#34 まだ、いっしょにいる
3日、僕は誰とも喋らなかった。
寝台に座って、壁を見ていた。
飯は運ばれてきて、そのまま下げられていった。水だけは飲んだ。飲まないと頭が痛くなって、頭が痛いと壁を見ているのがつらくなるからだ。
獣舎には行かなかった。
行けなかった、ではない。行かなかった。
——2日目に、トトが来た。
扉を蹴り開けて入ってきて、僕の前に立って、そして泣きながら怒鳴った。
「なんで来ないんだよ!」
僕は、壁を見ていた。
「ギン、待ってるんだぞ! 3本脚で立とうとして、何回も転んでんだぞ! なんで来ないんだよ!」
僕は、答えなかった。
答えると、それは言い訳になると思った。
トトは、10分くらい怒鳴って、それから、椅子を蹴って出ていった。
——3日目、エステルが来た。
彼女は、何も言わなかった。
寝台の横に椅子を置いて、そこに座って、僕の手に《癒し》をかけた。鶏に裂かれた手の甲の傷は、もう塞がっている。塞がっているものに、彼女は毎日《癒し》をかけた。
かけ終わっても、彼女は座っていた。
2時間、座っていた。
一言も喋らずに。
帰るとき、扉のところで、1度だけ振り返った。
「わたくしは、6歳から19歳まで、犬が怖うございました」
僕は、壁を見ていた。
「13年です」
彼女は、それだけ言って、出ていった。
——同じ日の夕方、リーゼが来た。
彼女は入ってくるなり、卓の上の冷めた粥を見て、鼻を鳴らした。
「食え」
「……」
「食えと言ってる」
「……」
彼女は、しばらく僕を見ていた。
それから、扉のほうへ歩いて、取っ手に手をかけて、こう言った。
「お前が潰れたら、あいつらは誰と話すんだ」
——扉が閉まった。
僕は、壁を見ていた。
見ていたが、その日の夜は、少し眠った。
——4日目の朝。
音がした。
かちゃ、という音。それから、何かが引きずられる音。
そのあとに、どすん、と重いものが倒れる音。
——僕は、寝台の上で、顔を上げた。
音は、廊下から来ていた。
かちゃ。ずる。どすん。
かちゃ。ずる。どすん。
3回目で、僕は寝台から降りた。
4回目で、扉に手をかけた。
5回目で、扉を開けた。
——ギンが、いた。
扉から3mほど離れた、廊下に。
3本脚で、立っていた。
左の前脚は、板と布で固定されて、胸に吊ってある。エステルが4日かけて添えたものだ。骨は、まだくっついていない。粉砕骨折というのは、そういうものだ。
95kgが、3本脚で立っている。
——狼の体は、4本で支えるようにできている。
前脚に、体重の6割が乗る。その前脚が1本ないということは、それが片側だけにかかるということだ。
だから、まっすぐ立てない。
体が、左に傾く。傾くのを、右前脚だけで支える。支えきれなくなると、倒れる。
——さっきの音は、それだった。
1歩進む。倒れる。起き上がる。また1歩進む。
「……ギン」
僕の声は、掠れていた。
ギンは、顔を上げた。
そして、1歩、進んだ。
倒れた。
石の床に、95kgが倒れる音がした。
「やめろ!」
手を伸ばした。
伸ばした手が、止まった。
ギンが、また、立ち上がっていた。
自分で。
右前脚を突っ張って、後肢で押して、体を起こして。
そして、僕を見た。
拾ったときと変わらない青い目で。
——1歩。
——2歩。
——3歩。
僕の前まで来て。
そして、首を伸ばして、僕の顔を、舐めた。
ざらざらしていない、柔らかい舌で。1回。
『ユウマ』
——僕の膝が、抜けた。
『まだ』
『いっしょ』
——3語だった。
この子が、3語を喋ったのは、2度目だ。
1度目は、雪の中で北を見て『あっち』『いや』と言ったとき。
——今度は、これだった。
『ユウマ』
『まだ』
『いっしょ』
——僕は、声を上げて泣いた。
床に座り込んで、白い首に顔を埋めて、大声で泣いた。
17年生きてきて、あんな泣き方をしたのは、初めてだった。葬式では泣けなかった。3ヶ月後に花を持って交差点に立ったときも、泣かなかった。こっちの世界に来てから、声を出さずに泣いた。
このときだけは、感情が決壊した。
——毛が、涙を吸った。
犬の毛が涙を吸うことは、僕はもう知っている。
神獣の毛は、犬の倍以上、吸う。
長いからだ。指が手首まで沈む毛が、全部吸う。吸って、そのあと、少し臭くなる。神獣も、濡れると臭い。
——廊下の向こうから、足音が来た。
いくつも。
アズキが、まっすぐ飛び込んできた。僕の顔に、24kgが飛びかかった。そのまま勢いよく、部屋のなかへと押し込まれた。舐めてきた。臭かった。
ススキが続いた。3歩後ろではなく、真横に来た。この子がぴったりとくっつくような距離に来るのは、初めてだった。
ソラが、僕の頭に着地した。
『とぶ!』
「うん」
『たかい!』
「うん」
フクが、胸に潜り込んだ。心臓の音のする場所に。
氷牙狼の4頭が、僕を囲んだ。ハギが、僕の膝に顎を乗せた。
——そして。
廊下の向こうで、破壊音がした。
「あ」
「兄ちゃん、逃げて!」
トトの声がした。
——モチが、来た。
400kgが、廊下を走ってきた。
砦の扉は、幅が1.2mしかない。
モチの肩幅は、1.4mある。
「モチ、やめ——」
——扉枠が、壊れた。
石ではなく、木の枠のほうが。
木材が3本折れて、上の石が2個ずれて、粉が落ちた。
白い熊が、部屋に入ってきた。
そして、僕の背中に、鼻を押しつけた。
『……しろいの……』
『……なく……』
「泣いてる」
『……いい……』
「うん」
『……なく、いい……』
——僕は、また泣いた。
クルミが、枕の下から出てきた。
いつのまにか部屋に入り込んでいたらしい。頬袋から出したのは、匙だった。昨日、僕が使わなかった粥の匙だ。盗んでいた。
「返せ」
『……』
「返せって」
『……』
返してくれた。
——寝台が、獣で埋まった。
正確に言うと、部屋が埋まった。
14体が入って、まだ廊下に5体並んでいた。
僕は、どんどん押されて、部屋の真ん中で、床に座っていた。
——このとき、僕は、1つのことを考えていた。
半年前、この子たちは、「はら、へった」しか言えなかった。
そこから、「あっち」が増えた。「あのひと」が増えた。「まえ」と「あと」が増えた。「ぼくの」が増えた。「まつ」が増えた。「やくそく」が増えた。
1つずつだ。
1つずつ、増えた。
そして今、ギンは「まだ」「いっしょ」と言った。
——絆とは、通じる言葉が1つ増えることだ。
僕は、そう思った。
思って、それから、口には出さなかった。言葉にした途端に、この半年が薄っぺらくなる気がしたからだ。
——同じ日の午後、2つのことが起きた。
1つ。念話が伸びた。
半径3km。同時に、10体。
僕はそれに、獣舎の前で気づいた。砦の北端から南端まで、全員と繋がったままだったからだ。
『アズキ』『ススキ』『モチ』『ヒバリ』『ソラ』『フク』『クルミ』『ハギ』『ミゾレ』『ギン』——10体。
十の声が、同時に鳴っている。
うるさい。
死ぬほど、うるさい。
「うるさい!」
僕は、獣舎の前で叫んだ。
そして、笑った。
4日ぶりに、笑った。
2つ。《スキル共有》が、3つ同時まで通るようになった。
これは、試して分かった。《利き鼻》と《遠目》を借りて、そこに《風読み》を足した。
酔わなかった。
——理由は、明白だった。
この4日間で、僕の獣が増えたわけではない。
1体も増えていない。
訓練もしていない。僕は4日間、壁を見ていただけだ。
増えたのは、そこではない。
——ギンが、40kmを走ってきた。
——ススキが、3歩の距離を破った。
——アズキが、獣舎の扉を開けて、まっすぐ来た。
そういうことだ。
僕は、ヴィルマに手紙を書けない。字が書けないからだ。だからトトに代筆させて、こう書いてもらった。
「絆が、深くなったので、伸びました」
トトは書きながら「それでいいの?」と聞いた。
「それでいい」
——うちの子は、31体になっていた。
7体、増えていた。
クルム村の避難民が、家畜を連れて砦に入っていた。そのうち7体が、僕の周りから離れなくなった。
山羊が3頭。荷役牛が1頭。犬が2頭。そして、鶏が1羽。
鶏は、あの女の子が抱いて逃げた個体だった。彼女は僕を見つけると、その鶏を差し出して「この子、お兄ちゃんのこと好きみたい」と言った。
僕は、鶏に手の甲を差し出した。
つつかれた。
痛かった。
——夕方、僕は砦の中庭に立った。
31体が、周りにいた。
ギンが、3本脚で、僕の隣に立っていた。
「これからのことを、聞きに行こう」
僕は言った。
『……』
『いく』
『いく!』
『……いく……』
『とぶ!』
——僕は、歩き出した。
4日ぶりに、まっすぐ歩いた。




