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#24 聖女様、それは反則です

残った4頭のうち、後肢を引きずっている牝の話をする。


推定3歳。左の後肢が、地面につくたびに外へ流れる。走ると遅れる。だから群れに置いていかれた。


僕は雪の上でその子を触って、聞いた。


『いたい?』


『……いたい』


『いつから』


『……まえ』


『どのくらい前』


『……ねる、まえ』


——これは、僕らの言葉に直すと「昨日」ではない。


獣に「日」の概念はない。「ねる、まえ」というのは、寝る前、つまり直近の睡眠より前、という意味だ。それより古いことは、全部「まえ」で一括りになる。


つまり、少なくとも1晩以上前から痛い。


僕は脚を触った。


膝ではない。股関節だ。骨盤との接合部が、外側に浮いている。触ると、明らかに位置がおかしい。


「エステルさん」


「はい」


「これ、《癒し》で戻りますか」


彼女は雪の上に膝をついて、僕の指した場所に手を伸ばして——止まった。


止まって、3秒。


それから、そのまま手を置いた。


——12日前、この人は熊の毛の玉に触るのに7日かかった。


今、狼の後肢に、素手で触っている。


「……骨が、外れています」


「脱臼ですね」


「はい。ですが、古い。周りの肉が、この位置で固まってしまっています」


「戻せますか」


「1度で戻せば、その肉が裂けます」


彼女は顔を上げなかった。手を置いたまま、考えていた。


「10日いただけますか。少しずつ、肉のほうを緩めながら戻します。……ただ、痛みます。この子は、じっとしていてくれるでしょうか」


僕は、狼の顔を見た。


『10日。痛い。でも、あと、走れる』


『……』


沈黙。


10日が通じない。当たり前だ。


僕は言い換えた。


『いたい。あと、はしれる』


『……はしれる?』


「うん」


『……する』


——即答だった。


「やるそうです」


エステルは、ゆっくり息を吐いた。


「では、始めます」


その子には、あとで名前をつけた。


「ハギ」。


雪の上で、萩の枯れ枝みたいな脚の運びをしていたからだ。9日目に、この子は自分の脚で走った。走って、雪の中に頭から突っ込んで、若い3頭に囲まれて、じゃれられていた。


エステルは、それを、離れたところから見ていた。


——教会本部から催促が来たのは、その翌日だった。


僕は内容を知らない。


知らないが、その日から、彼女の様子が変わった。


具体的に言うと、動作から間が消えた。


この人は、喋るときに必ず一拍おく。歩き方がゆっくりで、振り向くときにも半拍ためる。それが、なくなった。


普通の速さになった。


——その日の夜、彼女は僕の部屋を訪ねてきた。


——最初に気づいたのは、匂いだった。


扉を開けたら、香が焚かれていた。


僕の部屋で。


「あの、エステルさん?」


「ユウマ様」


灯りが、落としてあった。


蝋燭が1本だけ、寝台の反対側の卓に置かれている。部屋の半分が暗い。


彼女は、その灯りの手前に立った。


そして、肩から、衣を落とした。


「——」


僕の頭が、真っ白になった。


正確に言うと、真っ白になったあと、猛烈な勢いで無関係な情報が流れ込んできた。蝋燭の炎の揺れ方から見て空気の流れが右から左だとか、香は樹脂系で燻すと部屋に匂いが残るとか、この部屋の窓は北向きだから今夜は冷えるとか。


人間は本当に驚くと、こういうふうになる。


「わたくしを」


彼女の声が、震えていた。


「選んで、くださいませんか」


——僕が最初にやったのは、窓を開けることだった。


「あっ、ちょっ、ユウマ様!?」


「すみません、煙たくて」


本当に煙たかった。


香というのは、狭い部屋で焚くものではない。しかも僕は最近ずっと《利き鼻》を借りている。感度が落ちない日がある。


窓を開けたら、雪の匂いのする冷たい空気が入ってきて、蝋燭が横に寝た。


そして、寒かった。


僕は上着を脱いで、彼女の肩にかけた。


獣舎の匂いのする上着を。


「風邪引きますよ」


「……」


「北の冬は、南とは違うので。エステルさん、南の生まれって言ってましたよね」


「……ユウマ様」


「はい」


「わたくしは、いま」


「はい」


「……なにをされているか、分かっておいでですか」


僕は、正直に答えた。


「半分くらいは」


「半分」


「はい。……半分は、たぶん、分かってません」


これは本当だ。


とぼけていたわけではない。この人が何をしようとしているのかは、さすがに分かった。分かったが、なぜ今日なのか、なぜここまでするのか、そういうことは、まるで分からなかった。


エステルは、上着の襟を、両手で握っていた。


そして、俯いたまま、言った。


「わたくしでは、駄目ですか」


——そこで、僕は、分かった。


一瞬で分かった。


分かってしまうと、逃げ場がなかった。


「……エステルさん」


「はい」


「座ってもらっていいですか」


彼女は、寝台の端に座った。


僕は、床に座った。


灯りが1本だけの部屋で、窓が開いていて、外から雪の匂いが入ってきていた。


「エステルさんが、駄目とかじゃないです」


僕は言った。


「エステルさんは、すごい人です。本当に。あの熊に触れたとき、僕、本気で感動しました。あと、今日のハギの脚。あれ、普通できないです。10日かけて緩めながら戻すって、あれ、痛いのは獣のほうですけど、しんどいのは治療するほうです」


「……」


「僕は、あなたのことを尊敬しています」


「では」


「でも、僕が駄目なんです」


彼女が、顔を上げた。


「……理由を、伺っても?」


「はい」


僕は、少しのあいだ、黙った。


言うべきかどうかを迷ったのではない。どう言えば、この人に対して失礼にならないかを考えていた。


——思い出したのは、去年の秋のことだった。


10月の、文化祭の片づけの日。


僕と灯は、体育館の裏で、パイプ椅子を運んでいた。


夕方で、空が橙色で、2人とも埃だらけだった。灯が椅子を運びながら「腕、限界」と言って、僕が「あと12脚」と言って、あいつが「数えないでよ」と言った。


最後の1脚を置いて、2人で座り込んだ。


そのとき、灯が、なにか言いかけた。


「あのさ、ゆうくん」


「うん」


「……」


「なに」


「……ううん。なんでもない」


僕は、そのとき、追いかけなかった。


追いかければよかった。「なんでもなくないだろ」と言えばよかった。


言えなかったのは、僕にも、言いかけていたことがあったからだ。


僕は「そっか」と言った。


あいつは「うん」と言った。


それで終わった。


体育館の裏で、2人で、橙色の空を見ていた。


——それから半年後に、あいつは死んだ。


僕は、床に座ったまま、言った。


「僕は、想いを伝えられないままなんです」


エステルが、僕を見た。


「ずっと、会えない彼女のことを、想ってるんです」


「……会えない」


「はい」


「遠くに、いらっしゃるのですか」


「遠いです」


僕は、それだけ言った。


名前は言わなかった。事故のことも言わなかった。死んだことも言わなかった。


言わなかったのは、隠したかったからではない。


そこまで言うと、この人が僕を憐れんでしまう。憐れみで話が終わるのは、この人に対して、いちばん失礼だと思った。


「……ずるい方」


エステルは、そう言った。


顔を上げていた。


泣いていた。


泣きながら、笑っていた。


化粧が落ちていた。目が赤くて、鼻の頭も赤くて、上着の襟を握った手が白かった。


「わたくしは、47日、あなたのおそばにおりました」


「47日ですか」


「数えておりました」


「すごいですね」


「すごくありません」彼女は笑った。


「47日かけて、1度も、勝負にすらなっておりませんでした」


「……すみません」


「謝らないでください」


彼女は、上着の袖で、目を拭いた。


僕の、獣舎の匂いのする上着で。


「臭い」


「臭いです」


「本当に、臭いですね」


「はい」


彼女は、声を上げて笑った。


——翌朝。


彼女は僕より早く起きて、報告書を書いていた。


僕が食堂に降りたとき、机の上で、それを封じているところだった。


「なんて書いたんですか」


「お読みになりますか」


「読めません」


「そうでしたね」


彼女は、封をする手を止めて、読み上げた。


「『対象への懐柔は不可能である。理由は、対象が既に、こちらの介入し得ぬ何かに全面的に忠実であるため』」


「難しいですね」


「短くしますと」


「はい」


「『無理でした』です」


「短いですね」


彼女は笑った。


——彼女は、教会に戻らなかった。


正確には、報告書だけを飛ばして、本人は残った。


「役目は降りました」彼女は言った。


「ですが、いなくなるとは申しておりません。ここには、脚の悪い狼と、顔を刺された熊と、翼を傷めた竜がおります。《癒し》の使い手が1人いて、悪いことはないでしょう」


そう言って、彼女は部屋を出ていった。


出ていくとき、廊下の隅に寝ていたモチの背を、撫でていった。


——400kgは、目も開けなかった。


『……あのひと……』


『……いい……におい……』


「うん」


『……しろいの……にてる……』


「え?」


『……におい……』


『……にてる……』


僕は、自分の上着の匂いを嗅いだ。


獣舎の匂いがした。

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