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21/86

#21 白いのが落ちていました

ケルンから北へ2日。


被害の出ている3村のうち、いちばん北にあるロヴィという村に、僕らは入った。


雪だった。


11月の終わりで、もう膝まである。日本の関東で育った僕には、それだけで異常事態だった。


村は柵で囲われていた。丸太を斜めに組んだ、簡単なやつだ。狼相手にどこまで効くかは疑問だが、無いよりはましらしい。


被害の状況は、思っていたより深刻だった。


「山羊が、19」


村長は、指ではなく小石を並べて数えた。この国の数え方だ。


「羊が22。仔牛が4。犬が2頭やられた」


「人は」


「人は、まだ無事だ」


「まだ」


「先週、水を汲みに出た婆さんが囲まれた。犬が2頭とも間に入って、その隙に逃げた。犬は帰ってこなんだ」


僕は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


——調査は3日続いた。


僕らは村の周囲を歩いた。足跡を数え、糞を集め、食い跡を見た。


分かったことは3つ。


1つ。群れは大きい。足跡の重なりから見て、40を超える。氷牙狼というのは本来、12、3頭で群れを作る種だ。40というのは、複数の群れが合流したということになる。


2つ。獲物がいない。


これは僕がいちばん驚いた。半径8km、鹿の痕跡が1つもない。兎の糞もほとんどない。雪の下を掘っても、鼠の巣が出てこない。


3つ。狼たちは、家畜だけを持っていっている。


村の食料庫は無事だった。人も襲われていない。婆さんを囲んだ一件も、囲んだだけで、犬が間に入った時点で退いている。


「星4つの指定を出す気か」とリーゼが領主の代官に聞いていた。


「出すしかあるまい」


「部隊100人だぞ。この雪の中を」


「王都はそう言っている」


——3日目の夕方。


僕らは、村の北の斜面まで調査に出て、その帰りだった。


日が落ちるのが早い。4時にはもう、空が紫になる。


雪原は、暮れると青くなる。


これも僕は知らなかった。白いものは、光がなくなると青くなる。日本で見た雪は、街の明かりがあったから、こんな色にならなかった。


風が止んでいた。


音が、まったくしなかった。


——そのとき、僕は足を止めた。


「ユウマ」


前を歩いていたリーゼが振り返った。


「どうした」


「……あそこ」


僕は、右手の斜面を指した。


風で雪が吹き溜まった、低い土手のようなところ。その根元に、白いものが落ちていた。


雪と同じ色だ。


なのに、はっきり分かった。


雪は、面で光る。あれは、塊で光っていた。


「なんだ」


「分かりません」


僕は歩いた。膝まで雪に沈む。20歩。


近づいて、見て、僕は膝をついた。


——綿毛の塊だった。


そうとしか言いようがなかった。


体長、20cmくらい。丸くなっているから正確には分からない。犬の仔のようでもあり、狐の仔のようでもあり、どちらでもなかった。


毛が長い。異常に長い。


銀白色で、光の当たり方で、青にも見える。


鼻先だけが、黒い。


——目は、閉じていた。


僕は手袋を外した。


素手で、雪の上のそれに触れた。


冷たい。


指が、毛の中に沈む。沈んで、沈んで、なかなか体に当たらない。それだけ毛が深い。


やっと指先が皮膚に届いて——僕は、息を止めた。


冷たい。


体が、冷たい。


生きているものの温度ではなかった。


「ユウマ! 何をしてる!」


リーゼが走ってきた。


僕は答えなかった。


代わりに、外套の前を開けて、上着の前を開けて、シャツの襟を引っ張った。


そして、その綿毛の塊を、シャツと肌のあいだに入れた。


「——ッ、冷たっ……!」


本気の悲鳴が出た。


冷たいというより、痛い。氷の塊を胸に押しつけたのと同じだ。心臓が、一瞬止まりかけた。


「馬鹿か!」リーゼが怒鳴った。


「拾うな! 何か分からんだろ!」


「はい」


「はい、じゃない! 出せ!」


「出したら死にます」


「お前が死んだらどうする!」


彼女は本気で怒っていた。


そして彼女は正しかった。ここは氷牙狼が40頭いる雪原で、僕が拾ったのは正体不明の獣で、体温を奪われて動けなくなったら、僕のほうが死ぬ。


僕は、シャツの上から、両手で押さえていた。


そこへ、後ろから声がした。


「リーゼ」


アーリアだった。


雪を漕いで、追いついてきていた。息が白い。頬が赤い。


彼女は僕の胸元を見て、それから、静かに言った。


「けれど、置いていけますか」


リーゼが、口を開けた。


開けたまま、2秒黙った。


それから舌打ちをして、外套を脱いで、僕の肩に叩きつけるようにかけた。


「走るぞ」


「はい」


「死んだら承知せんからな」


「はい」


——村に戻ったのは、日が完全に落ちたあとだった。


暖炉の前に、僕は座り込んだ。


シャツから出したそれを、乾いた布に包んで、膝の上に置く。


まだ動かない。


「息は」エステルが覗き込んだ。


「してます。すごく浅いですけど」


「《癒し》は」


「効きません。傷じゃないので。冷えは、温めるしかないです」


急に温めてはいけない。


これは覚えていた。低体温の生き物を火に近づけると、末梢の血管が開いて、冷えた血が一気に心臓に戻る。それで死ぬ。


だから、遠火で、ゆっくり。


僕は暖炉から3mの位置に座って、布ごと胸に抱いて、自分の体温で温めた。


1時間。


2時間。


——3時間が過ぎて、動いた。


膝の上で、綿毛が、震えた。


「あっ」


エステルが息を呑んだ。


僕は、村長に頼んで山羊の乳をもらってきていた。それを湯で2倍に薄めて、人肌に温める。


匙は使わない。


指だ。


指の先に乳をつけて、鼻先に持っていく。


——黒い鼻が、動いた。


2回。


そして、口が開いた。


舌が出て、僕の指を、舐めた。


「……飲んだ」


小さい舌だった。ざらざらしていない。仔猫の舌は棘があるが、これはなかった。犬に近い。


僕は指を乳に浸して、また出した。舐める。また浸す。舐める。


20回くらいそれを繰り返して、それから、腹の膨らみを確認して、やめた。


飲ませすぎるのが、いちばん危ない。


「……ユウマ様」


アーリアが、いつのまにか横に座っていた。


「上手ですね」


「本で読みました」


「本?」


「向こうの世界の。子犬の育て方の本です。……買ったんです、中学のときに。犬、飼えないのに」


僕は、それ以上言わなかった。


彼女も、聞かなかった。


——夜半。


家の中の火が落ちて、みんなが寝静まったころ。


僕は毛布にくるまって、胸の上にそれを乗せていた。


毛が、乾いてきていた。


乾くと、こうなるのか、と思った。


湿っていたときは束になっていた毛が、1本ずつ立ち上がって、体が2倍に膨れた。もう塊ではない。綿だ。手を乗せると、下に体があることが分からないくらい、綿だった。


指を沈めると、ずっと沈む。


第一関節。第二関節。手首まで入りそうだった。


そして、ようやく指先が皮膚に届いて——温かかった。


戻っていた。


僕は、天井を見ていた。


そして、頭の中で、そっと言葉を作った。


『大丈夫?』


『……』


沈黙。


『痛い?』


『……』


『腹、減ってる?』


『……』


——通じない。


森狼のときも、モチのときも、腹と痛みだけは通じた。それが通じない。


つまり、この子は。


『……』


僕は、少し怖くなった。


この子は、まだ、ほとんど何も知らない。


腹が減ったという概念も、痛いという概念も、まだ持っていない。生まれてからの日数が、短すぎるのだ。あるいは——ここまで冷えて、何も分からなくなっているのか。


僕は、両手で、その体を包んだ。


そして、言葉ではないものを送った。


言葉ではないというのは、正確ではない。僕は日本語で考えている。ただ、意味ではなく、状態を送った。


温かい、という状態を。


——長い沈黙のあと。


胸の上で、綿毛が、身じろぎをした。


そして。


『……ぽかぽか』


——僕は、天井を見たまま、動けなくなった。


1語だった。


たった、1語。


『……ぽかぽか』


もう1度、来た。


同じ1語。それ以外は何もない。この子が今、この世界について知っていることは、たぶんそれだけだ。


僕は、口の中で「ぽかぽか」と言ってみた。


日本語だ。


僕が送った状態を、この子は「ぽかぽか」という音として受け取ったのではない。僕の頭がそう訳しただけだ。分かっている。分かっているのに、なぜか目の奥が熱くなった。


——後頭部が、じんわり温かくなった。


テイムが、成立していた。


僕は、胸の上のそれに、手を置いた。


「ギン」


銀色だからだ。それ以上の理由はない。


『……』


名前は、まだ通じない。


「ギン。お前の名前だよ。これから覚えよう」


『……ぽかぽか』


「うん」


12体目だった。


——このとき僕は、自分が何を拾ったのかを、まったく分かっていなかった。


体長20cm。体重、翌朝量ったら2.1kg。


胸の上で丸まって寝ている、綿毛の塊。


外では、雪が降り始めていた。

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