#35 嘘の見つけ方
エステルが広間に入ってきたのは、大晦日の夕方だった。
外套を着たままだった。髪に、埃が白くついていた。
——彼女はこの4日間、砦の3階の記録室に籠っていた。
あの部屋には、この地方の教会が保管していた古い写本の束が積んである。12月に僕とアーリアが帰還術式を追っていたとき、隅に寄せたままにしたやつだ。
僕らが手をつけなかったのには、理由がある。
箱の目録が、古語で、しかも教会の書式で書かれていた。アーリアは古語を読めるが、教会の書式は知らない。どの箱に何が入っているかを引ける人間が、この砦に1人しかいなかった。
その1人が、4日間、そこにいた。
彼女は、卓の上に1冊置いた。
革の表紙が、割れていた。
「《誓約鎖》です」
彼女は言った。声が掠れていた。
「あの銀の環に、名がついておりました。帝国側の呼び方だそうです。——そして、教会が400年前に封じた魔法の系統に、同じものがあります。名は《誓いの縛り》。封じた理由が、この巻に書いてあります」
——広間には、6人いた。
オズワルド。リーゼ。アーリア。僕。
そして、ヴィルマ・ゼーレ。
この人は3日前に王都から来た。理由は2つで、1つは帰還術式の詰め、もう1つは「敵が使っている魔法の系統を確認するため」だった。彼女は挨拶もなしに、「あなた、痩せましたね」とだけ言った。それが彼女なりの何かだったのだと思う。
——アーリアが、その巻を読み上げた。
古語である。彼女は1度、頭の中で組み替えてから読む。だから読む前に、必ず一拍、間が空く。
「『——誓いの縛りは、縛る側の力にあらず』」
一拍。
「『これを縛りと呼ぶは、誤りなり。鎖は、誓いを受けし者の内にあり』」
一拍。
「『すなわち——』」
彼女の声が、そこで1度、止まった。
そして、読んだ。
「『信じているという、そのことが、鎖である』」
——広間が、静まり返った。
僕は、卓に手をついた。
「もう1度」
「はい」
彼女は、もう1度読んだ。
「『信じているという、そのことが、鎖である』」
——エステルが、続きを説明した。
彼女は、この4日で、その巻を3度読んだという。
「《誓約鎖》は、形でもって縛る鎖ではありません。約束を信じている、という状態そのものが、鎖なのです」
「……つまり」
「はい」彼女は頷いた。
「信じるのをやめた瞬間、鎖は、獣の側から外れます」
「外れる」
「消えます。斬る必要も、解く必要も、術者を殺す必要もありません」
——僕は、しばらく、その言葉を頭の中で転がしていた。
そして、聞いた。
「教会は、なんでこれを封じたんですか」
エステルは、少しだけ黙った。
「……危険だからです」
「危険?」
「使うほうにとってではありません。使われるほうにとってでもありません」
彼女は、卓の上の巻を見た。
「400年前、この魔法は、人に対して使われました」
「人に」
「はい。『この戦が終われば、土地を与える』『家族を呼び戻す』『税を免ずる』——そう誓われた兵は、実際に、常人の3倍働いたそうです。倒れるまで働いた。そして」
「……嘘だった」
「はい」
彼女は、目を伏せた。
「巻には、こう書いてあります。『人はやがて、疑うことを覚えたり。ゆえにこの術は人に効かずなりぬ。されど、疑うことを知らぬものには、永遠に効く』」
——広間の空気が、変わった。
疑うことを知らないもの。
——獣だ。
「では」
ヴィルマが、口を開いた。
この人の声は、いつも平坦だ。
だがこのときは、平坦なぶん、余計に刺さった。
「一点、確認します」
「はい」
「その術を外すには、獣に『これは嘘だ』と分からせる必要がある。そういうことですね」
「はい」
「では」
——彼女は、僕を見た。
「獣に『嘘』という語は、通じるのですか」
——全員が、僕を見た。
オズワルドが。リーゼが。アーリアが。エステルが。
5人の視線が、僕に集まった。
——僕は、それに、答えられなかった。
答えられない理由を、僕はいちばんよく知っていた。
半年前から、何度も試している。
そのたびに、返ってきたのは『……』だった。
「……やってみます」
僕は言った。
「アズキを呼んでください」
——アズキは、50歩ほど離れた獣舎から、20秒で来た。
僕の前に座って、尻尾を振った。
『ごはん?』
「まだ」
『ごはん!』
「ごはんじゃない」
『ごはん?』
——僕は、床に膝をついた。
そして、アズキの顔を、正面から見た。
赤茶の短毛。胸だけが白い。金色の目。半立ちの耳。
出会ったときは、痩せていた。肋が浮いていた。厨房の生ゴミの陰にいた。
今は、太っている。ドーラのせいだ。
「アズキ」
僕は、声に出して言った。そして、頭の中で、言葉を作った。
——慎重に。
これまで、僕はこの語を、勢いで送っていた。悔しいときに、腹が立ったときに、行き詰まったときに。
そうではなく。
この子が、これまで生きてきた中の、どこかにあるはずのものを、指さすように。
『うそ』
——沈黙が、落ちた。
長かった。
10秒。20秒。
広間の誰も、動かなかった。オズワルドの息の音だけが聞こえた。
30秒。
——アズキの、尻尾が。
1度だけ、動いた。
ぱたん、と床を打った。
『いや』
——僕の膝が、床から浮きかけた。
「え」
『わかる』
『うそ』
『いや』
——僕は、両手を床についた。
「……なんで」
僕は、送った。
『うそ、って、なに』
——アズキは、答えた。
『ごはん』
『あとで、いった』
『なかった』
——僕の視界が、滲んだ。
——10月の半ばだ。
南の使節団が来た日。厨房が地獄になった日。
ドーラが、鍋から顔も上げずに「あとでやるよ!」と言った。
そして、忘れた。
50代の女の人が、朝の4時から働いて、夜中の1時に椅子で寝てしまった。それだけの話だ。誰も悪くない。翌朝、彼女は真っ青な顔で頭を下げて、その日、普段の倍の飯を作った。
アズキは、怒らなかった。
尻尾を振って、全部食べた。恨みがましいことは、1つも言わなかった。
——だが、この犬は、覚えていた。
言われたことと、起きたことが、違った。
その1晩を、この子は覚えていた。
そして、あの日から、「あとで」と言われると、必ず厨房の前に座るようになった。
僕は、それを、笑い話にした。
トトの記録の余白に、下手な絵を描いた。厨房の前に座っている犬の絵に、「『あとで』禁止」と添えた。
——僕は、笑っていた。
『……アズキ』
僕は言った。頭の中で。
声が、まったく出なかった。
『ごはん?』
「うん」
『ごはん!』
「あとで」
——アズキが、立ち上がった。
そして、扉のほうを見た。
「……行かなくていい」
僕は、その首に、腕を回した。
「今日は、ちゃんと出るから」
『……』
「約束する」
『やくそく』
「うん」
——僕は、犬の首に顔を埋めていた。
臭い。
濡れてもいないのに、臭い。
背後で、誰かが息を吐いた。
——通じた。
半年かかった。
いや、正確には、半年と、たった1晩だ。
——作戦が組まれたのは、その夜だった。
単純だった。
僕が、戦場の中心に立つ。
そして、届ける。
「射程は」オズワルドが聞いた。
「3kmです。同時に10体」
「敵獣は370だ」
「足りません」
「では、どうする」
——僕は、そこで、正直に言った。
「分かりません」
広間が、静まった。
「でも、たぶん、足ります」
「なぜだ」
「獣は、嘘をつかないので」
僕は言った。
「10体に伝われば、その10体は、周りに伝えます。伝えるとき、盛りません。減らしません。そのまま伝えます。……人間の噂は、伝わるうちに変わります。あの子たちのは、変わらないんです」
オズワルドは、しばらく僕を見ていた。
それから、卓を叩いた。
「よし」
「団長」
「護衛は騎竜団だ。飛べる9騎、全部つける。地上はファルクの隊」
「わたしがやります」リーゼが即答した。
「陣は、砦前の平野に敷く。前線の丘に、ユウマ殿を立たせる」
「危険すぎます」将軍の1人が言った。
「危険だ」オズワルドは断じた。
「だが、この案の代わりに、あんたは何を出す」
——誰も、出さなかった。
——その夜、僕はもう1つのことをした。
砦の胸壁に上って、ツグミを出した。
灰色の伝令鳥。この子は、僕の念話が届く距離の外へ行ける、唯一の子だ。
書付は、書かなかった。
書けないからではない。相手が読めないからだ。
だから僕は、この子に、覚えさせた。
『ツグミ』
『きく』
『北の、山。いちばん高いの。岩の棚。大きいの、いる』
『いる』
『そこ、行って』
『いく』
『そして——』
僕は、そこで、少し迷った。
伝言を、この子に持たせることはできない。念話は、僕とこの子のあいだにしかない。
だから、僕は、こう頼んだ。
『あの大きいのに、会って。会うだけでいい』
『あう』
『それだけでいい』
——ツグミは、飛んだ。
雪雲の下を、北へ。
僕は胸壁の上で、それが見えなくなるまで立っていた。
隣に、3本脚のギンが座っていた。
『ユウマ』
「うん」
『さむい』
「そうだね」
『はいる』
「もうちょっと」
——北の空に、星が2つだけ見えていた。
明日、1月1日である。
僕がこの世界に来て、初めての年が明ける。




