#37 3日ぶりの朝
目が覚めたとき、僕は動けなかった。
体が動かないのではない。
物理的に、埋まっていた。
——胸の上に、アズキ。
24kgが、顎を僕の鎖骨に乗せて寝ている。息が臭い。
——足元に、ススキ。
この子は寝るときも3歩の距離を守ろうとするので、寝台の足のほう、ぎりぎりの位置にいる。
——枕に、ソラ。
僕の頭の横、髪に爪を引っかけて張りついている。体長18cm。
——脇に、フク。
心臓の音のする側に潜り込んでいる。片耳が僕の腕に当たって、くすぐったい。
——布団の中に、クルミ。
腹のあたりで何かが動いている。たぶん、また何か盗んで持ち込んでいる。
——床に、ギン。
寝台の横に、丸まっている。95kg。頭だけが寝台の縁に乗っていた。
——そして。
寝台の脚が、1本、折れていた。
寝台が、右に10度傾いている。
床に、白い山があった。
『……しろいの……』
『……おきた……』
「……モチ、お前」
『……ねてた……』
「寝台に寄りかかったな」
『……ねてた……』
400kgが寝返りを打つと、家具は壊れる。半年やってきて、僕はまだ学習していなかった。
——扉が、開いた。
「起きた!」
トトだった。
「起きた! 兄ちゃん起きた! 起きたぞーっ!」
彼は廊下に向かって絶叫して、それから僕の寝台に飛びついて、そして泣いた。
「3日だぞ! 3日!」
「……3日」
「熱が40度あった! ずっと! 医者が『これは死ぬかも』って言った! 姫様が『二度と言うな』って怒鳴った!」
「……姫様が?」
「怒鳴ったよ! おれ、姫様の怒鳴るとこ初めて見た!」
——廊下から、足音が来た。
複数。
いちばん大きい音を立てて入ってきたのは、鍋を持った50代の女の人だった。
「坊主!」
「……ドーラさん?」
「あんた、あたしが王都から粥を持ってきたのを無駄にする気かい!」
「なんでここに」
「補給の馬車に乗ってきたに決まってるだろ! うちの子らが40体近くいるってのに、飯を作る人間がいないんだ! 誰が来ると思ってたんだい!」
彼女は鍋を卓に置いて、それから、僕の顔を見て。
黙った。
そして、袖で顔を拭いて、「粥だよ」と言った。
——エステルが、扉のところに立っていた。
「3日ですよ」
彼女は言った。
声が、震えていた。
「3日です。わたくしは、《癒し》で熱は下げられません。骨は繋げます。傷は塞げます。ですが、熱は、下げられないのです」
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
「……いえ。謝ってください」
「すみません」
「もう1度」
「すみません」
——リーゼは、廊下から中を覗いて、それだけだった。
「起きたか、馬鹿」
「はい」
「よし」
そして、行ってしまった。
あとで聞いた話だが、この人は3日間、僕の部屋の前の廊下で寝ていたらしい。
——3日間、看病してくれていたのは、アーリアだった。
彼女は、部屋の隅の椅子に座っていた。
僕が起きたときから、そこにいたのだと思う。ずっと黙っていたので、気づかなかった。
顔を見て、僕は言葉を失った。
——ひどい顔をしていた。
目の下が黒い。唇が乾いている。髪が編まれていない。彼女が髪を編んでいないのを、僕は雷の夜以来、見ていない。
3日間、ほとんど眠っていない顔だ。
「アーリア様」
「はい」
「あの、寝てください」
「はい」
「今すぐ」
「はい」
彼女は「はい」と言ったまま、動かなかった。
そして、こう言った。
「約束を、守ってくださいました」
——僕は、そこで、指切りのことを思い出した。
門の下で、彼女が小指を出したこと。
僕が、考えるより先に、自分の小指を絡めたこと。
2人とも、そのあとで「あれ?」という顔をしたこと。
「……守れましたね」
「はい」
彼女は、笑った。
そして、椅子の上で、少し体を折った。
「よかった」
——そのときだった。
床のギンが、立ち上がった。
3本脚で。
そして、鼻を鳴らして、アーリアのほうを向いた。
『ユウマ』
「うん」
『におい』
「におい?」
『……しってる』
——僕は、粥の椀を持ったまま、顔を上げた。
「知り合い?」
『……』
『……ちがう』
『……むかし』
——それきり、この子は黙った。
首を傾げて、しばらくアーリアを見て、それから、床に伏せた。
僕は、椀の中の粥を、匙でかき混ぜた。
「……変なこと言うなあ」
『……』
沈黙。
僕は、粥を食べた。
熱かった。ドーラの粥は、いつも熱すぎる。
アーリアは、その様子を見ていた。
見ていて、それから、自分の手を見た。
なぜ手を見たのかは、分からなかった。
——戦後の話をする。
帝国軍は、国境の向こうへ退いた。
完全に、である。緩衝地帯からも兵を引いて、自国の稜線の内側まで下がった。
そして、和平の使者を寄越した。
交渉は始まった。まだ何も決まっていない。国境線の話も、賠償の話も、通商の話も、全部これからだ。
だが、一点だけ、王国側が最初に出した条件があった。
「《誓約鎖》の使用を、永久に禁ずること」
帝国は、これを飲んだ。
飲んだ理由は、道義ではないと思う。単純に、もう使えなくなったからだ。370頭に1度に嘘を知られた後では、この大陸のどの獣にも、二度と効かない。獣は、それを、覚えている。
——ニナ・レントは、王国側に保護された。
戦の日の夕方、彼女は雪の中庭で膝をついていた。
僕が担架の上から最後に見たのは、彼女の姿だった。
彼女は、追撃してきたわけではない。撤退する帝国軍について行かなかったのだ。動けなかった、というほうが近いらしい。
保護されたあと、3日間、何も食べなかった。
4日目に、リーゼが飯を持っていって、「食え」と言って、それでも食べなかったので、拳で頭を叩いた。
彼女は泣いて、それから食べたという。
——彼女は、2体を連れていた。
若い狼が1頭と、鷹が1羽。
どちらも、首に環がなかった。
彼女が個人で世話をしていた個体で、誓約鎖はかけられていなかった。かけなくても懐いていたからだと、彼女は言った。
その2体は、砦に来た3日目に、僕の部屋に入ってきた。
そして、僕の手の甲に、鼻先と嘴を触れさせた。
僕は、断らなかった。
断れなかった。
——僕が起きた後すぐ、5体増えた。
さっきの2体を足して、7体。
内訳は、クルム村の避難民が連れていた山羊が2頭。砦の厩の馬が1頭。伝令鳩が1羽。そして、あの日の戦のあと、雪原から砦の門まで歩いてきた、片目のない氷牙狼が1頭。
——ロヴィ村の、あの群れの長だった。
雪原で2時間かけて向き合った、右目のない大きな牡。
なぜ来たのかは、聞いていない。
聞いても『……』としか返ってこなかった。
——合計、38体。
——そして。
ヴィルマ・ゼーレが来たのは、僕が起きた日の夜だった。
彼女は、いつもどおり挨拶をしなかった。
椅子も勧められないうちに、寝台の横に立って、こう言った。
「帰還術式が、組み上がりました」
——部屋の中の音が、消えた。
トトが、匙を落とした。
「……え」
「削られた40行の内容は、判明していません。ですが、別系統の記録から、還りの座標の書き方を復元しました。3日前に、最後の一節が埋まりました」
「3日前」
「あなたが眠っているあいだです」
彼女は、羊皮紙を1枚、卓に置いた。
僕には読めない。
「条件が、2つあります」
「……はい」
「1つ。花束が枯れる前に使うこと」
「枯れるんですか」
「いずれ枯れます」彼女は言った。
「あれが枯れないのは、向こう側の時間に触れているからです。触れているものは、いずれ離れます。いつかは、分かりません。明日かもしれず、10年後かもしれない」
「……」
「期限は、示せません。それが、いちばん不誠実な答えだと理解しています」
彼女は、そこで、1度だけ、目を伏せた。
「2つ目を、言います」
「はい」
——ヴィルマは、僕の顔を見た。
「門をくぐるには、この世界で結んだ契約を、すべて破棄する必要があります」
——僕は、聞き返した。
「……契約」
「テイムの契約です。あなたが結んだものは、現在、38」
「38」
「1体でも残っていれば、術式は成立しません。あなたが向こう側の座標を掴めなくなるからです。契約は、この世界にあなたを結びつけている錨です」
彼女は、淡々と続けた。
「破棄すれば、念話は消えます。《スキル共有》も消えます」
「……消える」
「はい」
「あの子たちは」
「死にません。そして、忘れもしないでしょう。獣は、あなたを覚えています」
彼女は言った。
「ただ、二度と、言葉は通じません」
——部屋の中で、誰も動かなかった。
トトが、匙を拾わなかった。
アーリアが、椅子の上で、手を握っていた。
床のギンが、顔を上げていた。
——僕は、天井を見ていた。
考えたのは、意外なことに、動物のことではなかった。
——母の顔だった。
よく、キッチンに立って、こっちを見ずに「ゆうま」と呼び、話し出す母。
僕がいなくなって、半年。
あの人は、どうしているだろう。息子が7月の夕方に出ていったきり帰ってこないというのは、どういうことだろう。警察に行っただろうか。行っただろう。何度も行っただろう。
そして、陽菜。
中学1年。生意気。兄の話を「またそれ」と言って遮る。
——あと3度、春が来たら、あいつは高校生になる。
制服を着て、髪型で30分揉めて、通学の電車が混むと文句を言って、部活はどこに入るかで1週間悩む。
そういうのを、僕は見られなくなる。
——僕が帰らないというのは、そういうことだ。
「……ヴィルマさん」
「はい」
「考える時間は」
「あります」
彼女は言った。
「花が枯れるまでは」
——彼女は、部屋を出ていった。
扉が閉まった。
僕は、天井を見ていた。
寝台の脚が1本折れていて、部屋が右に10度傾いていた。
胸の上でアズキが寝ていた。足元でススキが寝ていた。枕でソラが寝ていた。脇でフクが寝ていた。布団の中でクルミが何か齧っていた。
そして、床のギンが、僕を見ていた。
『ユウマ』
「うん」
『ねる?』
「うん。寝る」
——僕は、目を閉じた。
眠れなかった。




