#22 星5つ、6件目
翌朝、ギンは僕の枕を占領していた。
夜のあいだに胸から降りて、頭の横まで移動していたらしい。丸まって、鼻先を尻尾に埋めて寝ている。
体重、2.1kg。
上着の内ポケットに、すっぽり入った。
入れて歩いてみたら、上着の左側だけが重くなって、僕は少し斜めになった。ポケットの縁から、黒い鼻先だけが出ていた。
「かわいい」
とアーリアが言った。
「かわいいです」
と僕が言った。
「かわいいですね」
とエステルが言った。
「……なんの生き物だ、それは」
とリーゼが言った。
——それが、問題だった。
正体が分からない。
犬ではない。狐でもない。氷牙狼の仔かとも思ったが、村の猟師が首を振った。氷牙狼の仔は、生まれたとき灰色で、毛はもっと短い。
「白変個体では?」とエステル。
「白変なら目が赤くなることが多いです。この子、目は青いので」
「では」
「分かりません」
分からないものは、鑑定士に見せるのが早い。
ちょうど都合がよかった。ロヴィ村から東へ1日、国境のヴァルデン砦に、王国の鑑定士が駐在している。氷牙狼の件で王都から派遣されてきた男が、そこで足止めを食っていた。
僕らは、そこへ向かった。
ヴァルデン砦は、想像していたより大きかった。
石造りの城壁が二重。北を向いた稜堡が3つ。中に1000人が入る。国境から8kmの位置にあって、この砦から先は、緩衝地帯を挟んでヴォルガード帝国の領土になる。
砦の中庭に入ったとき、僕は2頭の犬に囲まれた。
軍用犬だ。大型で、耳が立っていて、胸が深い。砦の巡回についている。
その2頭が、僕の周りをぐるぐる回って、匂いを嗅いで、それから両方とも僕の手の甲に鼻を触れさせた。
『におい、いっぱい』
『いろんな、におい』
「うん。うち、いろいろいるから」
『いっしょ、いく?』
「いや、君らは仕事があるだろ」
『いく』
——うちの子が、いっぺんに2体増えて、14体になった。
犬係の兵士が、口を開けたまま見ていた。
「あの2頭、普段は人に近づかないのですが」
「そうなんですか」
「ここ数年、私以外に触らせたことがありません」
「すみません」
「いえ、その、なぜ謝るのですか」
——鑑定士の部屋は、砦の2階にあった。
痩せた50代の男で、机の上に道具が並んでいた。水晶の板、目盛りのついた棒、色のついた粉が入った小瓶が12本。
「では、拝見しましょう」
彼は事務的に言った。
「魔獣の幼体でしたら、格の判別はさほど難しくありません。第1級か第2級かは、魔力器官の有無で——」
僕は、上着のポケットから、ギンを出した。
出して、机の上に置いた。
ギンは、机の上で、伸びをした。
前肢を前に投げ出して、尻を上げて、盛大に伸びをして、それから欠伸をした。
鑑定士は、水晶の板を手に取った。
そして、ギンにかざした。
——3秒。
彼の手が、止まった。
水晶の板が、机に落ちた。
がしゃん、という音がして、それから、彼はゆっくりと後ろへ倒れた。
椅子ごと。
「え」
「鑑定士殿!?」
砦の兵が飛び込んできた。
僕は机の上のギンを慌てて抱き上げた。ギンは僕の腕の中で、もう1度欠伸をした。
——鑑定士は、気絶していた。
正確には、失神である。
彼は30分後に目を覚まし、目を覚まして最初に言ったのが「あれは、この砦の中ですか」だった。
「はい」
「出してください」
「え」
「今すぐ出してください。お願いします」
彼は震える手で、羊皮紙に1行書いて、それを飛竜便で王都に飛ばした。
返事が来たのは、翌日の夕方だった。
ヴィルマの筆跡である。
——1行だけだった。
アーリアが、それを読み上げた。
「『フェンリル。第4級・神獣。』」
砦の広間が、しんとした。
僕は、正直に言うと、その名前をゲームでしか聞いたことがなかった。
北欧神話の狼だ。神を食う。世界が終わるときに鎖を引きちぎって出てくる。日本の中学生男子で、この名前を知らないやつはたぶんいない。
ただ、この世界での意味は、僕の知識とは少し違った。
第4級・神獣。
大陸に、数体しかいない。
伝承では、山を凍らせ、軍を退けるとされる。単体で国家に匹敵する災害と見なされ、記録に残っている限り、人間が神獣を「討伐」した例は1件もない。
そして。
危険度、星5つ。
「星5つの発令は」アーリアが言った。声が硬かった。
「ヴェリシア王国が建国以来、5件です」
「5件」
「はい。90年前の飛竜の大群。70年前の南の大蛇。50年前の黒い霧。40年前の東の海に出た大蛸。そして26年前、王都の水路に降りた黒ワニ。——以上の5件だけです」
彼女は帳面を閉じて、顔を上げた。
「これが、6件目になります」
——砦が、揺れた。
比喩ではなく、本当に人が動いた。
伝令が3騎、王都に向けて出た。教会が緊急の合議を開くという知らせが、その日のうちに来た。国境守備隊長が、法衣の書記を4人連れて広間に現れた。
そして。
リーゼが、剣の柄を握ったまま、3分間、動かなかった。
「リーゼさん」
「……」
「リーゼさん」
「……離れろ」
「え?」
「そいつから、離れろと言ってる」
「離れませんよ」
「ユウマ」
「だってこの子、2.1kgですよ」
この日の記憶は、僕の中で、二層に分かれている。
上の層では、大人たちが真剣な顔をして、星5つの意味を議論していた。
下の層では、神獣が、ずっとふざけていた。
まず、法衣の神官が跪こうとした。
「畏れ多くも、我らが前に降り給いし——」
彼が膝を折った、まさにその瞬間。
僕の腕の中で、ギンが寝返りを打った。
そして、落ちた。
「わっ」
ぽす、と音がして、床に落ちた。
落ちて、そのまま、床の上で丸くなって寝直した。
神官は、跪いた姿勢のまま、それを見ていた。
10秒くらい、そのままだった。
次に、国境守備隊長である。
彼は震える手で書類を読み上げていた。
「『……よって、当該個体の身柄は、王国の管理下に置き、以後の処遇については中央の裁定を——』」
その書類の下の端を、ギンが齧っていた。
いつのまにか机に上っていたのだ。
「『——裁定を、あお、仰ぐ、ものと、ぐ』」
「あ、すみません」
僕は書類を引っ張った。ギンが引っ張り返した。
2.1kgと引っ張り合いをした。
負けた。
——夜。
僕は砦の一室で、寝台に座っていた。
窓の外は、雪だった。
膝の上に、綿毛の塊が乗っている。
神獣。大陸に数体。伝承。山を凍らせる。軍を退ける。星5つ、6件目。
——その伝承が今、僕の靴下を引っ張っている。
「やめて」
『……』
「やめてって」
『……』
引っ張られた。靴下が伸びた。
僕は靴下を諦めて、ギンの背中に手を置いた。
毛の中に、指が沈む。
昨日より、少しだけ、深い気がした。
——量ったら、3kgになっていた。
1日で、900g。
「……嘘だろ」
僕は、ギンを乗せた秤を、2度見た。
嘘ではなかった。
膝の上の綿毛は、確かに、昨日より1回り大きかった。上着の内ポケットに入れたとき、昨日は余裕があった。今日は、ぎりぎりだった。
「お前、どこまで大きくなるんだ」
『……』
沈黙。
そして。
『ユウマ』
——僕は、動きを止めた。
『ユウマ』
「……え」
『ねる』
2語だった。
『ユウマ』
『ねる』
——名前だ。
僕の名前を、この子は呼んだ。
うちの子たちは、誰も僕を名前で呼ばない。
アズキは僕を『ごはん!』と呼ぶ。ごはんをくれる存在、という意味だ。モチは『しろいの』。ヒバリは『ひと』。ソラとフクとクルミは『あのひと』。ススキは、そもそも呼ばない。
誰も、僕を名前で呼ばない。
それは仕方がない。名前という概念そのものが、獣にはない。
なのに。
『ユウマ』
『ねる』
「……うん」
僕は、声が変になっているのを、自分で聞いた。
「うん。寝よう」
僕は寝台に横になった。
綿毛が胸の上に移動してきて、そこで丸くなった。3kg。昨日より、少し重い。
窓の外で、雪が降っていた。
砦の下の階では、まだ大人たちが議論していた。星5つの神獣を、どう扱うか。誰が責任を持つか。教会がどう言うか。王がどう裁定するか。
僕は、その議論の内容を、1つも聞いていなかった。
胸の上の呼吸の間隔を、数えていた。
4秒に、1回だった。




