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#41 4本脚で、霜の花を咲かせました

包帯を取る日は、朝から王宮じゅうが落ち着かなかった。


ギンの、左の前脚だ。


年の瀬の戦場で、粉々に折れた脚。神獣の自然治癒力の高さとエステルの《癒し》のおかげで、骨はついて、歩けるようになって、走れるようにもなった。ただ、走ると少し引きずった。


「一生このままかもしれません」


エステルは、1月にそう言った。


そして、そう言った本人が、さらにその日から40日間、毎日この脚に《癒し》をかけ続けた。


1日も休まずに。雪の日も、自分が熱っぽい朝も。ヒバリの翼に1時間、ギンの脚に1時間。


最初の10日、ギンは嫌がった。


脚に手を当てられると、鼻に皺を寄せて、低く唸った。痛いのではない。治りかけの骨の奥が、《癒し》の熱でむずむずするのだ。


エステルは、唸られても手を離さなかった。


——6歳のとき番犬に噛まれ、その痕は、今もふくらはぎに残っている。


そんな彼女が、200kgを超えた神獣に鼻の先で唸られて、顔は真っ青なのに、手を離さなかった。


11日目から、ギンは唸らなくなった。


20日目から、エステルが獣舎に入ってくると、自分から左の前脚を差し出すようになった。


30日目には、差し出したまま、寝るようになった。


——その日、中庭には、人が集まっていた。


王。ヴィルマ。オズワルド。ドーラ。トト。リーゼ。アーリア。


獣舎からは、うちの子たちが勝手に出てきて、勝手に並んでいた。アズキが最前列で尻尾を振り、モチが最後列で山になり、ススキは僕の3歩後ろにいた。


エステルが、ギンの前にしゃがんだ。


ギンは、体長2mに届きかけている。伏せていても、しゃがんだエステルより頭が高い。


包帯を解く。


1巻き。2巻き。3巻き。


最後の1巻きが取れて、銀白の毛が、雪の上の光を跳ね返した。


「……終わりました」


エステルが、小さく言った。


——僕は、立ち上がった。


言うことは、朝から決めてあった。


「陛下」


「うむ」


「ギンの脚が完全に治ったのは、エステルさんのおかげです」


中庭が、少し静かになった。


「40日間、1日も休まずに来てくれました。僕は横で撫でていただけです。だから、ちゃんと言っておきたくて」


僕は、エステルのほうを向いて、頭を下げた。


「ありがとうございました」


エステルは、しゃがんだまま、僕を見上げていた。


口を開いて、閉じて、それからもう1度開いた。


「わたくしは……仕事を、しただけで」


「40日間、1日も休まない仕事なんてないです」


「……」


王が、大きく頷いた。


「うむ。余からも礼を言う。聖女殿、かたじけない」


エステルは、ようやく立ち上がって、深く礼をした。顔が赤かった。寒いからだと思う。


——ギンが、立ち上がった。


少しのあいだ、自分の左の前脚を見下ろしていた。持ち上げて、下ろして、また持ち上げた。


それから、1度だけ、僕を見た。


吸い込まれそうな青い目で。


——次の瞬間、ギンは走っていた。


速い。


中庭の端から端まで、瞬きひとつ。石畳の雪が、ギンの後ろで、ぱっと舞い上がる。


そして、ギンが駆け抜けたあとの石畳に——霜の花が咲いた。


1歩ごとに、1輪。


白い、手のひらほどの氷の花となって、点々と続く足跡。


ギンは中庭の噴水を、跳び越えた。


跳び越えた、その下で、噴き上げた形のまま、凍った。


ぱきん、と音がした。


水の柱が、ガラス細工みたいに、空中で止まっていた。


衛兵が2人、霜の花を踏んで、転んだ。


「……ギン、お前」


『ユウマ』


ギンが、中庭の向こうから、こっちを向いた。


『はしる』


『いっしょ!』


——走った。


僕も走った——と言いたかったけど、3歩目で、霜の花を踏んで、転んだ。


仰向けに倒れた僕の上に、ギンが飛び乗ってきた。


「待って、待って待って」


『いっしょ!』


「重い! 重いって!」


ギンは、僕の胸の上で、尻尾を振っていた。


振るたびに、中庭の雪が舞い上がって、僕の顔に降ってきた。冷たい鼻先が、首筋に押しつけられる。ふんふんと、何度も匂いを嗅がれる。


大きくなった。


体は、僕よりずっと大きくなった。


甘え方だけは、2.1kgだったころと、何ひとつ変わっていない。


「分かった、分かったから、どいて」


『いっしょ!』


「いっしょに走ったよね。今、走ったよね」


『いっしょ!』


回廊から、侍女たちが身を乗り出して見ていた。霜の花は、昼を過ぎても溶けなかった。凍った噴水の前では、衛兵が交代で、溶けるまで番をすることになった。誰が指示してくれたのかは知らない。


——ギンの規格外の成長期は、まだ続いている。


その日の午後、トトが量った。


獣舎には、干し草を量るための大きな天秤がある。皿は、馬が1頭乗れるくらい広い。


ただ、錘にする砂袋は、1つ25kgある。ギンと釣り合わせるのに砂袋だけを使うと、9つも皿に積み上げなければならない。トトの細腕では、日が暮れる。


だから、トトは、まずモチを量る。


モチを量るのは、実は、いちばん簡単だ。


騎竜団に、〈量り車〉という荷車がある。鉄の輪をはめた頑丈な荷車に石を積んで、荷台ごと、ちょうど400kgに合わせてある。騎竜の飼い葉の目方を確かめるための、決まった重さの車だ。


モチが、その量り車を、天秤の片方の皿の上まで押していく。押し終えたら、自分は、もう片方の皿に乗る。


天秤が、ぴたりと水平になった。


『……のった……』


「モチ、400kg!」


一発だ。


そして今度は、そのモチを、錘にする。


片方の皿にモチ。もう片方の皿にギン。足りないぶんだけ、砂袋を足す。


砂袋は、7つで釣り合った。175kg。


「400ひく175で、225!」


トトが叫んだ。


体長も、縄で測った。鼻先から尻尾の付け根まで、2.0m。


屋根の上で並んで座った日から、15kg増えていた。


——走り回ったあと、ギンが、左の前脚を舐め始めた。


舐めて、舐めて、止まらない。


僕はしゃがんで、脚を見た。包帯の下にあった毛は、少し短くて、皮膚が薄く、そして赤い。


『ギン、いたい?』


『……かゆい』


——そうか。


治りかけの皮膚は、痒い。人間もそうだ。かさぶたが剥がれるころが、いちばん痒い。


犬や狼は、痒いところを舐め続ける。舐めすぎると、治ったばかりの皮膚が、また傷む。


「エステルさん。痒み止めの湿布って、ありますか」


「薬草のものが、施療院に」


「お願いできますか」


エステルは、今日2度目の「仕事」に取りかかった。


湿布を貼られたギンは、3回くらい鼻を寄せて、それからやめた。


『……かゆい、ない』


「うん。よかった」


——夕方、ヴィルマの計測に同行した。


月に1度、宝物庫の花束を見る。重さと、花びらの数と、色。ヴィルマはそれを毎月、帳面に書きつけている。


宝物庫を開けるには、王族の立ち会いが要る。今月は、王だった。


「バウは、今日膝の調子がよくてな」


扉の鍵を回しながら、王が言った。


「朝から、自分で階段を下りて中庭へ出て、花壇のまわりを2周して、また自分で上がってきたのだ。若いころのようにな」


「よかったです」


「うむ」


3枚の扉をくぐった、いちばん奥。


台の上に、白い花束があった。


トルコキキョウと、名前を知らない小さいのが何種類か。ラッピングのビニールと、花屋のシール。


召喚から、7ヶ月。


——1枚も、枯れていなかった。


僕は、ほっとした。


枯れたら、帰る道が1本、消える。


消えていないことに、僕は、ほっとしている。


ヴィルマは、小さな秤で花束の重さを量り、花びらを1枚ずつ数えた。


214枚。


先月も、214枚だった。その前の月も。


色を、手元の布の見本と並べて見比べる。白は白のまま。茎の切り口さえ、切ったばかりのように青かった。


ヴィルマが、帳面に書きつけた。


「変化なし」


それだけ言って、扉を閉めた。


王が、鍵をかけながら、ぽつりと言った。


「……余は、あれが枯れる日を、恐れておるのか、待っておるのか、分からんようになった」


僕は、答えなかった。


僕も、同じだったからだ。


——ギンには、まだ、あの屋根の上の返事をしていない。


『まつ』と言われて、そのままだ。


——その夜、吹雪になった。


窓が鳴っている。獣舎の戸がきしんでいる。子どもの頃、台風の夜にこういう音を聞いた。


僕は寝台で、アズキとソラとフクに埋もれていた。


アズキは足元で、布団の上から僕の脛を枕にしている。24kgの頭は、脛には重い。ソラは僕の髪の中。フクは脇の下で、心臓の音のするほうに耳を押し当てて、窓が鳴るたびに、ぴくりと震えた。


『こわい』


「うん。風だよ」


『こわい』


「うん。大丈夫」


フクの背中を撫でると、震えが少しずつ小さくなった。


——そういえば、と思った。


このところ、フクは、ダン、ダン、ダンと地面を叩かなくなった。


年が明けたころまでは、1日に平均4回あった誤報だ。猫が横切っても、風で扉が鳴っても、トトがくしゃみをしても、後ろ肢で地面を叩いていた。


それが、いつのまにか、念話に変わっていた。


『こわい』


こわがりなのは、何も変わっていない。ただ、怖いと思ったら、まず僕に言うようになった。言って、撫でてもらえば、それで済むことがある。この冬のあいだに、それを覚えたのだ。


だから今、この子が後ろ肢で地面を叩くときは——本当に、何かが来るときだけだ。


モチは今夜、獣舎にいる。ギンは寝台の横の床で、湿布を貼った脚を投げ出して寝ていた。


——扉が、叩かれた。


強く。3回。


開けると、王が立っていた。


寝間着の上に外套を1枚、引っかけただけの格好で。肩に雪が積もっていた。


王は、ここまで走ってきたらしい。息が白く、荒かった。


「綿貫殿」


「陛下?」


「バウが」


王の声が、震えていた。


「バウが、おらぬ」


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