#32 獣導長グレゴール
戦の翌々日、使者の交換が申し入れられた。
これは、この大陸の作法らしい。開戦したあと、1度は必ず卓を挟む。戦をやめるためではない。相手の顔を見るためだ。
場所は、2つの陣の中間。雪原に天幕を1つ張って、その中で。
王国側は3人。将軍が1人、書記が1人、そして——僕。
「なぜ僕が」
「向こうの指名だ」オズワルドが渋い顔をした。「『獣と話す者を連れてこられよ』とある」
——知られている。
そういうことだった。
天幕の中は、寒かった。
火鉢が1つあるだけで、床は雪の上に板を並べただけ。息が白い。
卓の向こうに、3人が座っていた。
真ん中の男が、立ち上がって、丁寧に礼をした。
「お越しいただき、感謝します」
——50代だった。
痩せている。背が高い。灰色の外套を着て、その下は簡素な革の胴着だった。飾りがない。階級章もない。
髪は短く刈って、白いものが半分混じっている。
そして、目が疲れていた。
ここ2、3日眠れていない程度の疲れではない。何年も、ずっと疲れが溜まっている人の目だ。
「ヴォルガード帝国、獣導長。グレゴール・アイゼンと申します」
——彼の足元に、狼がいた。
老いていた。
体は大きいが、痩せている。毛が薄い。目の周りが白い。鼻先も白い。歯が何本か抜けている。後肢が震えていて、立っているだけで疲れるらしく、僕らが座るとすぐに伏せた。
推定14歳。
狼の14歳は、人間の90歳くらいだ。
「ヴェルグと申します」グレゴールは、その狼を紹介した。「私が名を与えた、唯一の獣です」
「唯一?」
「はい。他には与えません。数が多すぎますので」
彼は、静かにそう言った。
——そして、隣に若い女の子が座っていた。
16歳くらい。栗色の髪を短く切って、外套の下に厚手の服を着込んでいる。膝の上に帳面を置いて、羽根ペンを握っている。
僕と目が合うと、彼女は慌てて頭を下げた。
「ニナ・レントです。獣導士見習いです」
「あ、綿貫悠真です」
「あの、」
彼女は、身を乗り出した。
「本当に、獣と話せるのですか」
「話せます」
「すごい!」
——本気で言っていた。
目が輝いていた。この子の顔には、緊張も敵意も打算も、何一つ載っていなかった。
グレゴールが、静かに「ニナ」と言った。彼女は「はい」と言って、赤くなって座り直した。
——会談は、噛み合わなかった。
将軍が国境線の話をした。グレゴールは頷いて聞いた。
そして、こう答えた。
「線については、こちらから申し上げることはありません。我らは飢えております。飢えた者には、線など意味がありません」
「では、話にならん」
「はい。おそらく、ならないでしょう」
彼は、それを、まったく攻撃的でない口調で言った。
そのあと、彼は数字を並べた。
ヴォルガード帝国北部の、この20年の記録。
作付けの面積が4割減ったこと。牧の草丈が半分になったこと。冬に凍死する家畜の数が、20年で6倍になったこと。
「昨年、我が国は北部の三州を放棄しました」
「放棄?」
「人が住めません。住民20万を南へ移しました。移した先に、その20万を食わせる土地はありません」
彼は、指を組んだ。
「それが、この戦の理由です。ご理解いただく必要はありません。ただ、事実として申し上げます」
——僕は、その話を、黙って聞いていた。
聞きながら、足元のヴェルグを見ていた。
老狼は、伏せたまま、時々グレゴールの足に鼻を押しつけていた。
——そして、僕は、聞いてしまった。
念話が、半径1kmある。
同時に5体。
不思議なことに、掴もうとしなくても、近くにいる獣の声が、勝手に入ってくることがある。
『この、ひと』
——僕は、息を止めた。
『いい、ひと』
老狼は、目を閉じていた。
『ずっと、いっしょ』
『さむい、とき、ぬの』
『いたい、とき、なおす』
『ずっと、いっしょ』
——胃の底から、何かが上がってきた。
僕は、卓の下で、両手を握った。
「……あの」
「はい」
「1つ、聞かせてください」
グレゴールは、僕を見た。
「どうぞ」
「あなたは、獣に、約束をしていますね」
——天幕の中の空気が、変わった。
将軍が僕を見た。ニナが顔を上げた。
グレゴールだけが、表情を変えなかった。
「しております」
「南に土地がある、と」
「言いました」
「群れも全部連れて行く、と」
「言いました」
「痛いのを治してやる、と」
「これは、実際に治します」
彼は、そこで、初めて少しだけ笑った。
「我が国の獣に、飢えている個体はおりません。傷を放置されている個体もおりません。凍える夜に外に繋がれている個体もおりません。——ご確認いただければ分かります。あなたは、獣に触れれば分かる方だ」
「……分かりました。あの子たちは、大事にされてます」
「はい」
「でも」
僕は、顔を上げた。
「南に、あの子たちに与える土地は、ないですよね」
——グレゴールは、頷いた。
即座に。
「ありません」
「群れを連れて行く気も、ないですよね」
「ありません。移送に必要な糧食を計算しましたが、2日で尽きます」
「……」
「戦が終われば、彼らは北に残します。残された彼らがどうなるかについては、計画にありません」
——彼は、それを、隠さなかった。
隠す理由が、この人には、まったくない。
「では」僕は言った。声が震えていた。「それらは、嘘ですね」
「はい」
「嘘をついて、獣を戦に出しているんですね」
「はい」
——僕は、そこで、立ち上がりかけた。
将軍が僕の腕を掴んだ。
グレゴールは、静かに言った。
「綿貫殿」
「はい」
「獣は、道具です」
彼は、卓の上で指を組んだまま、僕を見ていた。
「鋤は土を掘るための道具です。鍬も、槌も、弓も。獣も同じです。よく手入れをすれば、よく働きます。手入れを怠れば、壊れます。だから、私は手入れをします」
「あの子たちは、道具じゃない」
「では、なんですか」
「……」
「私は、鋤に嘘をついたことがあります」グレゴールは言った。「『あと少しで終わる』と、道具に言ったことがある。愚かなことです。ですが、それを罪だと思ったことは1度もない」
彼は、続けた。
「道具に嘘をつくことは、罪ではありません」
——僕は、言った。
「あの子たちは、本気で信じてるんです」
——グレゴールが、わずかに首を傾げた。
その仕草を、僕は忘れられない。
彼は、馬鹿にしたのではない。怒ったのでもない。
分からなかったのだ。
「信じる、とは?」
——本気で聞いていた。
「今、なんて」
「信じる、とは、なんですか」
彼は、続けた。
「私は、この語を、人に対して使います。部下を信じる。命令を信じる。それは分かります。ですが、獣は」
彼は、足元の老狼を見た。
「獣は、餌があるほうへ行きます。痛くないほうへ行きます。それは、信じているのではなく、そうできているのでしょう」
「違います」
「どう違うのですか」
——僕は、答えられなかった。
答えられなかった理由を、僕はあとで何度も考えた。
説明する語がなかったのではない。
この人の中には、その語を受け入れる場所が、ないのだ。
僕がこの半年で見てきたもの——待つ犬、2年痛かった竜、蜂に負けた熊、脚を治すために10日我慢した狼。それを全部並べても、この人の中の「道具」という棚の上に、順番に載っていくだけだ。
「……ヴェルグは」
僕は、言った。
「あなたのことを、いい人だと言っています」
——グレゴールの手が、止まった。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
「……そうですか」
彼は、そう言った。
そして、老狼の頭に、手を置いた。
置き方は、優しかった。
慣れていた。何年もそうしてきた人の置き方だった。
「こやつは、14になります」
「はい」
「もう長くはない。冬を越せるかどうか」
「はい」
「戦が終わったら、南の牧に置いてやろうと思っております」
——僕は、そこで、席を立った。
立って、天幕を出た。
出て、雪の上に膝をついて、吐いた。
何も出なかった。朝から何も食べていなかったからだ。
——会談は、決裂した。
書記が「決裂」と書いて、それで終わりだ。
僕が天幕の外にいるあいだに、将軍とグレゴールは短い言葉を交わし、双方が立ち上がった。
天幕から出てきたグレゴールが、僕の横で足を止めた。
ヴェルグが、その足元をゆっくりついてきていた。
「綿貫殿」
「……はい」
「あなたは、獣に情を移しすぎる」
彼は、僕を見下ろしていた。
疲れた目で。
「壊れますよ」
そして、彼は歩いていった。
老狼が、そのあとを、遅れてついていった。3歩ではない。10歩くらい遅れていた。歩くのが遅いからだ。
グレゴールは、途中で1度、立ち止まった。
老狼が追いつくのを、待っていた。
——僕は、雪の上に座り込んだまま、それを見ていた。
アズキが、僕の顔を舐めた。
臭い。
いつもどおり、舌が臭い。
「……アズキ」
『ごはん?』
「うん。帰ろう」
北の空は、鉛色だった。
雲が、山の稜線に垂れかかって、動いていなかった。




