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38/85

#38 いっしょ、いく?

王都に戻って、3日が過ぎた。


僕は、答えを出せていない。


——だから、この3日のことを話す。


なんでもない日のことを。


——朝は、獣舎の掃除から始まる。


38体である。


糞の量は、桶で11杯。これはトトと2人でも1時間かかる。堆肥にするので庭師が喜ぶが、運ぶのは僕らだ。冬なので凍る。凍ると軽い。それだけが救いだ。


「兄ちゃん、氷牙狼のとこ、まだ終わってない!」


「今行く」


「あと、ボロがまた戸を開けた!」


ロヴィ村から来た11歳の犬は、掛け金の外し方を覚えた。アズキが教えたと僕は睨んでいる。


——アズキの散歩。


これは、毎日やる。


やらないと、この子は僕の靴を齧る。


王宮の一区画を、一周。30分。雪が積もった道を、この子は全速力で走って、僕は後ろから「待て」と言い続ける。待たない。


途中、ススキがついてくる。


3歩後ろ。


半年間、この距離が変わらない。あの4日目の朝に1度だけ真横に来て、それきり、また3歩に戻った。


——モチの爪切り。


これは、命がけである。


熊の爪は、前肢に5本、後肢に5本。長さは1本7cmある。放っておくと、肉球に食い込む。


やり方は、こうだ。


まず蜂蜜を舐めさせる。次に僕が腹の下に潜り込む。400kgの腹の下である。そこから前肢を引っ張り出して、鋸で削る。


削っているあいだ、モチは寝ている。


寝ているのはいいのだが、時々、寝返りを打とうとする。


「待って」


『……ねる……』


「待って、今、僕、下にいるから」


『……ねる……』


「死ぬ! 死ぬから!」


3日目に、2回死にかけた。


——朝食。


食堂で、ドーラの飯を食う。


ソラが頭に乗っている。この子は僕が座ると頭に来る。食事中も来る。パンをちぎって上に差し出すと、頭の上でもそもそと食べる。


パン屑が、僕の髪に落ちる。


侍女がそれを見て、毎回、微妙な顔をする。


——クルミが盗んだ匙の回収。


3日で、匙が7本消えた。


梁の上の巣を確認したら、匙が7本と、櫛が1つと、王宮の鍵が1本あった。鍵はまずいので、そっと返しておいた。


——ヒバリの手当て。


右の翼膜は、まだ塞がっていない。


裂けた膜は、皮膚のように塞がらない。少しずつ、縁から寄っていく。エステルが毎日《癒し》をかけて、それで2ヶ月かかると言われている。


この子は、今は飛べない。


飛べないので、地上を歩いてついてくる。


翼開長13mの飛竜が、僕の後ろを、のしのし歩いてくる。回廊は通れない。中庭を回り込む。すると先回りできるので、僕が回廊を出たところで待っている。


『ひと』


『まってた』


「うん。おはよう」


『あるく』


「歩こう」


——フクの誤報。


1日に、平均して4回ある。


猫が横切った。ダン、ダン、ダン。


風で扉が鳴った。ダン、ダン、ダン。


トトがくしゃみをした。ダン、ダン、ダン、ダン、ダン。


そのたびに、氷牙狼が5頭立ち上がって、アズキが吠えて、モチが顔を上げて、ススキが僕の前に出る。


そして、何も起きない。


「フク」


『こわい』


「うん。ありがとう」


『こわい』


「うん。もう大丈夫、ありがとう」


——この子の警報が、86人を救った。


だから僕は、4回とも、必ず礼を言う。


——獣舎の修理。


モチが壊した戸を、トトと2人で直した。


僕は日曜大工の経験がない。トトもない。2人で3時間かけて、曲がった戸を作った。


「兄ちゃん、これ、閉まらないよ」


「うん」


「隙間から風入るよ」


「うん」


「作り直す?」


「明日な」


『……』


——アズキが、厨房のほうを見た。


「あ、ごめん。明日、必ずやる」


『やくそく』


「約束する」


——ドーラの説教。


「坊主、あんた、また痩せたね」


「食べてます」


「食べてない顔だよ」


「食べてます」


「うちの子らの飯ばっかり見て、自分のは忘れてるだろう」


「……」


「ほら、皿。3枚」


3枚は多い。


——リーゼの訓練。


「体が鈍ってる」


彼女は、僕にそう言った。


「3日寝てただけです」


「4日だ。それに、その前にも倒れてた」


結果、僕は中庭を40周走らされた。


翌日、全身が筋肉痛になった。階段が降りられなくなって、手すりに掴まってずり降りていたら、上から見ていたリーゼに笑われた。


あの人は、あれから1度も、あの日のことに触れていない。


僕も触れていない。


たぶん、それでいいのだと思う。


——エステルとの立ち話。


回廊で会うと、5分くらい喋る。


内容は、たいてい、ヒバリの翼のことか、ギンの脚のことか、あるいはドーラの飯が多すぎることだ。


3日目に、彼女はこう言った。


「わたくし、教会に戻ります」


「え」


「叱られに行ってまいります。2ヶ月ほどで戻ります」


「戻ってくるんですか」


「モチ様の爪を、あなた1人で切っていたら、いつか潰されますので」


「……よろしくお願いします」


彼女は笑って、それから、「ユウマ様」と言った。


「はい」


「あなたは、まだ、ある方に想いを伝えられていないのでしょう」


「……はい」


「では、いつか伝わるとよろしいですね」


僕は、なんと答えるべきか分からなかった。


だから「はい」と言った。


——そして、ギン。


体長、1.9m。


体重、210kg。


僕より、大きい。


拾ったときは、体長20cm、体重2.1kgだった。上着の内ポケットに入った。


——左の前脚は、まだ完全には治っていない。


骨はついた。歩ける。走れる。


だが、走ると、少し引きずる。


エステルは「一生このままかもしれません」と言った。


僕は「そうですか」と言った。


それ以上、言わなかった。


——甘え方は、今も変わっていない。


僕が座ると、乗ろうとする。


210kgが。


「乗るな」


『のる』


「乗るなって!」


『のる』


——乗られた。


肋骨が2本、いった気がした。


——3日目の夕方。


僕は、獣舎の屋根に登った。


理由はない。夕日が見たかった。


王宮の獣舎は、東の外れにある。屋根に登ると、王都の街並みの向こうに、平野が見える。冬の空は、赤くなるのが早い。


——隣に、ギンが座った。


「お前、どうやって登った」


『……』


「210kgだぞ」


『……のぼった』


——屋根の板が、みしりと鳴った。


僕らは、並んで座っていた。


赤い空を見ていた。


風が冷たかった。


——ギンが、口を開いた。


いや、口は開けていない。念話に、口は要らない。


『ユウマ』


「うん」


『かえる?』


——僕は、そこで、動けなくなった。


——この子は、聞いていた。


砦の部屋で、ヴィルマが「帰還術式が組み上がりました」と言った夜。


床に伏せていたこの子は、顔を上げていた。


『とおく』


「……うん」


『ぜんぶ、いけない』


——僕は、膝の上で、拳を握った。


「全部、行けない」というのは、そういう意味だ。


38体、誰も連れて行けない。


契約を、全部、破棄する。


念話が消える。


『ギン……いっしょ、いく?』


——5つ、続けて寄越した。


この半年で、うちの子たちが1度に喋った、いちばん長い言葉だった。それまで、誰も、3つより多くを続けたことがなかった。


——僕は、答えられなかった。


喉の奥が、詰まった。


何か言おうとして、息だけが出た。


赤い空が、滲んだ。


「……ごめん」


やっと出たのは、それだけだった。


「ちょっと、考えさせて」


——ギンは、鼻先を、僕の膝に置いた。


重い。


210kgの頭は、犬の頭とは比べものにならない。膝が沈む。


そして、言った。


『まつ』


——約束という語も。


——待つという語も。


この子は、もう知っている。


——夕日が、平野の向こうに落ちていった。


僕は、思い出していた。


母の顔。


妹の顔。


——それから、灯のことを考えた。


去年の冬だ。


正月明けの、なんでもない放課後だった。


僕と灯は、教室に残って、日直の日誌を書いていた。書くのは灯で、僕は隣に座っているだけだった。


窓の外が、赤かった。


灯が、ペンを止めて、言った。


「今日、なんもなかったね」


「うん」


「授業出て、ご飯食べて、掃除して、それだけ」


「うん」


「こういう日がさ」


あいつは、日誌を見たまま言った。


「あとで思い返すと、いちばん良かったりするんだよね」


僕は「そうかな」と言った。


あいつは「そうだよ」と言った。


「だから、『うん、わかった』って言っといて」


「なんで僕が」


「言っといて」


「……うん、わかった」


あいつは笑った。


——僕は、屋根の上から、獣舎の方を見た。


アズキが、中庭で自分の尻尾を追いかけていた。


モチが、日の当たる壁際で山になっていた。


ススキが、獣舎の入口に座って、こっちを見ていた。3歩の距離を、下から測っている。


ソラが、屋根の端で滑空の助走をしていた。


フクが、何もないところで地面を叩いていた。


氷牙狼が5頭、雪の上に転がっていた。


トトが、桶を持って走っていた。


——寝息の間隔を、僕は全部覚えている。


犬は2秒。狼は3秒。兎は0.5秒。熊は10秒。飛竜は8秒。神獣は4秒。


38体ぶんの呼吸が、1度も揃わないまま、毎晩、獣舎の中で鳴っている。


——僕は、こう思った。


「このまま、ここで、この子たちと暮らすのも、悪くないな」


——そう思った自分に、僕は、いちばん驚いた。


半年前、僕は帰りたかった。


3ヶ月前も、帰りたかった。


1ヶ月前も、帰りたかった。


——今も、帰りたい。


帰りたいのに、そう思った。


僕は、膝の上の白い頭に、手を置いた。


毛の中に、指が沈む。手首まで入る。


2.1kgだったころと、そこも変わっていない。


——屋根を降りたのは、日が完全に落ちる少し前だった。


僕は、東の回廊を歩いていた。


38体のうち、7体がついてきていた。アズキ、ススキ、ソラ、フク、クルミ、それにボロと、ギン。


回廊の右手に、中庭がある。


——そこから、鼻歌が聞こえた。


僕は、足を止めた。


女の人の声だった。


小さい。ほとんど息だけの声で、旋律だけが流れている。


——僕は、その旋律に、聞き覚えがあった。


どこかで聞いた。


——どこで?


思い出せない。


そういうことが、時々ある。喉のところまで出てきていて、そこから先が出てこない。


2小節目の終わりで、音が、少し伸びた。


——楽譜どおりではない、伸ばし方だった。


僕は、中庭を覗いた。


アーリアが、1人でしゃがんでいた。


花壇の前に。冬なので、花は咲いていない。土だけの花壇に、雪が薄く残っている。


彼女は、その前にしゃがんで、鼻歌を歌いながら、地面を指でなぞっていた。


——この世界にも、似た歌があるんだな。


僕は、そう思った。


そう思って、通り過ぎようとした。


——アーリアが、振り返った。


「あ」


彼女は、慌てて立ち上がった。


そして、立ち上がりながら——足で、地面の砂を、さっと均した。


靴の先で、2回。


「ユウマさん」


「あ、どうも」


「その、これは」


「はい」


「なんでもありません」


彼女は、笑った。


いつもの、綺麗な笑い方だった。


「そうですか」


僕は言った。


「では、失礼します」


「はい」


「あの、寒いので、早く戻ってくださいね」


「はい」


——僕は、頭を掻いて、歩き出した。


砂に書かれていたものを、僕は見ていない。


見ようとも思わなかった。


——最後に立ち止まったのは、ギンだった。


この子は、僕の3歩後ろで、1度だけ、振り返った。


中庭のほうを。


しゃがんでいた人のほうを。


——しばらく、見ていた。


そして、何も言わずに、僕を追って歩き出した。


——回廊は、長い。


窓が並んでいて、そこから夕暮れの光が、斜めに入っている。


床石の上に、影が並ぶ。僕の影には、頭に瘤が1つと、胸に膨らみが1つ、余分についている。


アズキが半歩前を行って、行き過ぎて、待って、また行く。


ススキが3歩後ろにいる。


ソラが僕の頭に乗っている。


フクが上着の胸から顔を出している。


クルミが、たぶん何か盗んでいる。


ボロが、遅れてついてくる。


そして、ギンが、左の前脚を少し引きずりながら、僕の横を歩いている。


——僕は、何も気づかないまま、歩いていく。

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