#21 白いのが落ちていました
ケルンから北へ2日。
被害の出ている3村のうち、いちばん北にあるロヴィという村に、僕らは入った。
雪だった。
11月の終わりで、もう膝まである。日本の関東で育った僕には、それだけで異常事態だった。
村は柵で囲われていた。丸太を斜めに組んだ、簡単なやつだ。狼相手にどこまで効くかは疑問だが、無いよりはましらしい。
被害の状況は、思っていたより深刻だった。
「山羊が、19」
村長は、指ではなく小石を並べて数えた。この国の数え方だ。
「羊が22。仔牛が4。犬が2頭やられた」
「人は」
「人は、まだ無事だ」
「まだ」
「先週、水を汲みに出た婆さんが囲まれた。犬が2頭とも間に入って、その隙に逃げた。犬は帰ってこなんだ」
僕は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
——調査は3日続いた。
僕らは村の周囲を歩いた。足跡を数え、糞を集め、食い跡を見た。
分かったことは3つ。
1つ。群れは大きい。足跡の重なりから見て、40を超える。氷牙狼というのは本来、12、3頭で群れを作る種だ。40というのは、複数の群れが合流したということになる。
2つ。獲物がいない。
これは僕がいちばん驚いた。半径8km、鹿の痕跡が1つもない。兎の糞もほとんどない。雪の下を掘っても、鼠の巣が出てこない。
3つ。狼たちは、家畜だけを持っていっている。
村の食料庫は無事だった。人も襲われていない。婆さんを囲んだ一件も、囲んだだけで、犬が間に入った時点で退いている。
「星4つの指定を出す気か」とリーゼが領主の代官に聞いていた。
「出すしかあるまい」
「部隊100人だぞ。この雪の中を」
「王都はそう言っている」
——3日目の夕方。
僕らは、村の北の斜面まで調査に出て、その帰りだった。
日が落ちるのが早い。4時にはもう、空が紫になる。
雪原は、暮れると青くなる。
これも僕は知らなかった。白いものは、光がなくなると青くなる。日本で見た雪は、街の明かりがあったから、こんな色にならなかった。
風が止んでいた。
音が、まったくしなかった。
——そのとき、僕は足を止めた。
「ユウマ」
前を歩いていたリーゼが振り返った。
「どうした」
「……あそこ」
僕は、右手の斜面を指した。
風で雪が吹き溜まった、低い土手のようなところ。その根元に、白いものが落ちていた。
雪と同じ色だ。
なのに、はっきり分かった。
雪は、面で光る。あれは、塊で光っていた。
「なんだ」
「分かりません」
僕は歩いた。膝まで雪に沈む。20歩。
近づいて、見て、僕は膝をついた。
——綿毛の塊だった。
そうとしか言いようがなかった。
体長、20cmくらい。丸くなっているから正確には分からない。犬の仔のようでもあり、狐の仔のようでもあり、どちらでもなかった。
毛が長い。異常に長い。
銀白色で、光の当たり方で、青にも見える。
鼻先だけが、黒い。
——目は、閉じていた。
僕は手袋を外した。
素手で、雪の上のそれに触れた。
冷たい。
指が、毛の中に沈む。沈んで、沈んで、なかなか体に当たらない。それだけ毛が深い。
やっと指先が皮膚に届いて——僕は、息を止めた。
冷たい。
体が、冷たい。
生きているものの温度ではなかった。
「ユウマ! 何をしてる!」
リーゼが走ってきた。
僕は答えなかった。
代わりに、外套の前を開けて、上着の前を開けて、シャツの襟を引っ張った。
そして、その綿毛の塊を、シャツと肌のあいだに入れた。
「——ッ、冷たっ……!」
本気の悲鳴が出た。
冷たいというより、痛い。氷の塊を胸に押しつけたのと同じだ。心臓が、一瞬止まりかけた。
「馬鹿か!」リーゼが怒鳴った。
「拾うな! 何か分からんだろ!」
「はい」
「はい、じゃない! 出せ!」
「出したら死にます」
「お前が死んだらどうする!」
彼女は本気で怒っていた。
そして彼女は正しかった。ここは氷牙狼が40頭いる雪原で、僕が拾ったのは正体不明の獣で、体温を奪われて動けなくなったら、僕のほうが死ぬ。
僕は、シャツの上から、両手で押さえていた。
そこへ、後ろから声がした。
「リーゼ」
アーリアだった。
雪を漕いで、追いついてきていた。息が白い。頬が赤い。
彼女は僕の胸元を見て、それから、静かに言った。
「けれど、置いていけますか」
リーゼが、口を開けた。
開けたまま、2秒黙った。
それから舌打ちをして、外套を脱いで、僕の肩に叩きつけるようにかけた。
「走るぞ」
「はい」
「死んだら承知せんからな」
「はい」
——村に戻ったのは、日が完全に落ちたあとだった。
暖炉の前に、僕は座り込んだ。
シャツから出したそれを、乾いた布に包んで、膝の上に置く。
まだ動かない。
「息は」エステルが覗き込んだ。
「してます。すごく浅いですけど」
「《癒し》は」
「効きません。傷じゃないので。冷えは、温めるしかないです」
急に温めてはいけない。
これは覚えていた。低体温の生き物を火に近づけると、末梢の血管が開いて、冷えた血が一気に心臓に戻る。それで死ぬ。
だから、遠火で、ゆっくり。
僕は暖炉から3mの位置に座って、布ごと胸に抱いて、自分の体温で温めた。
1時間。
2時間。
——3時間が過ぎて、動いた。
膝の上で、綿毛が、震えた。
「あっ」
エステルが息を呑んだ。
僕は、村長に頼んで山羊の乳をもらってきていた。それを湯で2倍に薄めて、人肌に温める。
匙は使わない。
指だ。
指の先に乳をつけて、鼻先に持っていく。
——黒い鼻が、動いた。
2回。
そして、口が開いた。
舌が出て、僕の指を、舐めた。
「……飲んだ」
小さい舌だった。ざらざらしていない。仔猫の舌は棘があるが、これはなかった。犬に近い。
僕は指を乳に浸して、また出した。舐める。また浸す。舐める。
20回くらいそれを繰り返して、それから、腹の膨らみを確認して、やめた。
飲ませすぎるのが、いちばん危ない。
「……ユウマ様」
アーリアが、いつのまにか横に座っていた。
「上手ですね」
「本で読みました」
「本?」
「向こうの世界の。子犬の育て方の本です。……買ったんです、中学のときに。犬、飼えないのに」
僕は、それ以上言わなかった。
彼女も、聞かなかった。
——夜半。
家の中の火が落ちて、みんなが寝静まったころ。
僕は毛布にくるまって、胸の上にそれを乗せていた。
毛が、乾いてきていた。
乾くと、こうなるのか、と思った。
湿っていたときは束になっていた毛が、1本ずつ立ち上がって、体が2倍に膨れた。もう塊ではない。綿だ。手を乗せると、下に体があることが分からないくらい、綿だった。
指を沈めると、ずっと沈む。
第一関節。第二関節。手首まで入りそうだった。
そして、ようやく指先が皮膚に届いて——温かかった。
戻っていた。
僕は、天井を見ていた。
そして、頭の中で、そっと言葉を作った。
『大丈夫?』
『……』
沈黙。
『痛い?』
『……』
『腹、減ってる?』
『……』
——通じない。
森狼のときも、モチのときも、腹と痛みだけは通じた。それが通じない。
つまり、この子は。
『……』
僕は、少し怖くなった。
この子は、まだ、ほとんど何も知らない。
腹が減ったという概念も、痛いという概念も、まだ持っていない。生まれてからの日数が、短すぎるのだ。あるいは——ここまで冷えて、何も分からなくなっているのか。
僕は、両手で、その体を包んだ。
そして、言葉ではないものを送った。
言葉ではないというのは、正確ではない。僕は日本語で考えている。ただ、意味ではなく、状態を送った。
温かい、という状態を。
——長い沈黙のあと。
胸の上で、綿毛が、身じろぎをした。
そして。
『……ぽかぽか』
——僕は、天井を見たまま、動けなくなった。
1語だった。
たった、1語。
『……ぽかぽか』
もう1度、来た。
同じ1語。それ以外は何もない。この子が今、この世界について知っていることは、たぶんそれだけだ。
僕は、口の中で「ぽかぽか」と言ってみた。
日本語だ。
僕が送った状態を、この子は「ぽかぽか」という音として受け取ったのではない。僕の頭がそう訳しただけだ。分かっている。分かっているのに、なぜか目の奥が熱くなった。
——後頭部が、じんわり温かくなった。
テイムが、成立していた。
僕は、胸の上のそれに、手を置いた。
「ギン」
銀色だからだ。それ以上の理由はない。
『……』
名前は、まだ通じない。
「ギン。お前の名前だよ。これから覚えよう」
『……ぽかぽか』
「うん」
12体目だった。
——このとき僕は、自分が何を拾ったのかを、まったく分かっていなかった。
体長20cm。体重、翌朝量ったら2.1kg。
胸の上で丸まって寝ている、綿毛の塊。
外では、雪が降り始めていた。




