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#28 やくそく、まもって、くれる

僕らは、翌朝、来た道を引き返した。


ヴァルデン砦に戻ったのは、その日の夕方だった。


砦は、変わっていた。


兵の数が倍になっていた。中庭に天幕が並び、鍛冶の火が3つ焚かれていて、荷馬車が列を作っている。王都からの増援が、僕らと入れ違いに到着していたのだ。


そして、騎竜団長オズワルド・ハーグが、中庭のど真ん中で怒鳴っていた。


「その積み方では崩れる! やり直せ!」


「団長……」


「おお、ユウマ殿!」


大声だった。30m先から届いた。


「団長、なんで」


「王命だ! 騎竜団、全12騎をこの砦に移す!」


——12騎、全部。


騎竜団というのは、王都の空を守るための部隊だ。それを全部、北へ動かした。


つまり、王都は、そういう判断をしたということだ。


「ヒバリの報告は」


「読んだ」オズワルドは腕を組んだ。


「読んだが、上には上げておらん。歩調が揃った獣の群れ、と書いて、信じる将軍が何人おると思う」


「……」


「わしは信じる」彼は言った。


「2年前の脇腹の件を、わしは覚えとる」


——これが、僕がこの人を好きな理由だ。


この人は、大声で断言する。そして、間違えたことを覚えている。


「明日、緩衝地帯へ出る」オズワルドは言った。


「哨戒だ。ユウマ殿、来られるか」


「行きます」


「危ないぞ」


「行きます」


——ところで。


この砦へ戻る道中で、僕の念話が伸びた。


半径1km。


同時に、5体。


気づいたのは、行列の後ろにいたモチと、先頭を歩いていたアズキと、上空のヒバリと、膝の上のギンと、3歩後ろのススキ——5体と、同時に繋がったままだったからだ。


『アズキ、前見て』


『みてる!』


『モチ、荷、大丈夫?』


『……だい……じょうぶ……』


『ヒバリ、上どう』


『くもり』


『ススキ、後ろ』


『……』


『ギンは寝てろ』


『ねる』


——5つの声が、同時に、頭の中で鳴っている。


これは、慣れるまでかなりきつかった。


人間の脳は、同時に5人と会話するようにできていない。教室で5人に同時に話しかけられているのと同じだ。しかも全員が違うことを言う。


最初の3日、僕は頭痛で寝込んだ。


4日目に、こつを掴んだ。


——全部を聞こうとしないことだ。


5つの声を、5つとも同じ強さで聞こうとすると、潰れる。だから、僕は4つを「後ろ」に置いて、1つだけを「前」に出す。前後を切り替える。


犬が匂いをそうやって捨てているのと、同じ理屈だった。


——翌日。


緩衝地帯に出た。


編成は、飛竜4騎、騎兵12、歩兵30。それに僕とアズキとススキとヒバリ。


ギンは砦に置いてきた。連れて行けと言われても連れて行かない。この子は今、体重が15kgある。15kgあるが、拾ってから16日しか経っていない仔だ。


緩衝地帯は、雪と枯れ草の平原だった。


国境の標石が、500m間隔で並んでいる。北へ行くほど、標石が古くなる。


「見えました」


物見の兵が言った。


「北北東、2000。単騎——いや、獣です」


僕は、ヒバリの《遠目》を借りた。


『かして』


『いい』


——見えた。


灰色の大狼だった。


体高は、うちのススキの倍近い。氷牙狼より大きい。毛は短めで、脚が長い。


1頭で、草の中に伏せて、こちらを見ている。


「斥候だ」オズワルドが言った。


「あれは偵察に出されておる」


「獣がですか」


「そうとしか見えん」


——僕は、馬を降りた。


「行きます」


「待て」


「1人で行きます」


「ユウマ殿!」


「2000m離れてるうちは、何も分かりません」


僕は歩き出した。


雪を漕いで、平原を、北へ。


1人で。


——1000m。


灰色の狼は、動かなかった。


伏せたまま、こちらを見ている。


500m。


耳が、前を向いた。


300m。


僕は、座った。


雪の上に。いつもどおり、横を向いて、視線は地面、動かない。


——ここで、変なことが起きた。


『にんげん』


——僕は、息を止めた。


届いた。


300m。


契約していない相手から、届いた。


これは、2度目だ。1度目は古竜だった。あれは向こうの格が違いすぎたからだと思っていた。


だが、今度は違う。


相手は、ただの大狼だ。神獣でも幻獣でもない。


——だとすると、伸びたのは、僕のほうだ。


半径1km、同時5体。


『こんにちは』


僕は、送った。


『……』


『こわくない。なにもしない』


『……』


——狼が、立ち上がった。


そして、歩いてきた。


まっすぐ。


300mを、100歩ちょっとで詰めてきた。


僕は動かなかった。


背後で、味方が弓を構える音がした。2000m向こうで。届かない。


大狼は、僕の前で止まった。


そして、鼻先を、僕の手の甲に触れさせた。


——敵意が、なかった。


まったくなかった。


『にんげん』


『はい』


『にんげん、いい、にんげん』


「……え?」


僕は、顔を上げた。


至近距離で、灰色の顔を見た。目が金色だった。傷が多い。耳の縁が3箇所、欠けている。


その顔が、僕を見ていた。


そして、次々に寄越してきた。


『ひと、いい、ひと』


『めし、くれる』


『まいにち、くれる』


『きず、なおす』


『さむい、とき、ぬの、くれる』


——僕は、混乱した。


これは、帝国の獣だ。


帝国が獣を使って、王国の哨戒隊を偵察させている。それが今、僕に「人間はいい人間だ」と言っている。


『餌をくれるの?』


『くれる』


『毎日?』


『まいにち』


『痛いことは』


『しない』


『叩かれたことは』


『……ない』


——ない。


僕は、手を伸ばして、狼の首に触れた。


毛の下に、傷はなかった。


古い戦いの傷は多い。だが、人間がつける傷——鞭、焼き印、鎖の擦れ——それが、1つもなかった。


痩せてもいなかった。


むしろ、この地方でこの季節に、これだけ肉のついている野生の狼を、僕は見たことがない。


『よく食べてるね』


『くう』


『そう』


『……いい、ひと』


——僕は、そこで、少しだけ、混乱した。


帝国は、獣と、絆を結んでいるのか。


よく食わせ、傷を治し、寒い夜には布をかける。それは——僕がやっていることと、何が違う?


僕は、そう思った。


思った、その次の瞬間だった。


——狼が、続けた。


『やくそく、した』


僕の頭の中で、なにかが、止まった。


『やくそく』


『みなみ、いく』


『みなみ、つち、ある』


『しか、いる』


『むれ、みんな、つれてく』


『やくそく、した』


——僕の背中を、冷たいものが走った。


やくそく。


——この語を、僕たちは知らない。


正確に言うと、僕は知っている。当たり前に知っている。


だが、うちの子たちは、知らない。


僕は、3ヶ月かけて、アズキに「約束」を送ろうとしたことがある。何度もある。「あとで散歩に行くよ」「明日また来るよ」「待ってて」。


そのたびに、返ってきたのは、『……』だった。


沈黙。


うちのアズキも、ススキも、モチも、ヒバリも、誰一人、「やくそく」という語を持っていない。


——なのに、この狼は、持っている。


誰かが、教えたのだ。


僕は、狼の首を見た。


毛のあいだに、細いものが光っていた。


銀色の環。


指2本ぶんの幅で、首を一周している。留め金がない。継ぎ目もない。どうやってはめたのか分からない構造をしている。


僕は、そっと触れた。


冷たくなかった。金属ではない。


『これは』


『しるし』


『しるし?』


『やくそく、の、しるし』


僕は、手を離した。


『……その約束は』


僕は、慎重に送った。


『誰と、したの』


『ひと』


『どの人』


『いい、ひと』


『……』


『やくそく、まもって、くれる』


——僕は、雪の上で、動けなくなった。


『やくそく、まもって、くれる』


もう1度、来た。


その響きに、疑いは、一かけらもなかった。


疑うという発想が、ない。


——獣は、嘘をつかない。


これは、僕がこの半年で身をもって知ったことだ。


うちの子たちは、1度も、僕に嘘をついていない。腹が減っていないのに減ったと言ったことはない。痛くないのに痛いと言ったこともない。「嘘をつく」という行為そのものが、この子たちの中に存在しない。


だから、念話で得た情報は、常に正しい。


——ただし。


その獣が、誤解している場合は。


その誤解が、そのまま、届く。


「……」


僕は、口を開けた。


声が出なかった。


灰色の大狼は、満足そうに、尻尾を1度振った。


そして、身を翻して、北へ走っていった。


——雪煙が上がって、それが消えるまで、僕は座っていた。


背後から、馬の足音が来た。


「おい」


リーゼだった。


馬を飛び降りて、僕の肩を叩いた。


「おい。どうした」


僕は、彼女を見上げた。


「なにを聞いた」


——僕は、掠れた声で、言った。


「……あの子たち、騙されてます」


リーゼの手が、止まった。


「なんだと」


「約束されてるんです。南に土地があるって。群れも全部連れて行くって」


「それは」


「あの子は、信じてます」


僕は言った。


「本気で、信じてます」


——リーゼが、何か言おうとした。


言葉が出てこなかったらしい。


彼女は、僕の肩を掴んだまま、北を見ていた。


——雪が、降り始めていた。


——その日、砦に戻ってから、僕は数を数えた。


うちの子は、24体になっていた。緩衝地帯からの帰り道、はぐれた雪狐が1頭、ついてきたからだ。名を「コナ」とした。


念話は、半径1km。同時に、5体。


——それが、そのときの僕の全部だった。


そして、僕の24体の誰一人、「やくそく」という語を知らなかった。

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