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#25 左手で書く人

12月に入った。


僕らはヴァルデン砦を拠点にして、北の3村を回り続けていた。餌場が機能しているかを確認し、被害の記録を取り、村人の話を聞く。


そして、夜は、古文書を読む。


砦の3階に、記録室がある。国境の駐屯地というのは、思っている以上に紙の量が多い。200年ぶんの哨戒記録、補給の帳簿、境界の取り決め、そして——この地方の教会が保管していた、古い写本の束。


王都の書庫にない巻が、2冊あった。


アーリアは、毎晩そこにいた。


「ユウマ様。第14巻の、32頁から参ります」


「はい」


トトが羽根ペンを構える。この子は北まで来て、なお記録係をやっている。獣の世話と両方だ。ちゃんと寝られているのか心配だ。


——その夜、僕は、それに気づいた。


アーリアが、左手で筆を持っていた。


——正確に言うと、気づいたのは、その夜が初めてではない。


書庫でも、そうだった。宿でも、そうだった。


僕はたぶん、2ヶ月前から見ていた。見ていて、認識していなかった。


その夜、蝋燭が彼女の左側にあった。


だから、書く手の影が、書いた文字の上に落ちていた。書きにくそうだった。彼女は蝋燭を右へ移した。


そこで、僕は、ようやく認識した。


「アーリア様」


「はい」


「左利きなんですね」


彼女は、筆を止めた。


そして、自分の左手を見た。


「……そうなのです」


「珍しいですか、こっちだと」


「珍しくはありません。ですが、王家では」


彼女は少し笑った。


「行儀が悪いと叱られるのです。幼いころから、何度も直されました。作法の教師には、3年つきました」


「直らなかったんですね」


「どうしても、直すことができなくて」


彼女は、筆を持ち直した。


「不思議なのです。右で書けと言われれば、書けます。書けるのに、気を抜くと、必ず左に戻っております。……手が、勝手に」


——僕は、口を開いた。


「僕の——」


そこで、止まった。


僕の、幼なじみも。


言いかけて、喉のところで止まった。


——僕は、まだ他人に話せない。


エステルにも、名前は言わなかった。事故のことも言わなかった。


言わなかったのは、憐れまれたくないからだと、あのときは思った。


だが本当は、たぶん違う。


僕はまだ、あいつのことを、過去形で語る練習ができていない。


だから僕は、話題を変えた。


「あ、いえ。それより、この巻、頁の端が変じゃないですか。ここ、切ってありますよね」


「……」


アーリアは、少しのあいだ、僕を見ていた。


それから、頁の端に目を落とした。


「切ってあります。刃物です」


「王都のと同じですか」


「いいえ。あちらは削り。こちらは切除です。手口が違います」


——話は、そのまま進んだ。


ひとしきり手口の話をしてから、僕は、もう1つ、思いついたことを口にした。


「アーリア様」


「はい」


「その、『様』って、やめませんか」


彼女は、筆を止めた。


「わたくしが、ですか」


「はい。僕、食客なので。というか、身分がないので。呼ばれるたびに、誰の話だろうって一瞬考えるんです」


「ですが、王家の落ち度で呼ばれた方を——」


「半年経ちました」


僕は言った。


「もう、そこはいいです」


アーリアは、少しのあいだ、僕を見ていた。


それから、視線を落として、口の中で何か3つほど試しているような顔をした。


「……ユウマ、さん」


「はい」


「ユウマさん」


「それでお願いします」


「では、そのように」


彼女は頷いて、それから、なぜか耳の後ろを掻いた。この人がそんな仕草をするのを、僕は初めて見た。


トトが、羽根ペンを止めて、僕らを交互に見ていた。


「なに」


「べつに!」


——僕は、自分が話題を変えたことを、その夜のうちに忘れた。


——ヴィルマからの続報が届いたのは、その3日後だった。


飛竜便で来た書付を、アーリアが読み上げた。


内容は三点。


一点目。帰還術式の骨格が、7割まで組み上がった。


二点目。残りの3割は、「還りの座標」の記述である。これが、削られた40行に書いてあったと推定される。


三点目。


——これが問題だった。


「『召喚の座標について、新たに確認された。術式は、向こう側の世界において、強い想いが結び付いた場所を掴む。これは比喩ではなく、術式の文言そのものである。すなわち、綿貫悠真が召喚の瞬間に立っていた地点は、その条件を満たしていたことになる』」


アーリアが、そこで読むのを止めた。


「ユウマさん」


「はい」


「あなたは、どこに立っておられたのですか」


僕は、答えなかった。


——あの交差点。


片側2車線。コンビニ。色の褪せたカーブミラー。電柱に巻かれた黄色いテープ。


ガードレールの支柱の下に、白い花束。


しゃがんで、言いかけて。


「……道の、交わるところです」


僕は、そう言った。


「道?」


「はい。車が通る道が、十字に交わってるところです。信号があって、人が渡って」


「それが、強い想いの結び目、ですか」


「……そうみたいですね」


僕は、そこで、考えるのをやめた。


正直に言うと、頭の中で何かが1度、かちりと音を立てた。


あの交差点が「強い想いの結び目」なのだとしたら、その想いは誰のものだ、という問いが、確かに一瞬、浮かんだ。


浮かんで、僕はそれを、押しやった。


押して、閉じた。


そして「不思議ですね」と言った。


トトが「兄ちゃん、記録どうする?」と聞いてきて、僕は「そのまま書いといて」と答えた。


それで、その夜の話は終わった。


——ギンの話をする。


12月8日。


トトが、獣の体重を量る日だった。この子は5日に1度、全員を量って記録している。絵ではなく、名前と数字で書く。ちゃんとしている。


秤に、ギンを乗せた。


トトの手が、止まった。


「……兄ちゃん」


「うん」


「兄ちゃん、これ」


「うん?」


「5kg超えてる」


「え」


僕は覗き込んだ。


5.2kg。


4日前は、3.2kgだった。


「……2kg?」


「4日で2kg!」


「4日で」


「兄ちゃん、この子おかしいよ!」


トトは秤を持ち上げて、振った。壊れているのを期待したのだと思う。壊れていなかった。3回量って、3回とも5.2kgだった。


僕は、床の上のギンを見た。


体長は、26cmになっていた。拾ったときが20cmだ。


上着の内ポケットには、もう入らない。


『ユウマ』


『はら、へった』


「……お前」


『はら、へった』


「さっき食べただろ」


『へった』


——この子は、初めて食べた日から、食べる量が1日ごとに増えている。


昨日は山羊の乳を1Lと、刻んだ肉を400g。


今日は、それの倍を食べた。


ドーラがいたら泣くと思う。


僕は、そのとき初めて、うっすらと不安になった。


体長20cm、体重2.1kgで拾った。


17日で、5.2kg。


——この子は、どこまで大きくなるんだ。


伝承では、山を凍らせるという。


軍を退けるという。


僕の膝の上で腹を出して寝ているこいつが、いつか、そうなるのか。


「……なあ」


『ユウマ』


「お前、大きくなるの?」


『……』


沈黙。


「どのくらい大きくなる?」


『……』


そりゃそうだ。


——ところで、その夜、事件が起きた。


事件というほどでもない。


僕が水を飲もうとして、卓の上の水差しに手を伸ばしたときだ。


背後で、扉が大きな音を立てて閉まった。


風だ。北の風は、扉を叩きつける。


僕は驚いた。


——僕より、ギンが驚いた。


膝の上で寝ていたのが、跳ね起きて、僕の腕に前肢をかけた。


その瞬間。


——ぱき、と音がした。


水差しが、白くなった。


正確に言うと、水差しの中の水が、上から下まで、一瞬で凍った。


陶器にひびが入って、水差しは真ん中から割れた。中身は、氷の柱になって、卓の上に立っていた。


「……」


僕は、氷の柱を見た。


それから、腕にしがみついている綿毛を見た。


「今の、お前?」


『……』


「今の、お前だよな?」


『……こわい』


「うん、扉、うるさかったね」


『こわい』


「大丈夫だから」


僕は、卓の上の氷の柱を、指で叩いた。


かん、と硬い音がした。


——この子は、たった今、何も考えずに、部屋の中の水を全部凍らせた。


僕はゆっくり、床に座った。


『ギン』


『ユウマ』


『これ、お前の力?』


『……』


『冷たいの、出せる?』


『……だせる』


「……出せるんだ」


僕は、少しのあいだ、天井を見ていた。


それから、真面目な顔でこう言った。


『じゃあ、約束——じゃない。えっと』


「約束」が通じないのは、分かっていた。


だから言い換えた。


『僕が、いい、って言ったときだけ』


『……』


『僕が、いい、って言うまで、出さない』


『……わかった』


「よし」


僕は、ギンの頭を撫でた。


指が沈む。手首まで沈みそうな綿毛の下に、硬い頭蓋骨がある。


そのとき、廊下から悲鳴が聞こえた。


トトだった。


「兄ちゃーん!! 井戸が凍ってる!!」


——部屋の中だけではなかったらしい。


——翌朝、砦の井戸を溶かすのに、火を焚いて2時間かかった。


僕は守備隊長に頭を下げた。


隊長は、僕の後ろの綿毛を見て、それから、何も言わずに帰っていった。


その日、砦の中での「神獣」の扱いが、少し変わった。


それと、誰も廊下を走らなくなった。

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