#40 翼がなおりました
2月の終わりの朝は、まだ暗いうちに始まる。
始めるのは、僕ではない。アズキだ。
寝台の横で、24kgの犬が尻尾を振っている。振るたびに寝台の脚に当たって、ドン、ドン、ドンと鳴る。目覚まし時計より正確で、目覚まし時計よりしつこい。
『ごはん!』
「まだ暗いよ」
『ごはん!』
「散歩が先」
『さんぽ! ごはん!』
——どっちでもいいらしい。
起き上がろうとして、起き上がれなかった。
右半身が、白い毛に埋まっている。
モチだ。夜のうちに寝台の横まで来て、寝返りを打って、半分乗り上げている。400kgのうち、100kgくらいが僕の右横に乗っている。寝台がみしみし言う。脚は先月、太いものに替えたばかりだ。
「モチ、どいて」
『……ねて……る……』
「知ってる。どいて」
『……ねて……る……』
——ちなみに、僕の部屋の扉は、幅が1.2mしかない。モチの肩幅は、1.4mある。
それでもモチは、毎晩、扉を壊さずに入ってくる。
熊には、鎖骨がない。肩の骨が、胴にがっちり留められていないのだ。だから、肩を片方ずつ前後にずらせば、肩幅より狭いところでも通り抜けられる。猫が、頭さえ通ればどんな隙間にも入っていけるのと、同じ理屈だ。
——理屈は、そうだ。
実際のモチは、こうだ。
扉の前で、止まる。頭を入れる。右の肩を入れる。左の肩を、むぎゅっと入れる。お腹を、ずりずりと入れる。
そして、お尻で、止まる。
『……はさ……まった……』
腰の骨は、ずらせないのだ。
ここから、お尻を、ぷりぷりと左右に振る。10回くらい振る。
——ぽんっ。
抜ける。
1回通るのに、だいたい3分。蜂蜜をもらった日は、5分。それでも抜けない夜は、トトが廊下から、白いお尻を両手で押す。
「モチー! 息、吐いてー!」
ヴァルデン砦で扉の枠を壊したのは、あのとき、廊下を走ってきたからだ。急いでいると、モチは、肩をずらすのを忘れる。
——僕のモチの下からの脱出の手順も、この冬のうちに確立した。
息を吐いて、体を薄くする。左へ転がる。床に落ちる。
落ちた。
——落ちると、頭の上に、何かが降ってくる。
ソラだ。梁の上で、僕が起きるのを待っていたらしい。体長18cmが、音もなく髪に着地する。重さは、ほとんど分からない。爪の先が頭皮にちくりと当たって、それで「来たな」と分かる。
『たかい!』
「床だよ。いちばん低いよ」
『たかい!』
この子にとっては、僕の頭の上が、いつだって「たかい」らしい。
枕の下から、匙が3本出てきた。クルミだ。本人は梁の上で、何も知らない顔で尻尾を膨らませていた。
——外は、雪がまだ残っている。
アズキが全速力で走り、僕が「待て」と言い続け、アズキは待たない。
3歩後ろを、ススキがついてくる。
この距離は、この冬も変わらなかった。
——戦が終わって、8週間になる。
38体ぶんの朝作業を、僕は毎日やっている。糞の桶は11杯。凍っているので軽い。それだけが救いだ。
エステルは、「2ヶ月ほどで戻ります」と言って教会へ発って、5日で戻ってきた。
「叱られるのは、半日で済みました」
それからは毎日、昼前に獣舎へ来る。ヒバリの翼に1時間。ギンの脚に1時間。
1日も休んでいない。
騎竜団のほうは、先に片がついた。1月の戦で飛べなくなっていた3騎は、エステルの《癒し》で、1月のうちに3騎とも空へ戻っている。
12騎のうち、残るのはヒバリだけだった。
——そのヒバリの右の翼が、今日、治りきった。
「塞がりました」
エステルが言った。
裂けていた翼膜の、最後の指1本ぶんの隙間が、彼女の手のひらの下で寄って、閉じた。
縫い目のような線が、うっすら残っている。触ると、そこだけ少し厚い。
ヒバリが、首を上げた。
そして、ゆっくり、翼を広げた。
右と、左。
13m。
獣舎の前の雪が、風で舞い上がった。トトが帽子を飛ばされて、「あーっ!」と叫んだ。
『ひと』
「うん」
『とぶ』
「うん。飛んでいいよ」
——リーゼが鞍を着けた。
腹帯の位置は、制式より8cm後ろ。当て革が1枚。去年の夏、僕が騎竜団の詰所に飛び込んで、みんなで調整した位置だ。
「……行くぞ」
リーゼが言った。
ヒバリは、自分から鞍に頭を差し出した。
——助走は3歩だった。
灰色の体が地面を蹴って、風が一度だけ僕の顔を叩いて、それから、ヒバリは空にいた。
王宮の上を、1周。
2周。
3周。
中庭で、オズワルドが、大声で何か叫んでいた。何を叫んでいたのかは、声が大きすぎて分からなかった。
——降りてきたとき、ヒバリは北を見ていた。
王都の向こう。ずっと遠くの、白い山の連なりのほうを。
『きた』
『おおきいの、いない』
「おおきいの?」
『いない』
——オーガスのことだ、と思った。
去年の冬、ヒバリは北の山の中腹まで僕を運んでいる。あの山の上にいた大きな影を、この子は「おおきいの」と呼ぶ。
「留守なのかな」
僕はそう言って、ヒバリの首を撫でた。
竜にも用事くらいあるだろう。そのとき思ったのは、それだけだった。
——エステルが、口を開いたのは、そのあとだった。
「ユウマ様」
「はい」
「脇腹の古傷も、治してみたいのです」
僕は、ヒバリの右の脇腹を見た。
毛のない、引き攣れた皮膚。2年と少し前の落雷で焼けた痕。腹帯が食い込んでいた場所だ。
痛みは、もうない。腹帯の位置を変えてから、ヒバリは1度も「いたい」と言っていない。
「古傷は、《癒し》では戻らないって、前に」
「はい。体が、その形を『元』だと覚えてしまうので」
エステルは、胸元から紙を1枚出した。教会の写本を、自分で書き写したものらしい。
「ですが、ここに1行だけ、ありました」
彼女は、それを読み上げた。
「『古傷は、本人が触れられることを許したときにだけ、元へ戻る』」
——許したときにだけ。
僕は、ヒバリの前にしゃがんだ。
『ここ』
脇腹に、手を近づける。触れない。触れる手前で止める。
『ここ、さわる、いや?』
返事は、すぐだった。
『いや』
『いたかった』
——僕は、手を止めたまま、考えた。
痛くはない。もう痛くないのは、この子も知っている。
でも、「いたかった」と言った。
痛かったことを、覚えているのだ。
2年間、毎日、鞍を着けるたびに痛かった。そこに誰かの手が近づくと、体のほうが先に、あの2年を思い出してしまう。
「エステルさん。少し、時間をください」
「はい」
「どのくらいかかるかは、分かりません」
——僕は、ヒバリの脇腹に、そっと手を置いた。
ヒバリの皮膚が、びくりと震えた。
置いたまま、動かさなかった。
飛竜の体温は、人より少し高い。焼けた痕のところだけ、ほかより少し冷たい。血の巡りが薄いのだ。
10分。
20分。
ヒバリの呼吸が、8秒に1回に戻った。
1時間。
僕は、手を置いたまま言った。
「エステルさん。僕の手の上に、手を重ねてください」
エステルが、隣にしゃがんだ。
少しだけ、ためらって、それから、僕の手の甲に、手のひらを重ねた。
冷たい手だった。緊張していると、人の手は冷える。
僕は、ヒバリに送った。
『いたく、ない』
『さわって、いい?』
——長い間があった。
それから、ヒバリが、長く、長く息を吐いた。
鼻から出た息が、雪の上に2本の筋を作った。
『……いい』
僕は、自分の手を、ゆっくり下から抜いた。
エステルの手のひらが、焼けた痕の上に、そのまま残った。
彼女の手が、白く光り始めた。
——3時間かかった。
そのあいだ、エステルは1度も手を離さなかった。
710kgの飛竜の脇腹に、3時間。
僕は横で、ヒバリの首を撫で続けていた。トトが湯を運んできて、ドーラが「昼抜きかい」と言いながら、パンを口に突っ込んできた。
日が傾いたころ、エステルが手を離した。
——そこには、灰色の皮膚があった。
なめらかな、ほかと同じ灰色の。
引き攣れなんて、どこにもなかった。
僕は、手のひらでそこを撫でた。
温かかった。ほかの場所と、同じ温度だった。
『ひと』
「うん」
『いたい、ない』
『ぜんぶ』
——中庭で、オズワルドが泣いた。
大声で。
40代の、騎竜団長が。「よかった、よかったなあ、12番」と言いながら、ヒバリの首に抱きついて、おいおい泣いた。
リーゼは、背中を向けていた。
「リーゼさん」
「……目にゴミが入った」
「雪ですか」
「ゴミだ」
僕は、それ以上聞かなかった。
——エステルは、雪の上に座り込んでいた。
僕は、言おうとした。
動物が苦手だったのに、700kgを超える飛竜に3時間も手を当て続けるなんて、すごいことですよ——と。
エステルの顔を見て、やめた。
言わなくても、この人がいちばん知っている。
僕は代わりに、別のことを考えていた。
『かして』と頼んで、『いいよ』と返ってくるまで、僕の力は動かない。
エステルの《癒し》も、たぶん、同じなのだ。
——ヒバリが、首を下げて、エステルの肩に鼻先をつけた。
エステルは、小さく息をのんで、それから、笑った。




