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30/83

#30 指切り

出陣は、12月22日と決まった。


前夜の砦は、うるさかった。


鍛冶の音が止まない。革を叩く音。荷を数える声。そのあいだを、伝令が走り回っている。6000人が明日動くというのは、こういう音がすることなのだと、僕はこの夜に初めて知った。


僕は僕で、忙しかった。


まず、輜重のラバが動かなくなった。


40頭のうち12頭が、荷を着けさせない。耳を伏せて、後ずさりして、鼻を鳴らす。輜重隊が力ずくで引っ張るので、余計に悪化していた。


「ちょっと待ってください」


僕はラバの前にしゃがんだ。テイムしていないので念話は通じない。だから、鼻を見た。


鼻孔が開いている。目が白目を剥きかけている。首の筋が緊張している。


——怯えだ。しかも、匂いに対する怯えだ。


僕は立ち上がって、風向きを確かめた。


北風。


そして、風上に。


——うちの氷牙狼が4頭と、雪狐が1頭。並んで座っていた。


「……あー」


犯人は身内だった。


ラバにしてみれば、当たり前だ。狼が4頭と狐が1頭、風上で自分を見ている。そんな状況で荷を積まれたら、逃げ場がないと判断する。


『ハギ。ミゾレ。アラレ。ヒョウ。コナ』


『……』


『こっち来て』


5頭が立ち上がった。


僕は、その5頭を連れて、ラバの列の風下側に回った。それから、5頭をラバの列の前で、ゆっくり歩かせた。


1往復。2往復。


3往復目で、ラバが耳を上げた。


——狼も狐も、自分を見ていない。ただ通り過ぎていく。3回。


これで「あれは狩りに来たのではない」という情報が、ラバの中に入る。


15分で、12頭とも荷を受けた。


輜重隊長が「なぜだ」と聞いてきたので、「風上に、うちの狼と狐がいたからです」と答えた。


彼は北の空を見て、それから「……なるほど」と言った。


——王都からの補給が、その日の午後に着いていた。


その中に、僕宛の荷が1つあった。


木箱で、重い。開けたら、干し肉だった。


大量の。


「……多くないですか」


僕は箱を覗き込んだ。


「24体ぶんとして計算しても、これ、20日分くらいあります」


一緒に手紙が入っていた。トトが読んでくれた。


「『坊主へ。あんたはすぐ自分の飯を忘れる。うちの子らの飯ばかり気にして、自分の分を抜かす。だから多めに入れた。あんたの分も入っている。どれがどれかは書かない。全部食べれば間違いない。——ドーラ』」


「……全部食べたら死にます」


「兄ちゃん、これ、多分ドーラさん泣いてたと思う」


「なんで」


「字が、震えてる」


僕は、その箱の蓋を閉めた。


閉めて、少しのあいだ、手を置いていた。


——エステルが、従軍を申し出た。


これは、正直、驚いた。


「教会からの指示ですか」


「いいえ」


彼女は、はっきり言った。


「わたくしの意思です。教会には事後に報告します。おそらく叱られます」


「危ないですよ」


「《癒し》の使い手は、この軍に6人しかおりません。そのうち、骨を扱えるのは2人。2人のうち、獣を扱えるのは——」


彼女は、そこで、少しだけ笑った。


「わたくし、1人です」


「……」


「40日前まで、熊の毛にも触れなかった女がです」


僕は、頭を下げた。


「ありがとうございます」


「お礼は結構です」彼女は言った。


「モチ様は、わたくしの恩人ですので」


——ギンの話をする。


この子は、来られない。


体重、28kg。


12月3日に拾ったときが、2.1kgだった。19日で、28kgである。トトの記録帳には、5日おきの数字が並んでいて、それを見ると笑うしかない。


体高は、僕の腰の高さまで来ていた。


もう懐には入らない。上着の内ポケットどころか、抱き上げるのも一苦労だ。


そして、まだ仔だ。


顔つきが仔のままなのである。鼻先が短く、額が丸く、耳が体に対して大きい。歩き方も仔犬のそれで、前肢が時々もつれる。


そのうえ、甘え方が変わっていない。


僕が座ると、膝に乗ろうとする。28kgが。


「乗るな」


『のる』


「乗るなって」


『のる』


——乗られた。


肋骨が鳴った。


「……お前、そのうち100kgとかになるんだぞ。そのときも乗る気か」


『のる』


「やめて」


——出発の朝。


僕は獣舎の入口で、ギンの前にしゃがんだ。


「連れて行けない」


『……』


「危ないから」


『……』


「戦だから」


『……』


——沈黙が、返ってきた。


この沈黙が、通じていないのか、通じたうえで黙っているのか、僕には分からなかった。


ギンは、僕の掌を舐めた。


1回。


ざらざらしていない、柔らかい舌で。


そして、言った。


『まつ』


——僕は、そこで、少し息を止めた。


『まつ』


「……うん」


『やくそく』


「……うん」


僕は、その頭を、両手で抱えた。


毛の中に、指が沈む。手首まで入る。拾ったときから変わっていない。


「行ってくる」


『まつ』


——砦の門で、僕は呼び止められた。


「ユウマさん」


アーリアだった。


外套を着て、朝の光の中に立っていた。息が白い。彼女はここに残る。記録係の仕事は砦にある。


「はい」


「必ず、帰ってきてください」


「はい」


「約束です」


「はい」


——そして、彼女は。


右手を、前に出した。


拳を握って、小指だけを、立てて。


——僕は、考えるより先に、動いていた。


自分の右手を出して、小指を立てて、彼女の小指に絡めた。


指と指が、引っかかった。


1秒。


——2人とも、そこで、止まった。


僕は、自分の指を見た。


彼女も、自分の指を見た。


この世界に、指切りの風習はない。


半年いて、僕は1度もそれを見ていない。約束の作法として、この国にあるのは、手を重ねるか、酒を注ぎ合うか、書付に印を押すかだ。


小指を絡める人間を、僕はこの世界で1人も見ていない。


護衛の騎士が、2人とも、怪訝な顔をしていた。何をやっているのか分からない、という顔だ。


「……あれ?」


僕は言った。


「なぜ、こうしたのでしょう」


アーリアが言った。


小さい声だった。彼女は、絡めたままの自分の小指を見ていた。


「なんですかね、これ」


「わたし、これを」


彼女は、そこで言葉を切った。


「……知っている気が、して」


——その瞬間。


進軍のラッパが、鳴った。


砦じゅうの空気が震えた。門が開く音がして、先頭の隊が動き出す音がして、馬の嘶きが重なった。


僕らは、指を離した。


「あの、」


「行ってください」


彼女は、笑った。


いつもの、綺麗な笑い方だった。


「必ず、帰ってきてください」


「はい」


——僕は、走った。


隊列に追いつくのに、200mほど走った。


途中で振り返ったら、彼女はまだ門の下にいた。トトが隣で、両手を振っていた。ギンが、門の柱のところに座って、こっちを見ていた。


僕は、手を振り返した。


——そして、そのまま、前を向いた。


隊列の中に入って、アズキが横につき、ススキが3歩後ろについて、ヒバリが上空を旋回した。モチが最後尾で荷を背負っている。400kgは、荷車3台ぶんを運ぶ。


雪の街道を、6000人が北へ動いていく。


進軍のラッパが、もう1度鳴った。


——僕は、指切りのことを、その日の夕方には忘れていた。


なぜ忘れたかというと、そのころには、地平線の向こうに、煙が見えていたからだ。

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