両手で握りしめていた。
「3年前になくした、蔵書の台帳が」
「台帳?」
「書庫の本を、全部書きつけた帳面です。3年前、鼠の罠を仕掛けていた頃に、どこかへ——」
僕は、肩の上の子に送った。
『おねがい』
小さな頭が、少し傾いた。
それから、はっきり返ってきた。
『いっしょ!』
——世界が透けた。
棚の中。本の後ろ。床板の下。
10秒だった。
「いちばん奥の、下の段の棚の、裏です。棚と壁の隙間に、それっぽいのが落ちてます」
書庫番が棚をずらした。
埃まみれの帳面が、壁との隙間から出てきた。
3年分の埃が、雪みたいに積もっていた。
「……3年」
書庫番は、帳面を抱いたまま、立ち尽くしていた。
罠を仕掛けたときに、自分で落としたのだろう。
この人が呆然とするのは、秋の羊毛の箱以来、2度目だった。
——名前をつけることになった。
トトが、書庫に駆け込んできて叫んだ。
「兄ちゃん! スミって、兄ちゃんの国で、書き物に使う黒いやつだろ!」
「そうだけど」
「じゃあ旦那さんも、書き物の名前がいい!」
僕は、少し考えた。
墨は、それだけでは字にならない。水と一緒に、石の上で擦らないといけない。
墨と対になる、道具。
「スズリ」
「スズリ?」
「墨を擦る、石の台。墨とスズリで、ひと組なんだ」
「かっこいい!」
トトが記録帳に書きつけた。
肩の上の子——スズリが、僕の頬に鼻をつけた。冷たかった。
——最後に、ヴィルマが言った。
書き直した覚え書きの束を、胸に抱えて。
目の下を黒くしたまま、まっすぐ僕を見て。
「ほかの子も、見ていただけますか。まさかとは思いますが、気になる子たちがいます」




