#38 いっしょ、いく?
王都に戻って、3日が過ぎた。
僕は、答えを出せていない。
——だから、この3日のことを話す。
なんでもない日のことを。
——朝は、獣舎の掃除から始まる。
38体である。
糞の量は、桶で11杯。これはトトと2人でも1時間かかる。堆肥にするので庭師が喜ぶが、運ぶのは僕らだ。冬なので凍る。凍ると軽い。それだけが救いだ。
「兄ちゃん、氷牙狼のとこ、まだ終わってない!」
「今行く」
「あと、ボロがまた戸を開けた!」
ロヴィ村から来た11歳の犬は、掛け金の外し方を覚えた。アズキが教えたと僕は睨んでいる。
——アズキの散歩。
これは、毎日やる。
やらないと、この子は僕の靴を齧る。
王宮の一区画を、一周。30分。雪が積もった道を、この子は全速力で走って、僕は後ろから「待て」と言い続ける。待たない。
途中、ススキがついてくる。
3歩後ろ。
半年間、この距離が変わらない。あの4日目の朝に1度だけ真横に来て、それきり、また3歩に戻った。
——モチの爪切り。
これは、命がけである。
熊の爪は、前肢に5本、後肢に5本。長さは1本7cmある。放っておくと、肉球に食い込む。
やり方は、こうだ。
まず蜂蜜を舐めさせる。次に僕が腹の下に潜り込む。400kgの腹の下である。そこから前肢を引っ張り出して、鋸で削る。
削っているあいだ、モチは寝ている。
寝ているのはいいのだが、時々、寝返りを打とうとする。
「待って」
『……ねる……』
「待って、今、僕、下にいるから」
『……ねる……』
「死ぬ! 死ぬから!」
3日目に、2回死にかけた。
——朝食。
食堂で、ドーラの飯を食う。
ソラが頭に乗っている。この子は僕が座ると頭に来る。食事中も来る。パンをちぎって上に差し出すと、頭の上でもそもそと食べる。
パン屑が、僕の髪に落ちる。
侍女がそれを見て、毎回、微妙な顔をする。
——クルミが盗んだ匙の回収。
3日で、匙が7本消えた。
梁の上の巣を確認したら、匙が7本と、櫛が1つと、王宮の鍵が1本あった。鍵はまずいので、そっと返しておいた。
——ヒバリの手当て。
右の翼膜は、まだ塞がっていない。
裂けた膜は、皮膚のように塞がらない。少しずつ、縁から寄っていく。エステルが毎日《癒し》をかけて、それで2ヶ月かかると言われている。
この子は、今は飛べない。
飛べないので、地上を歩いてついてくる。
翼開長13mの飛竜が、僕の後ろを、のしのし歩いてくる。回廊は通れない。中庭を回り込む。すると先回りできるので、僕が回廊を出たところで待っている。
『ひと』
『まってた』
「うん。おはよう」
『あるく』
「歩こう」
——フクの誤報。
1日に、平均して4回ある。
猫が横切った。ダン、ダン、ダン。
風で扉が鳴った。ダン、ダン、ダン。
トトがくしゃみをした。ダン、ダン、ダン、ダン、ダン。
そのたびに、氷牙狼が5頭立ち上がって、アズキが吠えて、モチが顔を上げて、ススキが僕の前に出る。
そして、何も起きない。
「フク」
『こわい』
「うん。ありがとう」
『こわい』
「うん。もう大丈夫、ありがとう」
——この子の警報が、86人を救った。
だから僕は、4回とも、必ず礼を言う。
——獣舎の修理。
モチが壊した戸を、トトと2人で直した。
僕は日曜大工の経験がない。トトもない。2人で3時間かけて、曲がった戸を作った。
「兄ちゃん、これ、閉まらないよ」
「うん」
「隙間から風入るよ」
「うん」
「作り直す?」
「明日な」
『……』
——アズキが、厨房のほうを見た。
「あ、ごめん。明日、必ずやる」
『やくそく』
「約束する」
——ドーラの説教。
「坊主、あんた、また痩せたね」
「食べてます」
「食べてない顔だよ」
「食べてます」
「うちの子らの飯ばっかり見て、自分のは忘れてるだろう」
「……」
「ほら、皿。3枚」
3枚は多い。
——リーゼの訓練。
「体が鈍ってる」
彼女は、僕にそう言った。
「3日寝てただけです」
「4日だ。それに、その前にも倒れてた」
結果、僕は中庭を40周走らされた。
翌日、全身が筋肉痛になった。階段が降りられなくなって、手すりに掴まってずり降りていたら、上から見ていたリーゼに笑われた。
あの人は、あれから1度も、あの日のことに触れていない。
僕も触れていない。
たぶん、それでいいのだと思う。
——エステルとの立ち話。
回廊で会うと、5分くらい喋る。
内容は、たいてい、ヒバリの翼のことか、ギンの脚のことか、あるいはドーラの飯が多すぎることだ。
3日目に、彼女はこう言った。
「わたくし、教会に戻ります」
「え」
「叱られに行ってまいります。2ヶ月ほどで戻ります」
「戻ってくるんですか」
「モチ様の爪を、あなた1人で切っていたら、いつか潰されますので」
「……よろしくお願いします」
彼女は笑って、それから、「ユウマ様」と言った。
「はい」
「あなたは、まだ、ある方に想いを伝えられていないのでしょう」
「……はい」
「では、いつか伝わるとよろしいですね」
僕は、なんと答えるべきか分からなかった。
だから「はい」と言った。
——そして、ギン。
体長、1.9m。
体重、210kg。
僕より、大きい。
拾ったときは、体長20cm、体重2.1kgだった。上着の内ポケットに入った。
——左の前脚は、まだ完全には治っていない。
骨はついた。歩ける。走れる。
だが、走ると、少し引きずる。
エステルは「一生このままかもしれません」と言った。
僕は「そうですか」と言った。
それ以上、言わなかった。
——甘え方は、今も変わっていない。
僕が座ると、乗ろうとする。
210kgが。
「乗るな」
『のる』
「乗るなって!」
『のる』
——乗られた。
肋骨が2本、いった気がした。
——3日目の夕方。
僕は、獣舎の屋根に登った。
理由はない。夕日が見たかった。
王宮の獣舎は、東の外れにある。屋根に登ると、王都の街並みの向こうに、平野が見える。冬の空は、赤くなるのが早い。
——隣に、ギンが座った。
「お前、どうやって登った」
『……』
「210kgだぞ」
『……のぼった』
——屋根の板が、みしりと鳴った。
僕らは、並んで座っていた。
赤い空を見ていた。
風が冷たかった。
——ギンが、口を開いた。
いや、口は開けていない。念話に、口は要らない。
『ユウマ』
「うん」
『かえる?』
——僕は、そこで、動けなくなった。
——この子は、聞いていた。
砦の部屋で、ヴィルマが「帰還術式が組み上がりました」と言った夜。
床に伏せていたこの子は、顔を上げていた。
『とおく』
「……うん」
『ぜんぶ、いけない』
——僕は、膝の上で、拳を握った。
「全部、行けない」というのは、そういう意味だ。
38体、誰も連れて行けない。
契約を、全部、破棄する。
念話が消える。
『ギン……いっしょ、いく?』
——5つ、続けて寄越した。
この半年で、うちの子たちが1度に喋った、いちばん長い言葉だった。それまで、誰も、3つより多くを続けたことがなかった。
——僕は、答えられなかった。
喉の奥が、詰まった。
何か言おうとして、息だけが出た。
赤い空が、滲んだ。
「……ごめん」
やっと出たのは、それだけだった。
「ちょっと、考えさせて」
——ギンは、鼻先を、僕の膝に置いた。
重い。
210kgの頭は、犬の頭とは比べものにならない。膝が沈む。
そして、言った。
『まつ』
——約束という語も。
——待つという語も。
この子は、もう知っている。
——夕日が、平野の向こうに落ちていった。
僕は、思い出していた。
母の顔。
妹の顔。
——それから、灯のことを考えた。
去年の冬だ。
正月明けの、なんでもない放課後だった。
僕と灯は、教室に残って、日直の日誌を書いていた。書くのは灯で、僕は隣に座っているだけだった。
窓の外が、赤かった。
灯が、ペンを止めて、言った。
「今日、なんもなかったね」
「うん」
「授業出て、ご飯食べて、掃除して、それだけ」
「うん」
「こういう日がさ」
あいつは、日誌を見たまま言った。
「あとで思い返すと、いちばん良かったりするんだよね」
僕は「そうかな」と言った。
あいつは「そうだよ」と言った。
「だから、『うん、わかった』って言っといて」
「なんで僕が」
「言っといて」
「……うん、わかった」
あいつは笑った。
——僕は、屋根の上から、獣舎の方を見た。
アズキが、中庭で自分の尻尾を追いかけていた。
モチが、日の当たる壁際で山になっていた。
ススキが、獣舎の入口に座って、こっちを見ていた。3歩の距離を、下から測っている。
ソラが、屋根の端で滑空の助走をしていた。
フクが、何もないところで地面を叩いていた。
氷牙狼が5頭、雪の上に転がっていた。
トトが、桶を持って走っていた。
——寝息の間隔を、僕は全部覚えている。
犬は2秒。狼は3秒。兎は0.5秒。熊は10秒。飛竜は8秒。神獣は4秒。
38体ぶんの呼吸が、1度も揃わないまま、毎晩、獣舎の中で鳴っている。
——僕は、こう思った。
「このまま、ここで、この子たちと暮らすのも、悪くないな」
——そう思った自分に、僕は、いちばん驚いた。
半年前、僕は帰りたかった。
3ヶ月前も、帰りたかった。
1ヶ月前も、帰りたかった。
——今も、帰りたい。
帰りたいのに、そう思った。
僕は、膝の上の白い頭に、手を置いた。
毛の中に、指が沈む。手首まで入る。
2.1kgだったころと、そこも変わっていない。
——屋根を降りたのは、日が完全に落ちる少し前だった。
僕は、東の回廊を歩いていた。
38体のうち、7体がついてきていた。アズキ、ススキ、ソラ、フク、クルミ、それにボロと、ギン。
回廊の右手に、中庭がある。
——そこから、鼻歌が聞こえた。
僕は、足を止めた。
女の人の声だった。
小さい。ほとんど息だけの声で、旋律だけが流れている。
——僕は、その旋律に、聞き覚えがあった。
どこかで聞いた。
——どこで?
思い出せない。
そういうことが、時々ある。喉のところまで出てきていて、そこから先が出てこない。
2小節目の終わりで、音が、少し伸びた。
——楽譜どおりではない、伸ばし方だった。
僕は、中庭を覗いた。
アーリアが、1人でしゃがんでいた。
花壇の前に。冬なので、花は咲いていない。土だけの花壇に、雪が薄く残っている。
彼女は、その前にしゃがんで、鼻歌を歌いながら、地面を指でなぞっていた。
——この世界にも、似た歌があるんだな。
僕は、そう思った。
そう思って、通り過ぎようとした。
——アーリアが、振り返った。
「あ」
彼女は、慌てて立ち上がった。
そして、立ち上がりながら——足で、地面の砂を、さっと均した。
靴の先で、2回。
「ユウマさん」
「あ、どうも」
「その、これは」
「はい」
「なんでもありません」
彼女は、笑った。
いつもの、綺麗な笑い方だった。
「そうですか」
僕は言った。
「では、失礼します」
「はい」
「あの、寒いので、早く戻ってくださいね」
「はい」
——僕は、頭を掻いて、歩き出した。
砂に書かれていたものを、僕は見ていない。
見ようとも思わなかった。
——最後に立ち止まったのは、ギンだった。
この子は、僕の3歩後ろで、1度だけ、振り返った。
中庭のほうを。
しゃがんでいた人のほうを。
——しばらく、見ていた。
そして、何も言わずに、僕を追って歩き出した。
——回廊は、長い。
窓が並んでいて、そこから夕暮れの光が、斜めに入っている。
床石の上に、影が並ぶ。僕の影には、頭に瘤が1つと、胸に膨らみが1つ、余分についている。
アズキが半歩前を行って、行き過ぎて、待って、また行く。
ススキが3歩後ろにいる。
ソラが僕の頭に乗っている。
フクが上着の胸から顔を出している。
クルミが、たぶん何か盗んでいる。
ボロが、遅れてついてくる。
そして、ギンが、左の前脚を少し引きずりながら、僕の横を歩いている。
——僕は、何も気づかないまま、歩いていく。




