↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/83

#36 重奏

1月3日、朝。


ヴァルデン砦の前面に広がる平野に、両軍が展開した。


王国軍、6000。


帝国軍、5800。


そして、獣が370。


——僕は、前線の丘に立っていた。


丘といっても、高さは10mもない。周りの雪原より、少し盛り上がっているだけの場所だ。


そこに、僕が1人。


いや、1人ではない。


——隣に、ギンがいた。


左の前脚は、まだ吊っている。骨はくっついていない。エステルが「歩くのは10日早い」と言った。


来ると言って、聞かなかった。


僕が「駄目だ」と言ったら、この子は獣舎の戸を鼻で開けて、3本脚で200m歩いて、丘の下で待っていた。


だから、連れてきた。


体重、95kg。体高は僕の腰より上。それが、3本脚で、僕の左に座っている。


——後方の斜面に、ヒバリがいた。


右の翼膜は、40cm裂けたままだ。塞がりかけているが、飛べない。


その隣に、翼膜を傷めた3騎。合わせて4騎が、地上にいる。


そして、上空に8騎。


——12騎、全部いる。


1騎も、欠けていない。


「ユウマ」


リーゼが、丘の下から呼んだ。


「合図はどうする」


「合図はないです」


「なに?」


「たぶん、始まったら分かります」


彼女は舌打ちをして、「無事に降りてこい」と言った。


——帝国軍が、動いた。


先に、獣が来る。


これは、前の戦と同じだ。数百頭が一斉に走る。雪煙が、地平線の幅で上がる。


僕は、その雪煙を見ていた。


心臓が、うるさかった。


手が震えていた。


17歳の高校2年生が、6000対5800の戦場の真ん中の丘に立っている。武器は持っていない。持ち方も知らない。体育の成績は2だった。


——僕は、深く息を吸った。


そして、始めた。


『ヒバリ』


後方の斜面から、返事が来た。


『いる』


『目、かして』


『いい』


——1つ目。


視界が、遠くなる。雪煙の向こうの、先頭の狼の顔まで見える。


『ヒバリ、もういっこ』


『いい』


『風、かして』


『いい』


——2つ目。


空気の層が、皮膚に貼りつく。平野を渡る風の向き。丘にぶつかって巻いている渦。上空1000mの気流の帯。


2つで、頭が痛くなる。


痛くなるのは知っている。3分が限度だ。


——そして、3つ目。


僕は、左を見た。


3本脚の神獣が、僕を見上げていた。


『ギン』


『ユウマ』


『声、かして』


——この子の《遠吠え》を、僕はまだ1度も借りていない。


借りたことがないのは、必要がなかったからだ。


そして、神獣格のスキルは、20秒しか保たない。


20秒。


——それが、僕に与えられた時間の全部だ。


『かして』


——ギンは、青い目で僕を見ていた。


そして、言った。


『いいよ』


——世界が、開いた。


説明が、難しい。


《遠吠え》というのは、声を出すスキルではない。


正確に言うと、声は出る。だがその声は、ただ届くように出るのではない。


——あらゆる獣に、必ず届く。


それが、この力の中身だ。距離ではない。声量や声質でもない。風向きも関係ない。獣であれば、必ず、届く。


僕の中に、それが入った。


そして——僕の念話と、重なった。


念話は、契約した獣にしか届かない。半径3km、同時10体。


《遠吠え》は、あらゆる獣に届く。ただし、言葉を運ばない。


——2つが、重なった。


頭の中で、何かが、生えた。


そうとしか言いようがない。


視界の端に、それが浮かんだ。


《重奏》


——半径5km。


——同時、無制限。


——契約していない獣にも、届く。


僕は、口を開けた。


そして——声だけじゃなく、頭の中でも。


370頭に、同時に、届けた。


『やくそく』


——雪原が、止まった。


比喩ではない。


先頭を走っていた灰色の狼が、4本の脚を、同時に止めた。


その後ろの3頭が、突っ込んで、転んだ。


『やくそく』


『うそ』


——僕は、2語を送った。


たった、2語。


——19秒、残っている。


そして、続けた。


事実だけを。


『みなみ、ばしょ、ない』


『むれ、こない』


『きた、のこる』


——3つ。


これで全部だ。


「南に土地はない」。


「群れは連れてこられない」。


「お前たちは、北に残される」。


——14秒。


僕は、もう1つだけ、足した。


これは、作戦になかった。


『きた、さむい』


『ぼくも、しってる』


——雪原に、音がなくなった。


370頭が、止まっていた。


先頭の灰色の狼が、顔を上げた。


そして、後ろを振り返った。


——ここからが、速かった。


獣は、嘘をつかない。


つくという発想が、ない。


だから、獣同士のあいだで、真実は、一瞬で伝わる。


人間の噂は、伝わるうちに変わる。誰かが盛り、誰かが減らし、誰かが自分に都合よく作る。


——この子たちのは、変わらない。


1頭が止まる。


隣が止まる。


その隣が止まる。


波が、雪原を、後ろへ走っていった。


12秒。


370頭が、全部、止まった。


——そして。


かしゃん、という音がした。


1つではない。


370。


首の銀の環が、内側から砕けて、雪の上に落ちた。


——それは、外れたのではない。


割れたのだ。


環の内側から、ひびが走って、乾いた粘土みたいに崩れた。落ちた破片は、雪に触れると溶けて、消えた。


音が、平野の端まで届いた。


——8秒。


僕の鼻から、血が落ちた。


視界の右が、欠け始めた。


それでも、僕は最後に1つ、送った。


『かえって、いい』


——狼が、歩き出した。


北へ。


1頭が向きを変えて、次の1頭が向きを変えて、そして、全部が向きを変えた。


370頭が、来た道を、戻っていく。


走らなかった。


歩いていた。


——ゼロ秒。


《遠吠え》が、切れた。


僕は、膝から落ちた。


雪の上に手をついて、鼻から血を垂らしながら、それを見ていた。


——上空で、影が動いた。


最初、雲だと思った。


雲ではなかった。


——古竜オーガスが、そこにいた。


いつから浮いていたのかは、分からない。


全長40m。角が4本。翼を、1度だけ、大きく広げた。


それだけだ。


一声も上げなかった。炎も吐かなかった。降りてもこなかった。


——ただ、浮いていた。


平野の上空、高さ300mのところに、40mのものが浮いている。


それだけで。


帝国軍の前衛が、崩れた。


槍が落ちる音が、1000本ぶん、同時に鳴った。


人間が後ずさる音というのは、あれだけの数が揃うと、地鳴りに聞こえる。


『いちど、だけ』


——頭の中に、それが落ちてきた。


僕は、雪の上から、空を見上げた。


『ありがとうございます』


『……めんどう』


そして、その巨大な影は、翼を畳んで、北へ滑っていった。


——帝国軍は、退いた。


戦にならなかった。


獣が全部いなくなり、頭上に古竜が浮いていて、前衛が槍を落とした。その状態で戦をやれと言われて、やる軍はない。


撤退のラッパが鳴ったのが、僕が丘に立ってから、26分後だった。


——両軍の死者。


ゼロ。


負傷者は出た。転んで骨を折った者が両軍で19人。獣に踏まれかけて肩を脱臼した者が3人。


死者は、ゼロだった。


獣も、1頭も死んでいない。


——僕は、そのあいだ、丘の上で座り込んでいた。


視界が、半分なかった。


耳が鳴っていた。体が熱かった。手が震えて、止まらなかった。


ギンが、僕の横に伏せていた。


3本脚で立てなくなって、伏せていた。


『……ユウマ』


「……うん」


『……あつい』


「うん」


——ここからは、あとで聞いた話だ。


僕は見ていない。


帝国軍の中軍。


獣導長グレゴール・アイゼンの前で、獣たちが北へ歩いていくのを、彼は立ったまま見ていた。


指示を出さなかった。出しても、もう届かなかった。


——そして、その足元から、1頭が離れた。


老狼ヴェルグ。


推定14歳。彼が名を与えた、唯一の獣。


その狼は、3歩、歩いて、止まった。


そして、振り返った。


グレゴールを、見た。


——しばらく、見ていた。


10秒か、20秒か。


その老いた狼が、何を考えていたのかは、誰にも分からない。


僕にも分からない。僕は、そこにいなかった。


——そして。


ヴェルグは、静かに、背を向けた。


そのまま、北へ歩き出した。


歩くのが遅い。14歳だからだ。他の獣たちに、どんどん抜かれていく。


それでも、止まらなかった。


——グレゴール・アイゼンは、動かなかった。


口を、開けていた。


50代の、静かな敬語を使う、疲れた目をした男が。


口を開けたまま、動けなくなっていた。


そして、掠れた声で、こう言った。


「……お前は、最後に何を言い残したんだ」


——僕は、そこで、この話を終わりにする。


彼がそのあとどうしたのかを、僕は知らない。


聞いていない。


聞かなかった。


——夕方。


僕は、担架で砦へ運ばれた。


体が、燃えていた。


《重奏》の代償だ。3つのスキルを重ね、そのうち1つが神獣格で、そこへ、生えたばかりの力を使った。


意識は、半分あった。


半分あったから、覚えている。


砦の門をくぐるとき、担架の横を、誰かが走ってきた。


「ユウマさん!」


アーリアだった。


彼女は、僕の手を掴んだ。


「ユウマさん。約束を——」


そこで、僕は落ちた。


——最後に見たのは、砦の門の内側の、雪の積もった中庭だった。


そこに、16歳くらいの女の子が、膝をついていた。


栗色の髪を短く切った子だ。


外套の下に、厚手の服を着込んでいる。膝の上に、帳面を落としていた。


その子は、地面を見て、泣いていた。


声を上げていなかった。


ただ、肩が、震えていた。


——僕は、その子の名前を、思い出せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。