#36 重奏
1月3日、朝。
ヴァルデン砦の前面に広がる平野に、両軍が展開した。
王国軍、6000。
帝国軍、5800。
そして、獣が370。
——僕は、前線の丘に立っていた。
丘といっても、高さは10mもない。周りの雪原より、少し盛り上がっているだけの場所だ。
そこに、僕が1人。
いや、1人ではない。
——隣に、ギンがいた。
左の前脚は、まだ吊っている。骨はくっついていない。エステルが「歩くのは10日早い」と言った。
来ると言って、聞かなかった。
僕が「駄目だ」と言ったら、この子は獣舎の戸を鼻で開けて、3本脚で200m歩いて、丘の下で待っていた。
だから、連れてきた。
体重、95kg。体高は僕の腰より上。それが、3本脚で、僕の左に座っている。
——後方の斜面に、ヒバリがいた。
右の翼膜は、40cm裂けたままだ。塞がりかけているが、飛べない。
その隣に、翼膜を傷めた3騎。合わせて4騎が、地上にいる。
そして、上空に8騎。
——12騎、全部いる。
1騎も、欠けていない。
「ユウマ」
リーゼが、丘の下から呼んだ。
「合図はどうする」
「合図はないです」
「なに?」
「たぶん、始まったら分かります」
彼女は舌打ちをして、「無事に降りてこい」と言った。
——帝国軍が、動いた。
先に、獣が来る。
これは、前の戦と同じだ。数百頭が一斉に走る。雪煙が、地平線の幅で上がる。
僕は、その雪煙を見ていた。
心臓が、うるさかった。
手が震えていた。
17歳の高校2年生が、6000対5800の戦場の真ん中の丘に立っている。武器は持っていない。持ち方も知らない。体育の成績は2だった。
——僕は、深く息を吸った。
そして、始めた。
『ヒバリ』
後方の斜面から、返事が来た。
『いる』
『目、かして』
『いい』
——1つ目。
視界が、遠くなる。雪煙の向こうの、先頭の狼の顔まで見える。
『ヒバリ、もういっこ』
『いい』
『風、かして』
『いい』
——2つ目。
空気の層が、皮膚に貼りつく。平野を渡る風の向き。丘にぶつかって巻いている渦。上空1000mの気流の帯。
2つで、頭が痛くなる。
痛くなるのは知っている。3分が限度だ。
——そして、3つ目。
僕は、左を見た。
3本脚の神獣が、僕を見上げていた。
『ギン』
『ユウマ』
『声、かして』
——この子の《遠吠え》を、僕はまだ1度も借りていない。
借りたことがないのは、必要がなかったからだ。
そして、神獣格のスキルは、20秒しか保たない。
20秒。
——それが、僕に与えられた時間の全部だ。
『かして』
——ギンは、青い目で僕を見ていた。
そして、言った。
『いいよ』
——世界が、開いた。
説明が、難しい。
《遠吠え》というのは、声を出すスキルではない。
正確に言うと、声は出る。だがその声は、ただ届くように出るのではない。
——あらゆる獣に、必ず届く。
それが、この力の中身だ。距離ではない。声量や声質でもない。風向きも関係ない。獣であれば、必ず、届く。
僕の中に、それが入った。
そして——僕の念話と、重なった。
念話は、契約した獣にしか届かない。半径3km、同時10体。
《遠吠え》は、あらゆる獣に届く。ただし、言葉を運ばない。
——2つが、重なった。
頭の中で、何かが、生えた。
そうとしか言いようがない。
視界の端に、それが浮かんだ。
《重奏》
——半径5km。
——同時、無制限。
——契約していない獣にも、届く。
僕は、口を開けた。
そして——声だけじゃなく、頭の中でも。
370頭に、同時に、届けた。
『やくそく』
——雪原が、止まった。
比喩ではない。
先頭を走っていた灰色の狼が、4本の脚を、同時に止めた。
その後ろの3頭が、突っ込んで、転んだ。
『やくそく』
『うそ』
——僕は、2語を送った。
たった、2語。
——19秒、残っている。
そして、続けた。
事実だけを。
『みなみ、ばしょ、ない』
『むれ、こない』
『きた、のこる』
——3つ。
これで全部だ。
「南に土地はない」。
「群れは連れてこられない」。
「お前たちは、北に残される」。
——14秒。
僕は、もう1つだけ、足した。
これは、作戦になかった。
『きた、さむい』
『ぼくも、しってる』
——雪原に、音がなくなった。
370頭が、止まっていた。
先頭の灰色の狼が、顔を上げた。
そして、後ろを振り返った。
——ここからが、速かった。
獣は、嘘をつかない。
つくという発想が、ない。
だから、獣同士のあいだで、真実は、一瞬で伝わる。
人間の噂は、伝わるうちに変わる。誰かが盛り、誰かが減らし、誰かが自分に都合よく作る。
——この子たちのは、変わらない。
1頭が止まる。
隣が止まる。
その隣が止まる。
波が、雪原を、後ろへ走っていった。
12秒。
370頭が、全部、止まった。
——そして。
かしゃん、という音がした。
1つではない。
370。
首の銀の環が、内側から砕けて、雪の上に落ちた。
——それは、外れたのではない。
割れたのだ。
環の内側から、ひびが走って、乾いた粘土みたいに崩れた。落ちた破片は、雪に触れると溶けて、消えた。
音が、平野の端まで届いた。
——8秒。
僕の鼻から、血が落ちた。
視界の右が、欠け始めた。
それでも、僕は最後に1つ、送った。
『かえって、いい』
——狼が、歩き出した。
北へ。
1頭が向きを変えて、次の1頭が向きを変えて、そして、全部が向きを変えた。
370頭が、来た道を、戻っていく。
走らなかった。
歩いていた。
——ゼロ秒。
《遠吠え》が、切れた。
僕は、膝から落ちた。
雪の上に手をついて、鼻から血を垂らしながら、それを見ていた。
——上空で、影が動いた。
最初、雲だと思った。
雲ではなかった。
——古竜オーガスが、そこにいた。
いつから浮いていたのかは、分からない。
全長40m。角が4本。翼を、1度だけ、大きく広げた。
それだけだ。
一声も上げなかった。炎も吐かなかった。降りてもこなかった。
——ただ、浮いていた。
平野の上空、高さ300mのところに、40mのものが浮いている。
それだけで。
帝国軍の前衛が、崩れた。
槍が落ちる音が、1000本ぶん、同時に鳴った。
人間が後ずさる音というのは、あれだけの数が揃うと、地鳴りに聞こえる。
『いちど、だけ』
——頭の中に、それが落ちてきた。
僕は、雪の上から、空を見上げた。
『ありがとうございます』
『……めんどう』
そして、その巨大な影は、翼を畳んで、北へ滑っていった。
——帝国軍は、退いた。
戦にならなかった。
獣が全部いなくなり、頭上に古竜が浮いていて、前衛が槍を落とした。その状態で戦をやれと言われて、やる軍はない。
撤退のラッパが鳴ったのが、僕が丘に立ってから、26分後だった。
——両軍の死者。
ゼロ。
負傷者は出た。転んで骨を折った者が両軍で19人。獣に踏まれかけて肩を脱臼した者が3人。
死者は、ゼロだった。
獣も、1頭も死んでいない。
——僕は、そのあいだ、丘の上で座り込んでいた。
視界が、半分なかった。
耳が鳴っていた。体が熱かった。手が震えて、止まらなかった。
ギンが、僕の横に伏せていた。
3本脚で立てなくなって、伏せていた。
『……ユウマ』
「……うん」
『……あつい』
「うん」
——ここからは、あとで聞いた話だ。
僕は見ていない。
帝国軍の中軍。
獣導長グレゴール・アイゼンの前で、獣たちが北へ歩いていくのを、彼は立ったまま見ていた。
指示を出さなかった。出しても、もう届かなかった。
——そして、その足元から、1頭が離れた。
老狼ヴェルグ。
推定14歳。彼が名を与えた、唯一の獣。
その狼は、3歩、歩いて、止まった。
そして、振り返った。
グレゴールを、見た。
——しばらく、見ていた。
10秒か、20秒か。
その老いた狼が、何を考えていたのかは、誰にも分からない。
僕にも分からない。僕は、そこにいなかった。
——そして。
ヴェルグは、静かに、背を向けた。
そのまま、北へ歩き出した。
歩くのが遅い。14歳だからだ。他の獣たちに、どんどん抜かれていく。
それでも、止まらなかった。
——グレゴール・アイゼンは、動かなかった。
口を、開けていた。
50代の、静かな敬語を使う、疲れた目をした男が。
口を開けたまま、動けなくなっていた。
そして、掠れた声で、こう言った。
「……お前は、最後に何を言い残したんだ」
——僕は、そこで、この話を終わりにする。
彼がそのあとどうしたのかを、僕は知らない。
聞いていない。
聞かなかった。
——夕方。
僕は、担架で砦へ運ばれた。
体が、燃えていた。
《重奏》の代償だ。3つのスキルを重ね、そのうち1つが神獣格で、そこへ、生えたばかりの力を使った。
意識は、半分あった。
半分あったから、覚えている。
砦の門をくぐるとき、担架の横を、誰かが走ってきた。
「ユウマさん!」
アーリアだった。
彼女は、僕の手を掴んだ。
「ユウマさん。約束を——」
そこで、僕は落ちた。
——最後に見たのは、砦の門の内側の、雪の積もった中庭だった。
そこに、16歳くらいの女の子が、膝をついていた。
栗色の髪を短く切った子だ。
外套の下に、厚手の服を着込んでいる。膝の上に、帳面を落としていた。
その子は、地面を見て、泣いていた。
声を上げていなかった。
ただ、肩が、震えていた。
——僕は、その子の名前を、思い出せなかった。




