#33 届かなかった
12月27日、帝国軍が動いた。
正面ではなかった。
彼らは、王国軍の陣を迂回して、東へ流れた。東には、国境沿いに小さな村がいくつか散っている。そのうちのひとつが、クルム村だった。
住民、86人。
家畜は、山羊が42頭。鶏が130羽。荷役牛が6頭。合計、178。
村に、柵はない。兵もいない。
「先行します」
僕は言った。
「待て」オズワルドが怒鳴った。
「本隊が回り込むのに半日かかる」
「半日かかるなら、なおさらです」
「1人でか」
「24体連れて行きます」
——僕は、動いた。
ヒバリの背に乗って、40分。
クルム村の上空に出たとき、僕は北を見た。
雪原に、黒い帯があった。
12km。歩兵の速度なら、3時間。獣が先行するなら、1時間半。
僕は村の広場に降りた。
村長は50代の男で、僕を見て「なんだ、あんた」と言った。
「王国軍から来ました。北から敵が来ます。3時間以内です。逃げてください」
「……なんだと」
「3時間以内です」
「証拠は」
——僕は、そのとき、説明する時間が惜しかった。
だから、外套の内側から、兎を出した。
フクだ。
片耳の垂れた角兎。危険度、星1つ。この子は臆病で、僕がテイムしてから半年、ずっと何かに怯えている。
僕は、フクを雪の上に置いた。
『フク。北、見て』
——兎の耳が、片方だけ立った。
そして、後ろ肢で、地面を叩いた。
ダン。
ダン、ダン、ダン、ダン、ダン——
止まらなかった。
村の広場に、その音が響いた。
雪を踏み固めた地面が、兎の後肢で叩かれる音。それが、途切れずに、続いた。
村長の顔から、血の気が引いた。
「……荷を出せ!」
彼は叫んだ。
「牛を出せ! 山羊を集めろ! 東の道だ! 走れ!」
——ここから2時間の記録を、僕はできるだけ正確に話す。
ススキと、氷牙狼の4頭が、村の外周を回った。
追い立てるためだ。人間は、危険を「聞かされる」より「見せられる」ほうが速く動く。狼が5頭、村の外を走っている。それだけで、迷っていた人間が走り出す。
アズキが、家を一軒ずつ回った。
『アズキ。人、いる?』
『いる!』
『何人』
『……ふたつ!』
数は苦手だ。それでも「いる」か「いない」かは分かる。27軒を、18分で回った。
モチが、荷車を引いた。
400kgが、荷車2台を同時に引いた。轅に縄をかけて、背中で引いた。老人が7人、荷車の上に乗った。
ソラが、屋根を渡った。
『ソラ。上から見て』
『とぶ!』
『人、いたら教えて』
『たかい!』
——見つけた。
北の外れの、納屋の屋根裏。
10歳くらいの女の子が、飼っていた鶏を追いかけて、そこに入り込んでいた。鶏が梁の上に逃げて、降りてこなかったのだ。
僕は納屋に走った。
「鶏が!」
「捕まえます。降りてください」
「でも!」
「連れてきますから」
——僕は、梁の上の鶏を、素手で掴んだ。
鶏は、暴れて、僕の手の甲を蹴った。爪が3本、皮膚を裂いた。血が出た。どうでもよかった。
女の子は、その鶏を抱いて泣いた。
そして、走った。
ツグミが、砦へ飛んだ。
僕は書けない。だから、リーゼが持たせてくれた「救援要請」の書付を、あらかじめ筒に入れてあった。それをツグミの脚に結んで、放した。
灰色の鳥は、雪雲の下を、一直線に北東へ消えた。
——1時間50分後。
村は、空になった。
住民、86人。
山羊、42頭。鶏、130羽。荷役牛、6頭。
全員、全頭が、東の街道へ出た。
僕は最後の一軒を確認して、広場に戻った。
そして、北を見た。
雪原の黒い帯が、もう、丘の上に来ていた。
——村は、燃えた。
火矢ではない。
帝国軍は、村を焼くために来たのではなかった。彼らは糧食を求めてきた。だから食料庫を開けて、中身を運び出した。
火が出たのは、屋内の炉に火が残っていたからだ。誰も、消していく余裕がなかった。
風があった。
1軒が燃えて、2軒目に移って、4軒目には手がつけられなくなった。
——僕は、村の南の丘から、それを見ていた。
村は焼けた。
だが、人は1人も死んでいない。
家畜は1頭も死んでいない。
——僕は、そこで、退けばよかった。
それが、正しかった。
僕は、退かなかった。
理由を、僕は今も、うまく説明できない。
村を焼く炎の向こうに、獣がいたからだ。
数百頭。あの子たちが、村の中を走り回っていた。食料庫の穀物袋を咥えて、運んでいた。命令されたとおりに。
そして、僕には、あの子たちが何を考えているかが、分かってしまった。
『はこぶ』
『みなみ、いく』
『やくそく』
——僕は、丘を駆け下りた。
背後で、誰かが叫んだ。エステルだったと思う。
僕は止まらなかった。
——村の南の外れで、僕は膝をついた。
そして、2つ借りた。
『アズキ。鼻、かして』
『いいよ!』
『ヒバリ。目、かして』
『いい』
——数を掴む。
370。
そのうち、僕の1km以内にいるのが、およそ120。
僕が同時に喋れるのは、5体。
——足りない。
まったく、足りない。
5体に伝えても、残りの365頭が動く。動けば、追撃が始まる。追撃が始まれば、東の街道で、86人が追いつかれる。
僕は、掴んだ。
5体。
『みなみ、つち、ない』
『やくそく』
『ない!』
『やくそく』
——駄目だ。
「うそ」が要る。
「うそ」という語が、要る。
僕は、その語を持っていない。持っていないなら、別の方法で伝えるしかない。
——見せればいい。
そう思った。
見せる。
北が、どうなっているかを。この子たちが「帰る」ことになる場所が、どうなっているかを。
それを見せるには、僕が、この子たちに触れる必要がある。
触れるには、近づく必要がある。
近づくには——
僕は、3つ目を、掴んだ。
『ギン』
——40km離れた砦にいる子に、届くはずがない。
届かなかった。
だから僕は、契約だけを頼りに、掴んだ。
同意なしでは、発動しない。それが原則だ。
——だが、このとき、返事が来た。
『いいよ』
砦にいるはずの子から。
1kmを、はるかに超えて。
——今でも、あれが何だったのかは分からない。
第4級・神獣。
その一語で片づけるには、あまりに都合がよすぎる。
《氷牙》が、僕の中に入った。
3つ目だった。
僕の上限は、2つである。
——世界が、白くなった。
音が消えた。
視界が、右から左へ、順番に落ちていった。落ちるというのは正確ではない。見えているのに、意味にならない。
鼻の奥で、何かが破れた。
熱いものが、口の中に流れ込んできた。
僕は、雪の上に、前のめりに倒れた。
——そこから先は、伝聞と、断片だ。
僕の意識は、そこで1度、切れている。
覚えているのは、雪の冷たさと、口の中の鉄の味だけだ。
以下は、あとで聞いた。
倒れた僕の上に、敵獣の群れが殺到した。
30頭以上。
そのうちの先頭が、僕まで6mのところに来たとき。
——白いものが、割り込んだ。
砦から、独断で走ってきた。
40kmを、2時間で。
体重、95kg。体長、1.2m。もう仔ではない。だが、成獣でもない。顔つきはまだ丸く、耳が体に対して大きい。
ギンは、僕を背に庇って、立った。
そして、一歩も退かなかった。
30頭を、1頭で止めた。
止めているあいだに、左の前脚を、砕かれた。
粉砕骨折。
橈骨と尺骨が、両方とも、3箇所ずつ。
それでも、退かなかった。
——上空から、ヒバリが降りた。
急降下だ。
飛竜の急降下というのは、翼を畳んで落ちる。落ちてから、地面すれすれで開く。開くときに、翼にかかる負荷が最大になる。
ヒバリは、開くのが遅れた。
僕を掴むために、体勢を無理に変えたからだ。
右の翼膜が、前縁から後縁まで、40cm裂けた。
裂けたまま、僕を掴んで、飛んだ。
——飛べる8騎が、援護に入った。
上空から降りて、低空を横切って、敵獣の群れの前を横断した。竜の影が地面を走ると、獣は伏せる。それだけで、時間が稼げる。
8騎は、1騎も落ちなかった。
飛行不能の3騎は、砦にいた。彼らは飛べないので、竜を牽いて、東の街道で負傷者と老人の搬送に回っていた。荷車が足りなかったからだ。
——ヒバリ1騎。援護8騎。砦の3騎。
12騎、全騎、生きて帰った。
——誰も、死ななかった。
住民、86人。全員。
家畜、178。全頭。
王国軍の兵、負傷19名、戦死ゼロ。
僕の獣、24体。重傷2体。死亡ゼロ。
敵の獣も、1頭も死んでいない。
——僕が砦の寝台で目を覚ましたのは、翌日の午後だった。
天井が、見えた。
石だ。ヴァルデン砦の石は、王宮のより粗い。
「起きたか」
リーゼが、椅子に座っていた。
僕は、口を開けた。
声が出なかった。喉が焼けていた。
「ギンは生きてる」彼女は先に言った。
「脚は砕けた。だが生きてる。ヒバリも生きてる。翼は裂けた。だが生きてる。……お前が聞きたいのは、それだろう」
僕は、頷いた。
「村は焼けた。人は86人全員助かった。家畜も全部だ。お前がやったことだ」
僕は、天井を見ていた。
——だから、どうした。
そう思った。
思ってしまった。
「……僕が」
声が、やっと出た。
「僕が、退いていれば」
「そうだな」
リーゼは、否定しなかった。
「お前が退いていれば、あの2体は無事だった」
——彼女は、嘘をつかなかった。
それが、いちばんきつかった。
「だが、退いていたら」彼女は続けた。
「お前は、あの獣どもに何も言わずに帰ったことを後悔する」
「……」
「どっちが正しいかは、わたしには分からん」
彼女は立ち上がった。
「飯は置いていく。食え」
扉が閉まった。
——僕は、天井を見ていた。
1日じゅう、そうしていた。
飯は、手をつけなかった。
窓の外で、雪が降っていた。




