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#23 氷牙狼は嘘をついていない

神獣の処遇は、3日で決まった。


裁定は簡潔だった。「綿貫悠真の管理下に置く。移動は自由。ただし所在を毎日報告すること」。


要するに、誰も責任を取りたくなかったのだと思う。


僕はそれで構わなかった。ギンは僕の上着から出ようとしないし、出したところで今のところできることは、靴下を引っ張ることと、書類を齧ることだけである。


——本題は、氷牙狼だった。


3日のあいだに、被害が2件増えていた。


ロヴィ村で羊が6頭。隣の村で仔牛が2頭。


王都からの回答も来ていた。星4つの討伐指定を維持。部隊は年明けに編成。それまで各村は籠城せよ。


「年明け」


リーゼは、その1語を、2回言った。


「年明けまで、この村の家畜が保つと思うか」


「保ちませんね」代官が答えた。


「しかし、部隊なしでは……」


「ユウマ」


彼女は僕を見た。


ただ、名前を呼んだ。


僕は「はい」と言った。


——雪原に、僕は1人で出た。


村の柵から600m。開けた雪原の真ん中。


条件は、悪かった。


まず、風がある。匂いが流れる。


次に、視界がいい。狼は開けた場所に出たがらない。


そして何より、寒い。


僕は雪の上に敷き革を1枚敷いて、そこに座った。


外套の下に、ギンがいる。3.4kg。今朝また量った。この子が体温を出してくれるので、胸のあたりだけは暖かい。


『ギン。動かないでね』


『……』


沈黙。この子はまだ2語しか喋らない。


村の柵の上には、リーゼと兵が並んでいる。エステルが《癒し》の準備をしている。アーリアは代官のところへ行っていて、いない。


僕は、座った。


そして、待った。


——2時間かかった。


森狼が17分。モチが52分。


2時間である。


体感では、5時間くらいあった。


まず、足の指の感覚がなくなった。次に、膝から下が痛くなって、そのあと、痛みも消えた。あれはまずい兆候だと知識では知っていたが、動くわけにはいかなかった。


雪が降り始めた。


肩に積もった。膝に積もった。


僕は、雪だるまみたいになっていった。


——たぶん、それがよかったのだと思う。


1時間半を過ぎたころから、雪原の縁に、影が出るようになった。


見ない。


顔を上げない。数えない。


数えたくてたまらないのを、我慢する。


2時間。


雪を踏む音が、正面で止まった。


——熱い息が、頭の上から降ってきた。


僕は、目だけを上げた。


大きい。


肩の高さが、座っている僕の目線より上にある。立てば、たぶん僕の胸まで来る。


灰色に近い白。首の周りの毛が、襟巻きみたいに膨らんでいる。


そして——右目が、なかった。


古い傷だ。眼窩が塞がって、毛が生えている。


その1つ残った目が、僕を見ていた。


鼻先が、僕の手の甲に触れた。


後頭部が、じんわり温かくなる。


——そして、流れ込んできた。


『しか、いない』


僕は、息を吐いた。


森狼のときと同じだ。敵意はなかった。


『しか、いない』


『こども、はら、へった』


『きた、さむい』


——それだけだった。


『まえ、しか、いた』


『いま、いない』


「……前は、いた」


『いた』


『たくさん』


『いま、いない』


——時間の語だ。


「前」と「今」を、この子は使い分けた。


僕は、そのとき初めて、うちの子たちがこの1ヶ月で新しい語を覚えていたことに気づいた。ススキが『まえ、たべた』と言ったのを、2週間前に聞いていた。聞き流していた。


僕は、雪の上で、体の向きを変えずに、言葉を選んだ。


『山羊、食べた』


『たべた』


『人の、山羊』


『……』


沈黙。


「人の」が通じない。所有の概念が、まだ足りない。


僕は言い換えた。


『あれは、ぼくの、山羊』


『……』


『ぼくの』


『……ぼくの』


——返ってきた。


意味を掴んだかどうかは分からない。だが、語としては返ってきた。


『あれは、ぼくの、山羊。あれ、食べる、だめ』


『……はら、へった』


『分かってる』


『こども、へった』


『分かってる』


僕は、そこで、いったん切った。


責めても仕方がない。この子たちは何も間違っていない。嘘のひとつもない。腹が減って、目の前に食えるものがあって、それを食った。それだけだ。


問題は、鹿がどこへ行ったかである。


——僕は、2つ借りた。


『ヒバリ。目、かして』


北の空で旋回しているヒバリから、返事が来た。


『いい』


『アズキ。鼻、かして』


村の柵の上から。


『いいよ!』


順番を守る。まず視覚。それから嗅覚。


——雪原が、開いた。


《遠目》は、雪の上では効きが違う。白すぎて、輪郭が飛ぶ。だが逆に、白の上にある色は、異常にはっきり見える。


僕は、南東を見た。


丘。その向こうの、雲。雲の下の、山の稜線。


稜線の手前に、谷が1つある。


そこだけ、雪の色が違った。


緑がかっている。木が生えている。針葉樹だ。


——そして、匂いが来た。


風は北から吹いている。南東からは来ない。


だが、地形が風を回している。谷から吹き上がった空気が、丘の背で巻いて、こちらへ落ちてくる。《風読み》を借りていないのに、それが分かった。分かったのは、渦の中に、匂いが乗っていたからだ。


獣の匂い。草食の。糞に木の芽が混じっている。


鹿だ。


数が、多い。


——越冬地が、移っている。


北が寒くなって、鹿は南へ下った。だがその谷は、地形の関係で風が入らない。だから雪が浅く、木の芽が出ている。だから鹿が集まった。


狼たちは、そこを知らない。


知らないのは、彼らの縄張りが、その谷を含んでいなかったからだ。


僕はスキルを返した。


じわじわと。急に切ってはいけない。


そして——ここからが、問題だった。


『あっち。鹿、いる』


僕は、右目のない牡に送った。


『……』


沈黙。


やっぱりだ。


「あっち」は通じる。「鹿」も通じる。「いる」も通じる。


だが、僕が指す「あっち」と、この子の頭の中の「あっち」が、噛み合わない。


300m先の「あっち」なら、鼻を上げれば分かる。


12km先の「あっち」は、この子の世界に存在しない。


——だから僕は、また、喋るのをやめた。


『におい』


僕は、それだけ送った。


そして、立ち上がった。


膝から下の感覚がなかったので、2回転んだ。


3回目でようやく立って、僕は南東へ歩き出した。


雪原を、ずっとずっと。


丘の背まで。


そこは、風が巻いている場所だ。


——後ろから、足音がついてきていた。


1頭ではない。


僕は振り返らなかった。振り返ったら止まる。


丘の背に立って、僕は南東を向いた。


風が、ちょうど下から吹き上げてきた。谷からの空気の渦。その渦の中に、薄っすらと獣の匂いが乗っていた。


——鼻が、上がった。


僕の隣で、右目のない牡が、鼻を上げていた。


そして、喉の奥で、低く、長く鳴いた。


——雪原から、湧いた。


1頭。3頭。8頭。15頭。


白い。全部が白い。氷牙狼というのは、冬毛になると本当に真っ白になる。だから雪原にいると、動くまで分からない。


僕の周りに、40を超える狼が集まった。


——ここで、僕は無理をした。


正直に言う。


僕はこのとき、40頭に、同時に届けようとした。


僕の限界は、3体である。半径200m、同時3体。それが11月時点の僕の全部だった。


だが、右目のない牡だけに送っても、全部には伝わらない。狼は群れで動くが、群れの全員が長の判断に従うわけではない。特に、子連れの牝は別の判断をする。


だから僕は、掴んだ。


3体を超えて、4体、5体、6体。


——頭の中が、白くなった。


視野の縁が、欠けた。


7体。


耳の奥で、金属を擦るような音が鳴った。


8体。


『きた、さむい』


『こども』


『はら、へった』


『さむい』


『しか』


『どこ』


『どこ』


『どこ』


——8つの声が、同時に来た。


僕は、口を開けて、声を出さずに、こう送った。


『あっち』


『におい』


『しか』


『みんなの』


——最後の1語は、賭けだった。


「ぼくの」が通じたなら、「みんなの」も通じるかもしれないと思った。


通じた。


8頭の耳が、同時に、南東を向いた。


——そして。


鼻から、血が落ちた。


雪の上に、赤い点が3つ、並んだ。


視野が、右半分なくなった。


僕は、膝から落ちた。


雪が、顔に当たった。冷たいはずなのに、感覚がなかった。


遠くで、誰かが叫んでいる。


「ユウマ!」


リーゼの声だ。


僕は、地面に転がったまま、目だけを開けていた。


——狼たちが、動いた。


僕をまたいで、通り過ぎていった。


40頭。


1頭も、僕を踏まなかった。


雪を蹴る音が、後ろから前へ、流れていった。


そして、それは、南東へ向かって、丘を下っていった。


——矢は、1本も射られていない。


村の柵の上で、守備隊長が兜を脱いだ。


雪の中で、村長が膝をついた。


僕はそのあいだ、雪の上に転がって、空を見ていた。


雪が、顔に落ちてきていた。


「ユウマ!」


リーゼが雪を漕いで走ってきて、僕の襟を掴んで引き起こした。


「鼻血! おい! 鼻血が!」


「あ、はい」


「あ、はい、じゃない!」


「すみません、ちょっと、無理しました」


「ちょっとじゃない!」


エステルが追いついて、僕の顔に手をかざした。


《癒し》は、疲労には効かない。それでも彼女は3回かけて、それから僕の頬を、平手で打った。


軽く、だが確実に。


「二度と、なさらないでください」


「……はい」


「約束していただけますか」


「善処します」


「約束していただけますか」


「……はい」


——後日談を、2つ話しておく。


1つ。アーリアが、代官と領主を動かした。


彼女が提案したのは、単純なことだった。冬のあいだだけ、村の外れに、屠畜の余りを捨てる場所を作る。


村人は最初、猛烈に反対した。狼を呼び寄せてどうする、と。


アーリアは、帳面を開いて、数字を並べた。


「昨年、この3村が失った家畜は、合計で104頭。金額にして、42金貨。屠畜の余りを捨てる分の費用は、冬3ヶ月で、2金貨に届きません」


代官が、口を開けた。


「それに、狼が村の外れに来るのであれば、居場所が分かります。分からないまま夜を過ごすのと、どちらがよろしいですか」


——決まった。


その餌場は、今のところ、順調に続いていると聞いている。


2つ。4頭、残った。


群れが去ったあと、雪原に残っていたのが4頭いた。


2歳以下の若い個体が3頭と、片方の後肢を引きずっている牝が1頭。群れについていけない子たちだ。


僕が村へ戻ろうとしたら、ついてきた。


止まると、止まる。


歩くと、歩く。


——ススキと同じだった。


ススキは、そいつらの前に立って、しばらく黙って向き合っていた。


何を話したのかは、僕には分からない。念話はまだ、僕を経由しないと繋がらない。


そのあと、4頭はススキの後ろについた。


ススキは、僕の3歩後ろについた。


行列である。


——18体になった。

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