#30 指切り
出陣は、12月22日と決まった。
前夜の砦は、うるさかった。
鍛冶の音が止まない。革を叩く音。荷を数える声。そのあいだを、伝令が走り回っている。6000人が明日動くというのは、こういう音がすることなのだと、僕はこの夜に初めて知った。
僕は僕で、忙しかった。
まず、輜重のラバが動かなくなった。
40頭のうち12頭が、荷を着けさせない。耳を伏せて、後ずさりして、鼻を鳴らす。輜重隊が力ずくで引っ張るので、余計に悪化していた。
「ちょっと待ってください」
僕はラバの前にしゃがんだ。テイムしていないので念話は通じない。だから、鼻を見た。
鼻孔が開いている。目が白目を剥きかけている。首の筋が緊張している。
——怯えだ。しかも、匂いに対する怯えだ。
僕は立ち上がって、風向きを確かめた。
北風。
そして、風上に。
——うちの氷牙狼が4頭と、雪狐が1頭。並んで座っていた。
「……あー」
犯人は身内だった。
ラバにしてみれば、当たり前だ。狼が4頭と狐が1頭、風上で自分を見ている。そんな状況で荷を積まれたら、逃げ場がないと判断する。
『ハギ。ミゾレ。アラレ。ヒョウ。コナ』
『……』
『こっち来て』
5頭が立ち上がった。
僕は、その5頭を連れて、ラバの列の風下側に回った。それから、5頭をラバの列の前で、ゆっくり歩かせた。
1往復。2往復。
3往復目で、ラバが耳を上げた。
——狼も狐も、自分を見ていない。ただ通り過ぎていく。3回。
これで「あれは狩りに来たのではない」という情報が、ラバの中に入る。
15分で、12頭とも荷を受けた。
輜重隊長が「なぜだ」と聞いてきたので、「風上に、うちの狼と狐がいたからです」と答えた。
彼は北の空を見て、それから「……なるほど」と言った。
——王都からの補給が、その日の午後に着いていた。
その中に、僕宛の荷が1つあった。
木箱で、重い。開けたら、干し肉だった。
大量の。
「……多くないですか」
僕は箱を覗き込んだ。
「24体ぶんとして計算しても、これ、20日分くらいあります」
一緒に手紙が入っていた。トトが読んでくれた。
「『坊主へ。あんたはすぐ自分の飯を忘れる。うちの子らの飯ばかり気にして、自分の分を抜かす。だから多めに入れた。あんたの分も入っている。どれがどれかは書かない。全部食べれば間違いない。——ドーラ』」
「……全部食べたら死にます」
「兄ちゃん、これ、多分ドーラさん泣いてたと思う」
「なんで」
「字が、震えてる」
僕は、その箱の蓋を閉めた。
閉めて、少しのあいだ、手を置いていた。
——エステルが、従軍を申し出た。
これは、正直、驚いた。
「教会からの指示ですか」
「いいえ」
彼女は、はっきり言った。
「わたくしの意思です。教会には事後に報告します。おそらく叱られます」
「危ないですよ」
「《癒し》の使い手は、この軍に6人しかおりません。そのうち、骨を扱えるのは2人。2人のうち、獣を扱えるのは——」
彼女は、そこで、少しだけ笑った。
「わたくし、1人です」
「……」
「40日前まで、熊の毛にも触れなかった女がです」
僕は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼は結構です」彼女は言った。
「モチ様は、わたくしの恩人ですので」
——ギンの話をする。
この子は、来られない。
体重、28kg。
12月3日に拾ったときが、2.1kgだった。19日で、28kgである。トトの記録帳には、5日おきの数字が並んでいて、それを見ると笑うしかない。
体高は、僕の腰の高さまで来ていた。
もう懐には入らない。上着の内ポケットどころか、抱き上げるのも一苦労だ。
そして、まだ仔だ。
顔つきが仔のままなのである。鼻先が短く、額が丸く、耳が体に対して大きい。歩き方も仔犬のそれで、前肢が時々もつれる。
そのうえ、甘え方が変わっていない。
僕が座ると、膝に乗ろうとする。28kgが。
「乗るな」
『のる』
「乗るなって」
『のる』
——乗られた。
肋骨が鳴った。
「……お前、そのうち100kgとかになるんだぞ。そのときも乗る気か」
『のる』
「やめて」
——出発の朝。
僕は獣舎の入口で、ギンの前にしゃがんだ。
「連れて行けない」
『……』
「危ないから」
『……』
「戦だから」
『……』
——沈黙が、返ってきた。
この沈黙が、通じていないのか、通じたうえで黙っているのか、僕には分からなかった。
ギンは、僕の掌を舐めた。
1回。
ざらざらしていない、柔らかい舌で。
そして、言った。
『まつ』
——僕は、そこで、少し息を止めた。
『まつ』
「……うん」
『やくそく』
「……うん」
僕は、その頭を、両手で抱えた。
毛の中に、指が沈む。手首まで入る。拾ったときから変わっていない。
「行ってくる」
『まつ』
——砦の門で、僕は呼び止められた。
「ユウマさん」
アーリアだった。
外套を着て、朝の光の中に立っていた。息が白い。彼女はここに残る。記録係の仕事は砦にある。
「はい」
「必ず、帰ってきてください」
「はい」
「約束です」
「はい」
——そして、彼女は。
右手を、前に出した。
拳を握って、小指だけを、立てて。
——僕は、考えるより先に、動いていた。
自分の右手を出して、小指を立てて、彼女の小指に絡めた。
指と指が、引っかかった。
1秒。
——2人とも、そこで、止まった。
僕は、自分の指を見た。
彼女も、自分の指を見た。
この世界に、指切りの風習はない。
半年いて、僕は1度もそれを見ていない。約束の作法として、この国にあるのは、手を重ねるか、酒を注ぎ合うか、書付に印を押すかだ。
小指を絡める人間を、僕はこの世界で1人も見ていない。
護衛の騎士が、2人とも、怪訝な顔をしていた。何をやっているのか分からない、という顔だ。
「……あれ?」
僕は言った。
「なぜ、こうしたのでしょう」
アーリアが言った。
小さい声だった。彼女は、絡めたままの自分の小指を見ていた。
「なんですかね、これ」
「わたし、これを」
彼女は、そこで言葉を切った。
「……知っている気が、して」
——その瞬間。
進軍のラッパが、鳴った。
砦じゅうの空気が震えた。門が開く音がして、先頭の隊が動き出す音がして、馬の嘶きが重なった。
僕らは、指を離した。
「あの、」
「行ってください」
彼女は、笑った。
いつもの、綺麗な笑い方だった。
「必ず、帰ってきてください」
「はい」
——僕は、走った。
隊列に追いつくのに、200mほど走った。
途中で振り返ったら、彼女はまだ門の下にいた。トトが隣で、両手を振っていた。ギンが、門の柱のところに座って、こっちを見ていた。
僕は、手を振り返した。
——そして、そのまま、前を向いた。
隊列の中に入って、アズキが横につき、ススキが3歩後ろについて、ヒバリが上空を旋回した。モチが最後尾で荷を背負っている。400kgは、荷車3台ぶんを運ぶ。
雪の街道を、6000人が北へ動いていく。
進軍のラッパが、もう1度鳴った。
——僕は、指切りのことを、その日の夕方には忘れていた。
なぜ忘れたかというと、そのころには、地平線の向こうに、煙が見えていたからだ。




