#31 叩き上げの騎士
前進は、2日で止まった。
国境の標石から北へ12km。緩衝地帯の中ほどに、なだらかな丘が3つ並んでいる。王国軍はそこに陣を敷いた。
帝国軍は、その8km北にいた。
数は、ほぼ互角。歩兵が5000に、騎兵が800。
そして——獣が、数百。
これは、ヒバリの《遠目》を借りて、僕が数えた。狼が主体で、大型のものが混じっている。熊のようなもの。猪のようなもの。全部が、人間の隊列の脇に、整然と並んでいた。
歩調が、揃っていた。
——3日目の朝、リーゼが僕を呼び出した。
「厩の裏だ」
それだけ言って、行ってしまった。
厩といっても、雪の上に杭を打って、幌を張っただけの場所だ。馬が40頭、湯気を上げている。
僕がそこへ行くと、彼女は幌の陰に立っていた。
籠手を外していた。
「あの、なにか」
「ユウマ」
「はい」
——彼女は、前置きをしなかった。
「わたしはお前が好きだ」
僕の頭が、真っ白になった。
「騎士としてじゃなく、女としてだ」
彼女は、僕の目をまっすぐ見ていた。
日焼けした顔。短い黒髪。手の甲の古い傷。この人は、僕が最初に会ったとき「客人は下がってろ」と言った。それから半年、僕にいろいろ厳しかった。
「返事はいらん」
彼女は言った。
「言っておかないと死ぬ気がした。それだけだ」
——僕は、そのとき、初めて知った。
この人が、僕をどう思っていたのか。
僕は、ずっと、嫌われていると思っていた。
理由は簡単だ。この人はいつも怒鳴ってくるからだ。「阿呆」と言われたこともある。
好きな相手に、そんな口をきくものだと、僕は思っていなかった。
——そして、僕は、思い出していた。
去年の5月のことだ。
学校の帰り道で、灯が、めずらしく本気で怒ったことがある。
きっかけは、僕がクラスの女子から告白されたときの断り方だった。
僕はそのとき、こう言ったのだ。「僕なんかじゃもったいないよ」と。
灯は、それを聞いて、3秒黙った。
それから、「最低」と言った。
「なにが」
「それ、優しさじゃないよ」
あいつは、自転車を押しながら、前を向いたまま言った。
「『僕なんか』って言われたら、相手はもう何も言えないでしょ。ゆうくんは、そこで話を終わらせたいだけじゃん。相手を子ども扱いしてるだけだよ」
「そんなつもりじゃ」
「つもりじゃなくても!」
あいつは、そこで足を止めて、僕を見た。
「断るならさ。ちゃんと、目を見て、理由を言って断りなよ」
僕は「うん」と言った。
「分かった?」
「分かった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
灯は、「ならいい」と言って、また歩き出した。
夕方だった。空が橙色で、あいつの自転車のライトが、がしゃがしゃ鳴っていた。
——僕は、幌の陰で、リーゼの目を見た。
そして、短く言った。
「ごめんなさい」
「ああ」
「僕には、ずっと好きな人がいます」
——リーゼは、ゆっくり息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。
彼女は籠手を拾って、はめ直した。留め具を締めながら、こう言った。
「馬鹿正直な奴だな」
「すみません」
「褒めてる」
彼女は、笑った。
それから、拳で、僕の胸を叩いた。
軽くだったが、鎧の上からでも痛かった。
「行くぞ」
「はい」
彼女は、泣かなかった。
顔も歪めなかった。声も震えなかった。振り返りもしなかった。
僕は、そのとき、この人のことをすごいと思った。
すごいと思ったが、それを言葉にするのは、この人に対して失礼な気がしたので、言わなかった。
——30分後、戦が始まった。
始まり方は、あっけなかった。
北の丘の上に、影が並んだ。
それだけだ。ラッパも鳴らなかった。号令もなかった。ただ、8km向こうの丘の稜線が、黒くなった。
そして、その黒い線が、動いた。
——獣が、先に来た。
これが、恐ろしかった。
普通、軍というのは前衛が歩兵で、その後ろに騎兵がいる。人間の隊列は、揃って進むのに時間がかかる。だから、押し寄せるまでに間がある。
獣には、それがない。
数百頭が、一斉に走る。
雪煙が、地平線の幅で上がった。
「弓!」
「まだだ! 引きつけろ!」
僕は、丘の中腹にいた。
『ヒバリ。目、かして』
『いい』
『アズキ。鼻、かして』
『いいよ!』
2つ。順番を守る。まず視覚、それから嗅覚。
——見えた。
先頭は狼だ。灰色。あの日会った個体がいるかどうかは分からない。数が多すぎる。
匂いを拾う。
——右だ。
「右!」僕は叫んだ。「右に流れます! 200くらい、右へ!」
「なに?」
「匂いが右に振れてます! 正面じゃない! 右の斜面から回り込んできます!」
伝令が走った。
——僕の言ったことは、当たった。
敵の獣の群れは、正面から突っ込むと見せて、3分の1が右の斜面へ回った。王国軍の左翼——僕らから見て右——を、崩しにきたのだ。
右翼の部隊は、間に合った。
30秒前に伝令が届いていた。槍衾が間に合って、獣の群れは弾かれた。
——そこまでは、よかった。
そこから先が、駄目だった。
僕は、丘を駆け下りた。
「ユウマ! 戻れ!」
リーゼの声が、後ろで聞こえた。
聞こえたが、止まらなかった。
——僕は、伝えられると思っていた。
念話は、半径1km。同時に、5体。
1kmなら、届く。
僕は、槍衾の後ろまで走って、そこで膝をついて、送った。
『やくそく』
『それ、うそ』
——通じない。
『うそ』は、まだ、どの獣にも通じない。
だから、僕は、言い方を変えた。
『みなみ、つち、ない』
『しか、いない』
——これなら通じるはずだ。全部、単純な語だ。
僕は、5体を掴んだ。
近くを走っている狼を、5頭。
『みなみ、つち、ない』
——届いた。
5頭のうち、2頭が、耳を動かした。
そして。
『……』
『……』
『やくそく』
——え?
『やくそく』
『みなみ、つち、ある』
『やくそく』
——僕は、そこで、理解した。
理解して、絶望した。
この子たちにとって、「約束された」ということは、「そうなる」ということなのだ。
言ったことと、起きたことが、一致する。それが、この子たちが半年かけて——いや、僕の子たちが半年かけて覚えたのと同じ形で——覚えた「やくそく」だ。
だから、「南に土地がない」という僕の言葉は、この子たちの中で、こうなる。
土地はある。約束されたから。
——この人間の言っていることは、成り立たない。
そこには、「嘘」という中間項がない。
嘘という語がなければ、誰かが間違っているという考え方すら、生まれない。
『違う! 僕は——』
その先が、続かなかった。
騒音だ。
戦場というのは、想像していた100倍うるさい。金属が鳴り、人が叫び、馬が嘶き、獣が吠える。それが同時に、途切れなく鳴っている。
念話に、音は関係ない。関係ないはずだ。
だが、僕の集中が保たない。
5体を掴んでいるだけで、頭が割れそうだった。
そして、5体では、足りない。
数百頭のうちの5頭に真実を届けても、その5頭は、残りの数百頭の流れに押し流されるだけだ。
——僕は、雪の上で、何もできなかった。
『みなみ、つち、ない』
『やくそく』
『ない!』
『やくそく』
——押し流されていった。
——その日の戦は、日没まで続いた。
結果を言う。
王国軍。戦死7名。負傷41名。
戦死者の7名は、全員、右翼の槍衾に配属されていた歩兵だった。名前を、僕は知らない。知らないまま、翌日、7つの体が布に包まれて後方へ運ばれていくのを見た。
負傷者のうち11名は、エステルが《癒し》をかけた。彼女は日没から夜明けまで、一睡もしなかった。
騎竜団。
12騎、全騎が帰還した。
——これは、オズワルドが言い続けたことの結果だった。
彼は最後まで、竜を突っ込ませなかった。上空で旋回させ、影を落とし、敵の陣形を報告させ、伝令を運ばせ、1度も接敵させなかった。
それでも、3騎が翼膜を傷めた。
敵の弓だ。上空1000mから見下ろしていても、届くときは届く。3騎とも、飛膜に穴が空いた。命に別状はない。だが、飛べない。
「以後、飛べるのは9騎だ」
オズワルドは、夜の陣幕で、そう言った。
「ヒバリを含めて、9騎」
「治りますか」
「治る。2ヶ月かかる」
彼は、地図を睨んだまま、言った。
「敵が、2ヶ月待つと思うか」
——僕は、答えられなかった。
——その夜、僕は陣幕の外に座っていた。
雪が降っていた。
アズキが、僕の膝に頭を乗せていた。
臭い。濡れているからだ。この子は今日、1日じゅう雪の中を走り回っていた。
僕は、その頭に、手を置いていた。
毛の下が、熱い。人間より2度高い。
——7人、死んだ。
僕は、それを止められなかった。
1km届く。5体と話せる。2つのスキルを同時に借りられる。
半年かけて、僕はそこまで来た。
——足りない。
まったく、足りない。
僕は、雪の上で、拳を握った。
握って、それから、開いた。
握っていても、何も生まれない。
「……アズキ」
『……』
「うそ、って、なに」
『……』
沈黙。
「うそ、って、分かるか」
『……』
——通じない。
僕は、犬の首に、額をつけた。
陣幕の中で、リーゼが指揮の声を上げていた。
彼女は、あのあと1度も、僕のほうを見ていなかった。




