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40/83

#40 翼がなおりました

2月の終わりの朝は、まだ暗いうちに始まる。


始めるのは、僕ではない。アズキだ。


寝台の横で、24kgの犬が尻尾を振っている。振るたびに寝台の脚に当たって、ドン、ドン、ドンと鳴る。目覚まし時計より正確で、目覚まし時計よりしつこい。


『ごはん!』


「まだ暗いよ」


『ごはん!』


「散歩が先」


『さんぽ! ごはん!』


——どっちでもいいらしい。


起き上がろうとして、起き上がれなかった。


右半身が、白い毛に埋まっている。


モチだ。夜のうちに寝台の横まで来て、寝返りを打って、半分乗り上げている。400kgのうち、100kgくらいが僕の右横に乗っている。寝台がみしみし言う。脚は先月、太いものに替えたばかりだ。


「モチ、どいて」


『……ねて……る……』


「知ってる。どいて」


『……ねて……る……』


——ちなみに、僕の部屋の扉は、幅が1.2mしかない。モチの肩幅は、1.4mある。


それでもモチは、毎晩、扉を壊さずに入ってくる。


熊には、鎖骨がない。肩の骨が、胴にがっちり留められていないのだ。だから、肩を片方ずつ前後にずらせば、肩幅より狭いところでも通り抜けられる。猫が、頭さえ通ればどんな隙間にも入っていけるのと、同じ理屈だ。


——理屈は、そうだ。


実際のモチは、こうだ。


扉の前で、止まる。頭を入れる。右の肩を入れる。左の肩を、むぎゅっと入れる。お腹を、ずりずりと入れる。


そして、お尻で、止まる。


『……はさ……まった……』


腰の骨は、ずらせないのだ。


ここから、お尻を、ぷりぷりと左右に振る。10回くらい振る。


——ぽんっ。


抜ける。


1回通るのに、だいたい3分。蜂蜜をもらった日は、5分。それでも抜けない夜は、トトが廊下から、白いお尻を両手で押す。


「モチー! 息、吐いてー!」


ヴァルデン砦で扉の枠を壊したのは、あのとき、廊下を走ってきたからだ。急いでいると、モチは、肩をずらすのを忘れる。


——僕のモチの下からの脱出の手順も、この冬のうちに確立した。


息を吐いて、体を薄くする。左へ転がる。床に落ちる。


落ちた。


——落ちると、頭の上に、何かが降ってくる。


ソラだ。梁の上で、僕が起きるのを待っていたらしい。体長18cmが、音もなく髪に着地する。重さは、ほとんど分からない。爪の先が頭皮にちくりと当たって、それで「来たな」と分かる。


『たかい!』


「床だよ。いちばん低いよ」


『たかい!』


この子にとっては、僕の頭の上が、いつだって「たかい」らしい。


枕の下から、匙が3本出てきた。クルミだ。本人は梁の上で、何も知らない顔で尻尾を膨らませていた。


——外は、雪がまだ残っている。


アズキが全速力で走り、僕が「待て」と言い続け、アズキは待たない。


3歩後ろを、ススキがついてくる。


この距離は、この冬も変わらなかった。


——戦が終わって、8週間になる。


38体ぶんの朝作業を、僕は毎日やっている。糞の桶は11杯。凍っているので軽い。それだけが救いだ。


エステルは、「2ヶ月ほどで戻ります」と言って教会へ発って、5日で戻ってきた。


「叱られるのは、半日で済みました」


それからは毎日、昼前に獣舎へ来る。ヒバリの翼に1時間。ギンの脚に1時間。


1日も休んでいない。


騎竜団のほうは、先に片がついた。1月の戦で飛べなくなっていた3騎は、エステルの《癒し》で、1月のうちに3騎とも空へ戻っている。


12騎のうち、残るのはヒバリだけだった。


——そのヒバリの右の翼が、今日、治りきった。


「塞がりました」


エステルが言った。


裂けていた翼膜の、最後の指1本ぶんの隙間が、彼女の手のひらの下で寄って、閉じた。


縫い目のような線が、うっすら残っている。触ると、そこだけ少し厚い。


ヒバリが、首を上げた。


そして、ゆっくり、翼を広げた。


右と、左。


13m。


獣舎の前の雪が、風で舞い上がった。トトが帽子を飛ばされて、「あーっ!」と叫んだ。


『ひと』


「うん」


『とぶ』


「うん。飛んでいいよ」


——リーゼが鞍を着けた。


腹帯の位置は、制式より8cm後ろ。当て革が1枚。去年の夏、僕が騎竜団の詰所に飛び込んで、みんなで調整した位置だ。


「……行くぞ」


リーゼが言った。


ヒバリは、自分から鞍に頭を差し出した。


——助走は3歩だった。


灰色の体が地面を蹴って、風が一度だけ僕の顔を叩いて、それから、ヒバリは空にいた。


王宮の上を、1周。


2周。


3周。


中庭で、オズワルドが、大声で何か叫んでいた。何を叫んでいたのかは、声が大きすぎて分からなかった。


——降りてきたとき、ヒバリは北を見ていた。


王都の向こう。ずっと遠くの、白い山の連なりのほうを。


『きた』


『おおきいの、いない』


「おおきいの?」


『いない』


——オーガスのことだ、と思った。


去年の冬、ヒバリは北の山の中腹まで僕を運んでいる。あの山の上にいた大きな影を、この子は「おおきいの」と呼ぶ。


「留守なのかな」


僕はそう言って、ヒバリの首を撫でた。


竜にも用事くらいあるだろう。そのとき思ったのは、それだけだった。


——エステルが、口を開いたのは、そのあとだった。


「ユウマ様」


「はい」


「脇腹の古傷も、治してみたいのです」


僕は、ヒバリの右の脇腹を見た。


毛のない、引き攣れた皮膚。2年と少し前の落雷で焼けた痕。腹帯が食い込んでいた場所だ。


痛みは、もうない。腹帯の位置を変えてから、ヒバリは1度も「いたい」と言っていない。


「古傷は、《癒し》では戻らないって、前に」


「はい。体が、その形を『元』だと覚えてしまうので」


エステルは、胸元から紙を1枚出した。教会の写本を、自分で書き写したものらしい。


「ですが、ここに1行だけ、ありました」


彼女は、それを読み上げた。


「『古傷は、本人が触れられることを許したときにだけ、元へ戻る』」


——許したときにだけ。


僕は、ヒバリの前にしゃがんだ。


『ここ』


脇腹に、手を近づける。触れない。触れる手前で止める。


『ここ、さわる、いや?』


返事は、すぐだった。


『いや』


『いたかった』


——僕は、手を止めたまま、考えた。


痛くはない。もう痛くないのは、この子も知っている。


でも、「いたかった」と言った。


痛かったことを、覚えているのだ。


2年間、毎日、鞍を着けるたびに痛かった。そこに誰かの手が近づくと、体のほうが先に、あの2年を思い出してしまう。


「エステルさん。少し、時間をください」


「はい」


「どのくらいかかるかは、分かりません」


——僕は、ヒバリの脇腹に、そっと手を置いた。


ヒバリの皮膚が、びくりと震えた。


置いたまま、動かさなかった。


飛竜の体温は、人より少し高い。焼けた痕のところだけ、ほかより少し冷たい。血の巡りが薄いのだ。


10分。


20分。


ヒバリの呼吸が、8秒に1回に戻った。


1時間。


僕は、手を置いたまま言った。


「エステルさん。僕の手の上に、手を重ねてください」


エステルが、隣にしゃがんだ。


少しだけ、ためらって、それから、僕の手の甲に、手のひらを重ねた。


冷たい手だった。緊張していると、人の手は冷える。


僕は、ヒバリに送った。


『いたく、ない』


『さわって、いい?』


——長い間があった。


それから、ヒバリが、長く、長く息を吐いた。


鼻から出た息が、雪の上に2本の筋を作った。


『……いい』


僕は、自分の手を、ゆっくり下から抜いた。


エステルの手のひらが、焼けた痕の上に、そのまま残った。


彼女の手が、白く光り始めた。


——3時間かかった。


そのあいだ、エステルは1度も手を離さなかった。


710kgの飛竜の脇腹に、3時間。


僕は横で、ヒバリの首を撫で続けていた。トトが湯を運んできて、ドーラが「昼抜きかい」と言いながら、パンを口に突っ込んできた。


日が傾いたころ、エステルが手を離した。


——そこには、灰色の皮膚があった。


なめらかな、ほかと同じ灰色の。


引き攣れなんて、どこにもなかった。


僕は、手のひらでそこを撫でた。


温かかった。ほかの場所と、同じ温度だった。


『ひと』


「うん」


『いたい、ない』


『ぜんぶ』


——中庭で、オズワルドが泣いた。


大声で。


40代の、騎竜団長が。「よかった、よかったなあ、12番」と言いながら、ヒバリの首に抱きついて、おいおい泣いた。


リーゼは、背中を向けていた。


「リーゼさん」


「……目にゴミが入った」


「雪ですか」


「ゴミだ」


僕は、それ以上聞かなかった。


——エステルは、雪の上に座り込んでいた。


僕は、言おうとした。


動物が苦手だったのに、700kgを超える飛竜に3時間も手を当て続けるなんて、すごいことですよ——と。


エステルの顔を見て、やめた。


言わなくても、この人がいちばん知っている。


僕は代わりに、別のことを考えていた。


『かして』と頼んで、『いいよ』と返ってくるまで、僕の力は動かない。


エステルの《癒し》も、たぶん、同じなのだ。


——ヒバリが、首を下げて、エステルの肩に鼻先をつけた。


エステルは、小さく息をのんで、それから、笑った。


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