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#26 山の主に、頼みごとがあります

ヴィンド地方の最奥に、雲を突く岩山がある。


名前はない。


正確に言うと、地図には「近づくべからざる山」としか書かれていない。


そこに、古竜オーガスがいる。


全長40m。年齢は800年以上とされる。第4級・神獣。


王国がこの山に出していたのは、200年前からの禁足の触れだけだった。危険度の等級は、長いこと付いていない。等級を付けるには、誰かがそばまで行って測らなければならないからだ。200年間、誰も行かなかった。


それが、先週、変わった。


ギンが星5つの6件目になったとき、王都の合議にて「では、あの山にいるものは何なのか」に行き着いたらしい。誰も測っていないとは言え、いつまでも空欄にしておけなくなったのだと思う。


星5つ、7件目。


——そして、その指定の内容は、200年前の触れと、一字も変わらなかった。


「近づくな」


それだけである。


討伐命令ではない。監視命令でもない。200年間、ヴェリシア王国が古竜に対して出している唯一の指示は、「近づくな」という4文字だった。


——僕は、登ることにした。


「死ぬぞ」


リーゼは、そう言った。


砦の中庭で、彼女は僕の襟を掴んでいた。


「国が200年間、放っておくと決めたものだ。分かってるのか」


「分かってます」


「分かってない」


「戦いに行くわけじゃないです」


「じゃあ何をしに行く」


僕は答えた。


「ちょっと聞くだけです」


——彼女は、たっぷり10秒、僕を睨んでいた。


それから、手を離した。


「……ヒバリを出す。中腹まで運ばせる」


「いいんですか」


「歩いて登られる方が面倒だ。日が暮れる」


彼女は僕に背中を向けて、それからこう言った。


「4時間だ」


「え?」


「4時間で降りてこなければ、わたしが迎えに行く」


「危ないですよ」


「知るか」


——中腹から先は、歩いた。


雪と岩だ。木がない。標高が高すぎて、木が生えない。


風がまっすぐ吹き抜けていく。息を吸うと、肺の内側が痛い。


ギンを連れてきていた。


体重、7.2kg。もう抱えると重い。この子は雪の上を、沈まずに歩いた。


『雪、平気なんだ』


『……ふつう』


「僕は膝まで沈んでるんだけど」


『……ユウマ、おもい』


「うるさい」


——岩棚に出たのは、2時間登ったあとだった。


風が、急に止んだ。


そこは、山の南面が抉れたような、大きな窪みだった。


差し渡し、100m。


そして、その奥に。


——山があった。


いや、山ではない。


最初、僕は本当に岩の尾根だと思った。灰褐色で、雪が積もっていて、苔が生えている。


だが、その尾根の端に、瞼があった。


閉じている。


長さ、4mくらいの瞼が。


僕は、そこで初めて全体を把握した。


全長40m。


体を折り曲げて、岩棚に伏せている。翼は畳まれていて、その畳まれた翼だけで、ヴァルデン砦の稜堡と同じくらいの高さがある。角が4本。そのうち1本は、根元から折れていた。


雪が、その背中に積もっている。


積もっているということは——長いあいだ、動いていないということだ。


「……」


僕は、声を出さなかった。


出せなかった、が正しい。


膝が、勝手に震えていた。


これは怖いというのとは、少し違った。人間の体は、あまりに大きいものを目の前にすると、勝手に反応する。海を初めて見たときとか、雷が近くに落ちたときとか、あれと同じだ。


僕は、岩棚に座った。


いつもどおり、横を向いて、視線は地面。膝の上に腕を置いて、動かない。


そして、待った。


——4時間かかった。


話せることが、本当にない。


風が止んでいるので、雪も降らない。音がない。時間の経ち方が分からない。日の傾きだけが手がかりだった。


1時間。何も起きない。


2時間。手の指の感覚が消えた。


3時間。ギンが僕の膝の上で寝た。神獣が寝た。もう1体の神獣の目の前で寝た。


4時間。


——頭の中に、それが落ちてきた。


『ちいさいの』


僕は、動きを止めた。


契約は、していない。


触れられてもいない。


なのに、通じた。


——格が、違いすぎるのだ。


僕の念話は、テイムした獣としか繋がらない。それが原則だ。だがこの相手は、原則の外側にいた。僕が繋いだのではない。向こうが、勝手に届かせてきた。


瞼は、閉じたままだった。


『ちいさいの』


『はい』


僕は、答えた。


『なにか』


——短い。


たった1語で、来る。


僕は、正直に話すことにした。


考えても仕方がなかった。この相手に駆け引きが通じるとは、まったく思えなかった。


『北が、寒くなっています』


『……』


『20年で、3度。麦が実らなくなって、木の実が減って、鹿が南へ下りました』


『……』


『狼が、家畜を襲うようになりました。人が、狼を殺そうとしています』


『……』


『そして、たぶん、もっと北はさらにひどいです。人間同士が、戦争を始めそうです』


僕は、そこで1度、切った。


——長い沈黙があった。


体感で、20分くらい。


その20分のあいだ、僕は、なにも言わなかった。


そして。


『めんどう』


——僕は、笑いそうになった。


こらえた。


『めんどう』


『はい』


『にんげん、めんどう』


『はい。すみません』


『……』


僕は、そこで、食い下がらなかった。


食い下がっても無駄だと思ったのではない。この相手に対して、粘るというのが、あまりにも失礼な気がしたのだ。


800年である。


800年生きた相手に、17年しか生きていない人間が、粘る。あり得ない。


僕は立ち上がった。


膝が笑って、2回ふらついた。


そして、頭を下げた。


深く。


「1度だけ、手伝っていただけませんか」


声に出して言った。


「本当に、1度だけ。……失礼しました」


僕は、背を向けて歩き出した。


——背中に、それが届いた。


『いちど、だけ』


僕は、止まった。


振り返らなかった。振り返る勇気がなかった。


『いちど、だけ』


『……ありがとうございます』


『いけ』


——それだけだった。


契約は、結ばれていない。


テイムもしていない。触れてもいない。この相手は、誰も選ばない。800年、誰のものにもなっていない。


あるのは、口約束だけだ。


1度だけ。


それが、いつなのか、何をしてくれるのかは、何一つ決まっていない。


——僕は、岩棚を降りた。


10歩ほど降りたところで、膝が完全に抜けた。


そのまま、雪の上に座り込んだ。


手が震えていた。指が言うことを聞かない。歯が鳴っている。寒さのせいだと思いたかったが、たぶん半分は違った。


ギンが、膝の上に乗ってきた。


7.2kgの温かい塊が、腹にくっつく。


僕は、それを両手で抱き上げた。


「……ギン」


『ユウマ』


「僕、たぶん、すごいことしたよね?」


『……』


「すごくない?」


『はら、へった』


——僕は、雪の上で、声を上げて笑った。


笑って、それから、涙が出た。たぶん緊張が抜けたのだと思う。


「そうだよな。腹減ったよな」


『へった』


「うん。降りよう」


『いく』


——中腹まで降りたら、リーゼが立っていた。


ヒバリの手綱を握って、雪の中に。


彼女は僕を見て、それから、腕を組んだ。


「4時間17分だ」


「あ」


「17分、過ぎてる」


「すみません」


「登ろうとしたところだ」


「……本当にすみません」


彼女は、僕の顔を見た。


それから、僕の後ろの、山の上を見た。


「生きてるな」


「はい」


「あれと、話したのか」


「話しました」


「……なんて言ってた」


僕は、正直に答えた。


「面倒くさい、と」


リーゼは、口を開けた。


そして、しばらくして、噴き出した。


腹を抱えて、雪の上で笑った。竜騎士が。


「面倒くさい!」


「はい」


「800年生きた古竜が!」


「はい」


「面倒くさい!」


「そう言ってました」


彼女は目尻を拭って、それから、真顔に戻った。


「で、断られたのか」


「1度だけ、貸してくれるそうです」


——リーゼの顔から、笑いが消えた。


完全に。


「……なんだと」


「1度だけ、と」


「約束したのか」


「約束という言葉は、まだあの子たちには通じないので」僕は言った。「口だけです。なんの形もありません。契約もしてません。ただ、そう言われただけです」


彼女は、僕を見た。


長いこと見た。


それから、ヒバリの手綱を僕に押しつけて、こう言った。


「お前、いつか死ぬぞ」


「はい」


「返事が軽い」


「……はい」


——砦に戻ったのは、夜だった。


エステルが《癒し》をかけながら、僕の凍傷になりかけた指を30分揉んだ。痛かった。


アーリアは、記録を取りながら、1度だけ手を止めて、こう聞いた。


「ユウマさん。怖くはありませんでしたか」


「怖かったです」


「それでも、行かれた」


「はい」


「なぜですか」


僕は、少し考えて、答えた。


「聞かないと、分からないので」


彼女は、それを帳面に書いた。


書いてから、しばらく、その1行を見ていた。

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