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#42 いっしょ、つかう

私室の扉が、細く開いていたらしい。


侍従が薪を取りに出た、ほんの少しのあいだに。


「暖炉の前で、寝ておったのだ。膝の調子がよいと、喜んでおったのだ。それが——」


王は、そこで言葉を切った。


僕は、もう念話を送っていた。


『バウ』


返事は、来た。


『……さむい』


『……わら』


『……くらい』


——生きている。


念話は半径3km。届いたということは、3km以内のどこかにいる。


「生きてます」


僕が言うと、王の膝が折れかけた。


「どこだ」


「……分かりません」


——念話には、方角がない。


届いているか、届いていないか。分かるのはそれだけだ。どっちから声が来るのかは、まったく分からない。


だから、いつもは相手に言ってもらう。


アズキなら『ここ、におい』と言える。ヒバリなら『みなみ、ふたつ』と報告できる。


でも、バウは違う。


耳が、聞こえない。


——周りの音を拾えない。


この10年、王の私室とそのまわりの回廊くらいしか歩いていない。窓の外の景色も、この子にとっては名前のないものだ。場所を言い表す言葉を、この子は1つも持っていない。


『バウ、そこ、なに、ある?』


『……わら』


『ほかは?』


『……くらい』


『……さむい』


——そこまでだった。


僕は、アズキの頭に手を置いた。


『はな、かして』


『いいよ!』


《利き鼻》。


世界じゅうの匂いが、いっぺんに頭の中に流れ込んでくる——はずだった。


来たのは、雪の匂いだけだった。


降り積もる雪が、全部を消していた。私室の戸口に残ったバウの匂いは、回廊を出たところで途切れていた。


10分で、返した。


ヒバリは、夜の吹雪では飛べない。


——1時間が、過ぎた。


衛兵が総出で、王宮の中を探した。厩。倉庫。回廊の隅。見つからない。


『バウ』


『……さむい』


声が、少し細くなっている気がした。


僕は、書庫へ走った。


王都の地図を借りるためだ。見て分かるわけではない。僕は文字が読めない。それでも、何か手がかりが欲しかった。


——書庫の3階に、灯りが1つ点いていた。


アーリアだった。


こんな夜更けに、1人で、古文書を読んでいた。


「ユウマさん?」


事情を話すと、彼女はすぐに棚から大きな巻物を下ろして、卓に広げた。


王都の地図だった。


「『わら』のある場所……」


アーリアの指が、地図の上を滑った。


「厩が、王宮に3つ。騎竜団の獣舎。市場の馬屋。宿屋の納屋。農家の小屋。……城壁の内側だけで、何百とあります」


「……何百」


僕は、頭を抱えた。


15歳の、耳の聞こえない犬が、吹雪の夜に、どこかの暗い藁の中で「さむい」と言っている。


僕には、その声が聞こえている。


聞こえているのに、そこへ行けない。


——手の甲に、何かが、ぴとっと触れた。


小さくて、冷たい鼻先だった。


見下ろすと、白くて細長いものが、卓の上にいた。


白イタチだ。


スミ——ではない。スミよりひとまわり大きい。暖炉の煙道の横の、羊毛の箱から、降りてきたらしい。


スミの、夫だ。


秋に子どもたちの引っ越しを見ていたとき、1度だけ見かけた。それきり、箱の奥から出てきたことがなかった。


その子が、僕の手の甲に鼻を触れさせていた。


——後頭部が、じんわり温かくなった。


テイム、成立。


39体目。


『いっしょ、つかう』


——頭の中に、声が落ちてきた。


同時に、視界の端に、文字が浮かんだ。


僕に読める文字で。


《千里眼》


「……え」


いっしょ、つかう。


いっしょに、使う?


『いっしょ?』


僕が返すと、その子は卓から僕の腕を駆け上がって、肩に乗った。


首の横に、細い体がぴたりとくっつく。


——世界が、透けた。


書庫の壁が、薄くなった。


石積みの向こうに、廊下が見えた。その向こうに中庭が見えた。雪の積もった屋根の下で、衛兵が2人、火鉢に手をかざしていた。


「ユウマさん?」


アーリアの声が遠い。


壁の向こう。雪の積もった屋根の下。


眠っている人の温もりが、橙色の灯りみたいに、点々と見える。


「……アーリア様」


「はい」


「見えます」


「え?」


「壁の向こうが、見えます」


僕は、目を閉じなかった。閉じても開けても、同じものが見えていたからだ。


——北東から、と思った。


王宮から見て、北東の区画。まだ衛兵の手が回っていないほうから。


そう思っただけで、見る先が、そっちへ向いた。


僕が向けたのではない。肩の上の子が、向けてくれた。


「アーリア様。北東の区画から、順にお願いします」


「——はい」


彼女は、一瞬で分かってくれた。


地図の上に指を置いて、読み上げる。


「北東、第1区。職人通り」


見る。屋根の下。藁。猫が3匹。犬はいない。


「次」


「第2区。染物の路地」


見る。藁のある小屋が2つ。鶏。——いない。


「次」


1軒ずつ。


1区画ずつ。


アーリアが読み、僕が見る。肩の上の子が、僕の頼む方へ、見る先を向け続けてくれる。


——あとで、アーリアに言われた。


あのときの僕は、瞬きをほとんどしていなかったそうだ。


肩の上の子も、身じろぎひとつしなかったそうだ。


「北東の外れ。城壁の手前。……旧王家の狩り場」


見た。


——いた。


城壁の手前、雪に半分埋もれた、古い犬舎。


10年前に使われなくなったらしい、王家の狩り場の犬舎だ。屋根が傾いて、戸が外れかけている。


その奥の、古い藁の中に。


毛の白く抜けた老犬が、丸くなっていた。


「いました」


僕の声が、裏返った。


——僕は、獣舎のモチに送った。


『モチ。おきて。いっしょ、きて』


獣舎で寝ていたモチが、むくりと起きた。


『……いく……』


僕が書庫を飛び出して獣舎の前まで走ると、モチが、戸を押し開けて出てきたところだった。


吹雪の中へ、白い山が出ていく。


雪は、腰の高さまで積もっていた。人の腰だ。モチにとっては、胸の下くらいだ。


その雪を、モチは400kgの体で押し分けた。


1歩。1歩。


僕が横から『あっち』と送るたびに、モチは向きを変えた。


胸で雪を割り、肩で押しのけて、後ろに1本の道ができていく。


僕とリーゼと王が、その道を走った。王は寝間着のままだった。


——古い犬舎の奥で、バウは震えていた。


僕は、正面に回った。


この子には、後ろから呼んでも聞こえない。


目の前にしゃがんで、手の甲を見せる。


バウが、目を開けた。


尻尾を、2回、藁に打った。


モチが、隣に伏せていた。


僕はバウを抱き上げて、モチの背中の、いちばん毛の深いところに埋めた。熊の背中の毛は、指の長さでは届かないくらい深い。その中は、驚くほど温かい。


『……あったかい』


リーゼが、上から毛布をかけた。


「行くぞ」


帰りも、モチが道を作った。


背中に、老犬を乗せたまま。1歩ずつ、ゆっくり。乗せたものを落とさない歩き方で。


——王の私室に戻ると、アーリアが待っていた。


暖炉に薪を足して、湯を沸かしてあった。


王が、バウを抱いた。


そのとき、塔の鐘が鳴った。


王宮の鐘は、夜でも30分ごとに1つ鳴る。


「5つ目です」


アーリアが言った。


「書庫で、ユウマさんが『見えます』とおっしゃったときに、1つ鳴りました。そこから数えて、これで6つ目です」


——2時間半。


僕は、自分の手を見た。


震えていない。


鼻の下に触れた。血は出ていない。


頭も痛くない。熱もない。


「……なんで、僕、なんともないんだ」


《スキル共有》は、魔獣でも10分が限度だ。2つ重ねれば3分。神獣は20秒。


ヴィルマの推定では、その間にある格は——2分だったはずだ。


2時間半なら、とっくに倒れているはずだ。


肩の上の子が、すりすりと僕の頬に顔を寄せてきた。


『いっしょ、つかった』


——いっしょに、使った。


アズキたちは、スキルを〈貸して〉くれる。


貸しているあいだ、その子自身は使えない。だから僕は毎回、「今この子から、それを取り上げていいのか」を考える。


でも、この子は。


この2時間半、ずっと、自分の目で見ていた。


僕は、その目に、乗せてもらっていただけだ。


——この違いは、なんなんだろう。


そう思って、肩の上の小さな顔を見た。


《千里眼》は、まだ繋がったままだった。


だから——見えてしまった。


視界の端に、文字が浮かんだ。


〈コバートオコジョ(第3級・幻獣)〉


「……幻獣?」


幻獣。


第3級。


伝承に名が残る、稀少種。


「幻獣ってどういうこと!? え、スミの旦那さんが!? じゃあスミは!? いや待って、第3級って、そもそもテイムに数週間かかるって——今、一瞬で——」


「ユウマさん」


アーリアが、静かに言った。


「全部、声に出ていらっしゃいます」


「……すみません」


王が、バウを抱いたまま、口を開けてこっちを見ていた。


——僕は、まず、礼を言うことにした。


『ありがとう』


『……』


沈黙だった。


まだ、知らない言葉なのだ。


『たすかった』


今度は、すぐに返ってきた。


『すみか、たすかった』


——すみか。


秋に、僕が書庫番にもらった、羊毛の箱。


暖炉の煙道の横の、あの温かい場所。


この子は、あのことを、ずっと覚えていたのだ。


僕は、肩の上の小さな背中を、指1本で撫でた。


冬毛の、真っ白な毛。細くて、柔らかくて、指の腹が沈むほど密だった。


「……うん」


僕は、《千里眼》を切った。


壁が、ただの壁に戻った。


窓の外では、吹雪が少し弱くなっていた。


夜明けまで、あと少しだった。


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